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7.「言っている意味がわからないよ、先生!」

「テストをクリアしたか。まあ、気弱そうなお前にしてはよく頑張ったじゃないか」

「それじゃあ、正式に旋風塾の生徒として認めてくれるんですね」

「ま、いいだろう。ただし今後はもっと厳しくいくぞ。覚悟しておけ」

 閃助は嬉しくて、指された人差し指を掴んで飛び上がった。途端に蒼矢が驚いて目を丸くする。そんな蒼矢の表情が珍しいのか、後ろでこっそり見ていた苺が噴き出した。キッと蒼矢は苺を睨みつける。

 住民たちがハンターと化した今、生徒たちはろくろく外を歩き回れなくなった。講師たちがそう言い聞かせたのだ。ただ、講師たちと閃助は町で神の信者として振舞っているので、講師たちは生徒集めを続けるらしい。ところが状況が状況なので、前より見つけるのは困難になりそうだと泉澄が洩らしていた。閃助のみ通学が許されたが、もっともまともに通学していた生徒は閃助だけだ。

 しかも閃助は、不幸なことに、筋原たちから神の信者だと思い込まれている。昨日の演説のあと、筋原からのメール攻撃がしつこいのだ。先ほどもまた一件来た。

『今日はお前と神様について語り合えて面白かったぜ! 他の奴らもお前のこと見直したって。お前大人しくて根暗だったから、前は影でお前のこと悪く言う奴とかいたんだけど、これも神のご加護ってやつだな。今はみんなお前は仲間だって認めてるみたいだぜ! また明日も学校来いよ!』

 はあ、と閃助は溜息をつく。結局、筋原の図々しいまでの押しに、負けてしまったのだ。演説終了後にすぐ送られてきたメールに、曖昧な返事を返したら、見事に誤解をされた。きっぱり神の言葉に否定を唱えればよかったのだろうが、面と向かって自分が信者たちの敵だと言える度胸はなかった。それを話したら蒼矢に「意気地なしめ」と罵られたが、もし筋原に面従腹背しているのがバレたら、百パーセント彼は閃助を捕まえようと、そして神に賞賛してもらおうと閃助をハントしに来るだろう。ともすれば、旋風塾の実態も暴かれ、皆が危険に晒されてしまう。結果的に閃助は旋風塾を守ったのだ。だから蒼矢も、それ以上閃助を非難する気にはなれなかったのだ。

 代わりに旋風塾の偵察係に任命された。信者だらけの学校に紛れて、自分も信者を装い、情報を集めてくること――ただし万が一裏切ったらそれ相応の罰を与えに向かうので覚悟するべし、と蒼矢に釘を刺された。あの蒼矢が直々に与えにくる罰だ、考えるだけで否が応でも寝返れないと誓った。

 信者の証としての十字架のペンダントを、外出時に身につけるよう義務付けられた。これは講師たちも外出する際につけているものらしい。信者でない者が圧倒的不利な立場に追いやられた今、ペンダントを首から下げていなければ一発で信者でないと疑われてしまうからだ。

 夏星は帰ってきた。しかし彼が塾にちょうど入って来たとき、塾内は修羅場と化していた。

 気だるそうな態度で夏星が塾の玄関に現れたのは午前四時。学校が終わって閃助が恐怖の学校を飛び出し、速攻塾へ駆け込んだ直後に事件は起こった。駆窓の外に広がる空が東雲色に染まっていく時間帯だった。

