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5.「神は人間を助けてくれない」

 塾に着くと、また美羽は頬袋を膨らませて何か食べていた。甘ったるい大学芋に匂いが席の付近を漂っている。ふぐう? と言いながら美羽がフォークに刺した大学芋を差し出してきたが、閃助はかぶりを振って断った。

 傍で座っていた苺が苦笑している。閃助は思う。苺は大人びた顔立ちに反して幼い言動が目立つが、実は、口には出さないだけでそれなりにモラルがあるのかもしれない。昨日も、他の生徒が授業している側でおやつを食べていた美羽の行動を、「ちょっと食べ過ぎじゃない?」とさり気なく指摘していた。あれは、美羽の体重増加を考慮しただけの発言ではなかったのではないだろうか。

 F列のさらに奥には、壁一面を覆い尽すアイボリーブラックの本棚がある。神が現れた一ヶ月の間で収集したとはとても思えないほどの資料の数だ。ファイルの背表紙には様々なタイトルがつけられていた。「雪時市」「寺崎村」「花松地方大地震」「安曇大学」――閃助にも見覚えのある単語がいくつかあった。

 たとえば花松地方大地震は、マグニチュード七,七を誇り花松という地方一帯で大規模な損傷を残した十二年前の大地震だった。死傷者、行方不明者は二千人に上った。安曇大学は、もう三十年以上も前に教授の一人が講義中に銃で受講者全員を撃ち殺し、閉鎖に追い込まれた大学とした有名だ。

 何故あのような事例の資料があんなに収納されているんだろう、と口に出しそうになったが、涼が軽く本棚の整理をしていたようなので控えた。

 閃助は狭い塾の中を見渡す。「他の人たちは?」

「いずみーは町へ情報収集、蒼矢は事務室でご飯食べてるよ。国っちは次は空きだから、どっか遊びに行ってるみたい」苺は美羽より閃助と話すときの方が、楽しそうだ。

 時計は零時半を指していた。予定より香梨と長く過ごしすぎたようだ。あと三十分で蒼矢との授業が始まるのだと思うと、緊張してきた。

「なっちは昨日は、帰ってこなかったの」

 苺の声のトーンが切なげになった。まるで、快晴に浮かんでいた雲が、急に湿気を含んでどんよりと重くなったかのような変わり様だった。なっちとは、夏星のことだったはずだ。閃助も心配になった。もしかしたら泉澄は、新規生徒よりも夏星を探す方を優先して、町中を歩き