 靴を無造作に脱ぎ捨てたまま上がってくる夏星の肩に、美羽の肩が当たった。「おい」と機嫌悪そうに夏星は振り向いたが、美羽は構わず下駄箱から靴を出す。

「夏星くん」泉澄が安堵と困惑を交えた様子で名前を呼ぶと、夏星はそっぽを向いた。目線は、彼と背中合わせの形で靴を履いている美羽に集中している。

「美羽の奴は何処に行くんだ」と夏星は傍観していた国定に問う。国定は返答の代わりに肩をすくめてみせた。

「夏星、今まで世話になったわね」

「あ?」

 美羽自らが答えると、夏星だけでなく、その場にいた閃助たち生徒や泉澄も顔色を変えた。蒼矢と涼は冷静だった。

「何か私さあ、もう神から逃げ回ってるの疲れちゃったっていうか」

「何処に行くの?」泉澄が一歩、歩み出て問う。そんな彼女に、美羽はニヒルな微笑みを返して言った。

「聞かなくたってわかるでしょ? 泉澄先生ってほんと鈍感なフリをするのが得意よね」

 泉澄はみるみる目を張り、結局口を噤んでしまう。すると蒼矢が横槍を入れた。

「美羽、お前は元々講師の言うことを笑って受け流す奴だった。夏星のように反抗心を露わにしないし、国定のように思ったことをほいほい口に出しまくるタイプでもない。ただ」

 彼は黒々とした窪みの中に嵌った目を、細める。「腹の中は、割と黒い」

「あっはっは!」

 重たい静寂を美羽の快活な笑い声が裂いた。

「真っ黒じゃなくて割と黒いって表現、ぴったりよ、先生。台詞にかっこつけずあくまで的確なポイントを突くのが先生の言葉のいいところだった」

 若干、恍惚とした顔になる美羽。「先生は怖い見た目に反して、素敵な人だと思ってたわ。先生に見てもらおうって、こんなダサい三つ編みヘアをばっさり切ってさ、イメチェンしてやろうって考えたこともあったのよ。昔は私、ショートヘアの方が似合うって言われてたんだから」

「悪いが俺は少女に興味はないから、さっさと諦めて十秒以内に出て行け」

 蒼矢の言い草もかなり痛烈だが、美羽はこの展開をわかり切っていたのか、動揺を見せない。

「あーあ、最後までお世辞の一つも言ってくれないのね。それとも褒められ慣れてなくて困ってる?」

「何が言いたい」

「昨日の神の演説を聞いて、神の言うとおりやっぱり私たちは哀れなのだわって思ったの。だってそうじゃん? いつまでも神の言うこと聞かないで、神の言うことなんて信じまい信じまいと自分に暗示をかけ続けて、私たちは何を目的としてこんな場所に堪ってんの? 周りが信者だらけの状況で、私たちは何のために『授業』を受けるの? 下らないよ。下らないって気付いたの」

 美羽は三つ編みを解いた。カール状になった毛先がいくつも舞い、掻き分けるとボサボサ具合が露わになった。元々あまり潤いのなかった髪質を誤魔化すために、ずっと三つ編みに縛っていたのだ。

「私たちはただ、授業を受けて、狂ったカルト教団にのめり込まないよう先生たちに抑えつけられているだけ。そりゃ神に従ったらね、きっと自由な時間を制限されると思うの。神の手足になり、神のお気に入りになるために日々奮闘することになる。そういう心にされちゃうんだと思う。でも、旋風塾にだって自由はない。私は自由を求めてこの塾に入ったけど、ただ何もしないまま、狂った新緑町の現状を次々突きつけられるだけの毎日に、何の意味があるの?」

 美羽が悠々とトドメを刺しているうちに一分以上経過していた。蒼矢が苛立ち始めるのが空気でわかる。美羽は最後に後味の悪い爪痕を残すつもりなのだ。

「町全体を敵に回して反乱を起こす訳でもない、ただ情報を聞かせてもらえるだけで結局は指くわえて町の現状を眺めているのと同じよ。旋風塾に未来なんてないじゃない。こうやって何もしないで隠れていることが『自由』? 違うじゃん。なら私はせめてここより広い世界に出て行きたい。それにね、神の方へ行った方がよっぽど未来があるわ。ずっとここにいたまんまじゃ腐っちゃう!」

「自由も未来もないから、塾を抜けるのか」蒼矢は冷淡に吐き捨てる。そして時間短縮を計ってか、幾分早口に言った。「ああそうだ。旋風塾は神に反抗心を持つ者たちを匿う、言わば隠れ基地も同然だ。けどな、神についていっても同じなんだよ。自由も未来もない。それこそ、本当の自分を取り戻すことなんて出来ない」

 閃助は昨日の神の演説を思い出す。『光溢れる日』以前の自分たちは本当の自分たちではなかった――あの謎の言葉を。蒼矢は、あれの意味を暴けたのだろうか。

「言っている意味がわからないよ、先生!」美羽は髪を振り乱して喚く。「あんたたちはいつもそう、中途半端な情報を私たちに教え込んでいるだけで、重要なことは何一つ教えてくれてないんじゃない? 洗脳してるのはあんたたちも同じなんじゃないの?」

「違うよ!」泉澄が間髪入れずに叫ぶ。「私たちはただ、貴方たちを守りたいだけ! このまま神の支持が高まって、神の力が強まったら、大変なことになる!」

「じゃあその大変なことって何だよ?」

 さらに横槍を入れたのは国定だった。泉澄は硬直し、目だけが四方八方に泳いだ。

「ほら、答えられない」

 美羽がからかうように笑う。終始無言の涼はともかく、蒼矢さえも恨めしそうに国定を睨むだけで何も口出ししない。

 が、唐突に涼が、「今は言えない」と言った。

「今は、ですって? はぐらかしてるようにしか聞こえないっつーの」

「信じる信じないは君たち次第だし、僕たちは去る者追わずがモットーだ。蒼矢さんもよく言っているだろ。でもね、近い将来必ず、僕たちがこうも躍起になって君たちに神の恐ろしさを植え付けている意味がわかると思う。いや、その頃には美羽ちゃんは、僕たちのことなんて忘れているかもしれないけど。少なくとも」

 涼の糸目はピクリとも動かない。「そのとき、旋風塾に残っている生徒は、よくわかってくれると思う。そこでやっと運命の明暗が分かれる」

 何故だか閃助には、涼の言葉が心にずしんと圧し掛かった。

 妙な胸騒ぎがする。美羽の言うとおり、これも旋風塾流のマインドコントロールかもしれない。だが、涼の意味深な言葉には、やけに暖か味があった。深刻な話をしているにも関わらず、神の声より余程緊張が解された。ヒーリング効果のある1/fゆらぎが声に現れる人間がたまにいるらしいが、涼の低くて冷静な声はこうした特殊な効果があるのかもしれない。

 だが、美羽にはもう通用しない。

「私は何処へ行っても笑っていられる。私は自分を信じているから、その自信がある」

 美羽はスニーカーを出て行った。さーてコーラでも買って飲もう、と暢気な独り言を残して。自分を信じる……香梨も似たようなことを主張していた。閃助は心にぽっかり穴が空いたような寂しさにしばらく浸っていた――。







「ひゃっ、冷たい!」

「暗ーい! 閃ちゃん、梅雨の雨よりじめじめしてるぞ」

「そういえばもうすぐ梅雨の時期ですね。今、六月でしょ」

 首筋に当てられたペットボトルはコーラだった。また、三十分前の美羽の退会騒動を思い出して憂鬱になる。B列の最後尾の席に座って、閃助は頬杖をついていた。

 美羽はもう二度と塾には戻ってこない。恐らく、もう心が神の方へ動いてしまったのだろう。代わりに二日半近く戻らなかった夏星が、今では塾に顔を見せているが、やはり美羽が正式に塾を退会した事実は寂しかった。彼女もまた、胡散臭いほどの茶目っぷりを発揮して人々を魅了する神に、ついていってしまうのか。

 そう、神はただ懇々と人々に奇妙な説法を教え込むのではなかった。またカルト教団でたまに見られる伏せ拝や詠唱を強制する訳でもなかった。むしろ信者たちは神の人懐っこい性格と、人の心を擽るような巧みな言葉選び、そして力強さのある訴えかけに、勝手に魅了されただけだ。神というよりはアイドル的存在だ。しかしあれなら、同級生の男子たちも熱狂的に支持する理由がわかる。そして時折、切迫のあるローボイスを使いこなしているおかげで、そのギャップが女性ファンを集めている理由かもしれない。

 だが、溌剌とした口調でも、演説内容が明らかに普通ではないのと、それがボイスチェンジャーの声でつらつら語られているというのは、やはり不気味だった。一般人として紛れていたら恐らく悪い人には見えないだろうが、ああいう人々を惹きつける雰囲気のある人間が宗教の上の立場に立つと、底知れない才能を開花させてしまうようだ。かつて塾の初回の授業で蒼矢や苺が証言していたように、言葉に何らかの魔力を染み込ませているのだろうかと思ったが、その比喩表現は些か明確性がない。それともボイスチェンジャーに何か仕掛けが……。

 考えても考えてもわからない。閃助の口から溜息が洩れた。

 するとコーラを一瞬だけ口に突っ込まれた。汚らしいとわかっていてもコーラを吐き出さずにはいられなかった。むせ返っていると、苺が眉を吊り上げて指を指してきた。

「溜息はだめだめ、わたしの気持ちも落ち込んじゃう! 溜息つくと幸せ逃げるって言うでしょ。コーラ飲んでゲップしよう。ゲップはいっぱい食べていっぱい飲んで幸せな気分のときに出るでしょ? ゲップは幸せの象徴なの」

 閃助はぼうっと苺を見上げていたが、苺が少年のように笑うと、受け取ったコーラのキャップを開けて一気飲みした。途中でゲップをしながら咽た。

「きたねえ、馬鹿」A列の奥に篭っていた夏星が聞こえよがしに悪態をついてくる。ごめん、と大声で返した。急いで机をティッシュで拭いた。

 最後に見た美羽のニヒルな笑みが脳裏に焼きついている。そして、彼女は蒼矢に密かに恋慕していたのかと知った。

 当の蒼矢は隣のC列の席で、またノートに何か書き込んでいる。こっそり後ろから覗き込んでみると、ノートの一ページ目を開いていた。いくつもの名前が書かれている、恐らく生徒の名前だ。蒼矢が美羽の名前の上に赤ペンで横線を引いたのを、閃助は見た。美羽以外にも何人かの名前が赤ペンで消されていた。本当に美羽は塾を退会してしまったのか。閃助は水溜りの中で膝を抱えるような寂しさに浸った。

 唐突に蒼矢が振り返って閃助を見る。「暗澹とするな。苺の言うとおり、一人がしょげていると周りも意気消沈する」

「でも、やっぱりしばらくは寂しいし、美羽さんが心配です」

「過ぎたことは仕方ないって」国定が閃助の肩を叩く。「俺もここへ来てから、何人も塾をやめていく奴を見た。美羽だってこれからは昨日の駅前の群集の一人になるんだぜ。俺たちとは違う世界の住民になるんだ。気にしたって無駄だ」

「……はい」

 閃助は大人しく引き下がった。正式な旋風塾の生徒に認められたのも今日のことだと言うのに、入会したてほやほやの自分が下手に口出しできる立場ではないのだ。こうやっていつも閃助は自分の意見を主張出来ずにじっとしている。

 どうでもいいが「入会」という言い方と「入信」という言い方は若干似ているところがあるな、と思った。旋風塾の講師たちも生徒をマインドコントロールしているんじゃないか――美羽が残した主張が、何故だか閃助の頭にこびりついて離れなかった。はっとして、僕は何を考えているんだとかぶりを振る。

 蒼矢のペンを走らせる手が止まった。彼はしばらくノートの一ページ目を眺めて、誰にも気づかれないように溜息をついた。閃助だけがその掠れた吐息を聞いていた。





 十七時から閃助は授業があった。今日の担当講師は泉澄だ。

「宜しくね、閃助くん」泉澄は水色のファイルを腹の前に抱えて、ふわりと微笑んだ。閃助の胸が一瞬だけ高鳴る。彼女の表情からは母の腕に包まれているかのような暖かさと癒しを感じる。閃助の母を連想させる嫌悪感は一切なかった。母と呼ぶよりは、女神の暖かさと言うべきだろうか。

「前回は蒼矢に何処まで教えてもらった?」彼女は閃助の席の隣に丸椅子を置いて、腰かける。

「ええと、『光溢れる日』から地獄の一週間まで詳しく……いや、地獄の一週間についてはあまり触れられませんでしたね。もう知る必要はないって」

「そうね。今の新緑町に比べたら、別の意味で危険な状況だったけど、もしかしたら近いうちに地獄の一週間と似たような状況になるかもしれないから――」

「えっ?」

「話さなくてもいずれ、貴方も経験するときが来るかもしれない」

 伏しがちだった瞼をゆっくり押し上げる泉澄。くっ、とこちらが息ついてしまうほど真剣な眼差しだった。

「どういうことですか」

「私たちは昨日の演説でまた一つ、情報を手に入れていたの。みんなが寝ている昼間に蒼矢と涼と意見を交換し合って、私たちなりに結論を出した。信者たちは今、神の命令を受けて、神を信仰しない者たち――つまり私たちを、血なまこになりながら捕らえようとしている。学校でも感じなかった? 学生たちが周囲を忙しなく気にしているのを」

 まるで見ていたかのように語る泉澄を怪訝に感じたが、確かに彼女の言うとおりだった。

 今日は授業を中断してまで神の話題で盛り上がることはなかったが、逆に皆が周囲に目を光らせていた。友達や交際相手にさえ、やけに今日は皆が警戒気味に接している気がした。閃助もその張り詰めた空気に溶け込むのに必死だった。ただ、閃助は元々大人しいイメージがついていたから、いつも通り控えめな態度で過ごしていれば特に目立たなかった。閃助が信者側に回った話は一瞬にしてクラス中に駆け巡っていたため、むしろ歓迎された。

 香梨は閃助に一瞥もくれなかった。

 夜中の記憶を巡らしたあと、意識を一回転させて現実に戻る。「つまり、また信者たちは地獄の一週間のときのように狂気的になり、しかも今度は僕たちを捕まえるためになりふり構わず町中で暴走し始める可能性がある、と?」

「うん。誰も彼もが周りを信じられなくなって、また前みたいな小規模の紛争状態が起きる可能性があるわ」

「そんなことが起きたら、また町は混乱状態になってしまいます」

 地獄の一週間再来……ひょっとしたら蒼矢はこの可能性をも見越していたから、閃助に地獄の一週間について話す必要はないと判断したのかもしれない。いや、今度は一週間どころではなくなるのではないか。それこそ、信者でない閃助たちが全員捕らえられるまで、暴走が続く可能性もある。

「閃助くん、貴方には何としても、貴方が信者でないことを他人にバラされてはいけない。もしバレたら神の下で拷問されて、旋風塾の存在を吐かざるを得なくなると思う。塾には苺ちゃんや国定くん、夏星くんもいる。彼らを危険な目に遭わせないためにも、貴方には信者でないという真実を死守してもらいたいの」

 泉澄の真剣な表情は、胸に迫るものがあった。少し潤んだ瞳をまっすぐ向けてくる様は、しかし演技とは思えなかった。その期待と心配を半々に織り交ぜた表情に、閃助はつい頷いてしまう。

「わかりました。学校でも隠し通しながら情報集めに協力しますし、塾の情報も外部へ洩らしません」

 泉澄は安堵して、「ありがとう」と微笑んだ。彼女が純真なのは本当だろう。悪い言い方をすれば、かなり単純な性格とも言えるが、素直に信頼されていることに閃助は喜びを感じた。彼女たちの期待に応えるためにも、絶対に失敗はしてはならないと誓った。

 だから閃助は、彼女にある悩み事を打ち明けた。

「あの、泉澄先生。相談したいことがあります」

「相談? なあに?」

「本人のためにも、出来れば蒼矢先生や涼先生には秘密にしてもらいたい話なのですが――僕の学校のクラスに、僕と同様に信者のフリをしている女の子がいるんです」

 泉澄は驚いていた。

 香梨だけは、閃助が信者でないのを知っているただ一人のクラスメートだが、秘密を握っているのは閃助も一緒だ。香梨も信者に紛れて暮らしてはいるが、実は信者ではない。昨日の神の演説で美羽と同じく心を動かされていなければの話だが。

「その子がどうしたの」

「うーん、何ていうか……何から話せばいいのかな」

 自分の数少ないボキャブラリーと、話の構成力のなさはこの際無視した。とにかく湧き上がる思いから口に出した。

「彼女は寡黙で、優しい子です。あまり話したことはないんですけど、このあいだ偶然町で会って、お互い神の信者でないことを打ち明けて。彼女も周りから信者の一人だと勘違いされているらしく、しかし神の思想にはまったく興味がないようでした」

「その子って髪の長い、ポーカーフェイスの女の子?」

「はい」

「貴方の学校と同じ制服を来た、そんな雰囲気の女の子を見たことあるわ。蒼矢が何回かしつこく塾に誘ったみたいだけど、全部断られたって」

「彼女も旋風塾に何度かスカウトされた経験があると証言していました。名前は香梨ちゃんと言います。でも香梨ちゃんは、自分以外は何も信じないって言っていました。神の思想も理解出来ないし旋風塾の世話になりたくもない、自分だけを信じていくって」

 泉澄は暫し考え込むと、「蒼矢も嘆いていたわね。たまに町でフラフラしているのを見かけるけど、何度声をかけても突っぱねられる女子高生がいるって。しかも、たまに何故か突然にやにやし出すって」

「あ、確実にその子です」香梨の奇怪な笑い方は誰が見たって寒気がする。

「僕は、彼女が心配なんです」

 単刀直入に言ってしまうと、何だか気恥ずかしかった。「そりゃ彼女の生き方ですから、部外者は何も口出ししちゃいけないのはわかっています。ましてや、ほとんど会話したことがないのに。でも」

 信者だらけのクラスを思い出す。皆が神の偉大さを崇め、演説で神が自分の質問に答えてくれたなどと自慢し合い、挙句の果てには顔も知らぬ神に対しての恋バナ。そもそも恋バナって何だ恋バナって、と閃助はクラスメートの女子たちに心の中で突っ込んだものだ。とにかく、学校の至る場所で、神の話題が沸き起こる。閃助はそれに押し潰されそうだった。周りには筋原たちがいても、心はずっと一人ぼっちだ。

「せめて、心の拠り所がほしい。今この状況を支え合っていけるのは、学校では、クラスメートの香梨ちゃんしかいないんじゃないかって思うんです」

「どうしてそう思ったの?」

「そもそも一回彼女と話したとき、僕はもう少し彼女をよく知りたいと思いました。彼女は笑い方は不気味だけど、心優しいし、僕と同じで大人しい。性格が合わないことはないだろうし、周りに嘘をついている同士、仲良くしたいんです。でも……女の子と、どうしたら仲良くなれるか、わからなくて」

 これではただのお悩み相談だ。授業とはまるで関係がない。だが、相手が泉澄だからこそ話せる相談だった。それに、情報集めに協力する身として、やはり学校に通う楽しみの一つでもなければいつまでも平然を装ってスパイ活動など続けられない。概ねそのようなことを泉澄に話してみると、彼女は恋バナを聞いた女子高生のように顔を輝かせた。

「塾生かそうでないかの関係なしに、同じ立場の者同士で支え合っていきたいって考えるのは自然なことだと思うわ。それに、お互いのためにもなるはず」

「ただですね――相手は僕を好きじゃない気がするんです」腕組みをして閃助は唸る。

「好きじゃない、ねえ」

「あっ」少々語弊のある言い方になってしまったのに気付き、慌てた。「いえ、僕は彼女に変な意味で好きになってもらいたいとかじゃなくてですね。僕も別に友達になりたいだけで、それ以上の感情は持っていませんし」

「わかってるよ。そうどぎまぎしないで」

 笑われてしまった。閃助は恥ずかしくて俯く。すると泉澄が「あくまで私個人の意見だけど」と些か自信なさげに言った。

「一概には言えないけど、女の子は男の子とはまた違った繊細さがある。私が思うにね、女の子って周りより自分のことを気にするのよ。ファッションやメイクだってそう、男の子に見てもらいたいっていう願望より、自分を綺麗にして自信を持たせるための技なの。コミュニケーションにおいても、女の子はまず相手より自分の態度を考える。相手と喧嘩したって、私は悪くないって言い聞かせたり、時には私の言い方がまずかったかもしれないと自分を責め立てる。男の子だったらきっと、自分の言い方を卑下するより相手が傷ついていないだろうかって心配をすると思うのよ。人はみんな男らしさ、女らしさ――つまりジェンダーによって人格を構成されているところがあるって私は思ってる。男は何をしなくても自分に自信を持っていて、自分に対する余裕があるから、女の子のことを気にかける。色々な意味でね。逆に女の子は相手の反応を窺がって、どれだけ自分を磨けば相手に見てもらえるかどうかを考えるの。つまり自分磨きを無意識のうちに欠かさない」

 一旦泉澄は言葉を切り、照れくさそうに頬を搔く。「昆虫や動物の多くが、オスがメスを選んで交尾したがるように、人間も男が女を選ぶのが、ある意味で人間に本能として植え付けられた宿命かもしれないわね。男は捕まえる。女は捕まるのを待つ。でも、女の子だって押しに弱い子ばかりじゃない。一人で生きていけるような女の子はたくさんいるわ。だって女の子は妊娠時の陣痛や出産の痛みにも耐えられるほど、強い強い生き物なんだもの。だから閃助くんはまず、その香梨ちゃんって子が周囲に対して張っているバリアを壊す必要がある」

「と言いますと?」

「長々喋っておいてこんなアドバイスをするのは拍子抜けしちゃうかもしれないけど……やっぱり、積極的に話しかけてみるのが一番いいんじゃないかなあ」

 泉澄は苦笑いを浮かべた。閃助もつられて「そうかもしれません」と苦笑する。

「閃助くんはとても思いやりがあって純粋で、優しい子だよ。彼女が心配な気持ちや、彼女と仲良くなりたい願望を揺らがすことなく接していけば、おのずと彼女の心は開かれるかもしれないわ。人の思いって、言葉に出さなくても行動や表情で何となく相手に伝わってしまうものなの。だから、素直にいつも通りの態度で閃助くんが話しかけ続ければ、香梨ちゃんも貴方に親近感を覚えるかもしれないわ」

「もし、僕が香梨ちゃんに心無い言葉を言ってしまって、傷つけたらどうしましょう」病弱で人付き合いの経験が人並み以下の閃助は、あまりコミュニケーション力に自信がなかった。

「そしたら、素直に謝ればいいだけだと思う。貴方が本気で香梨ちゃんに申し訳ないと思っていれば、自然に口調や顔色には出てしまうから」

 閃助はびっくりした。自分は常に、自分さえも知らない態度を他人に見られて生きてきたのだと悟った。だが確かに閃助も、時に相手の嘘を見破ったり相手の内なる感情を察してしまう経験がある。それは自分の勘のよさによるものだとばかり思っていたが、どうやら人間は皆が思っている以上に察知能力が高いらしい。

 泉澄の話を聞いて、閃助は失礼を承知で聞いてみた。「もしかして泉澄先生は、夏星くんに心を開いてほしくてずっと彼に干渉しているのですか?」勿論塾内に響かないよう、小声で聞いた。

 すると泉澄は虚を突かれたらしく、顔を強張らせた。だが観念した様子で肩を落とす。

「夏星くんは、素直じゃない子なの。私が雨の中、パチンコ屋の看板の下で膝を抱えていた彼を見つけたときもそうだった。『俺には行く場所がない、ほっといてくれ。ほっといてくれないのなら』……」

「くれないのなら?」

 微かに肩を震わせる泉澄に、「あの、言えない内容なら無理しなくても」と閃助はつかさず手で制する。すると泉澄はその手を掴んだ。汗ばんだ泉澄の体温が、閃助の口を噤ませる。

「『ほっといてくれないのなら、殺してくれ』って」顔を上げた泉澄と、顔面蒼白になった閃助の視線が交差する。

「夏星くんは隙あらば、自決しようとしているの。だから私は一時でも彼から目を逸らしたくない。もっと言えば――」泉澄は自嘲気味に微笑む。「彼の帰る場所になりたいって思ってる」


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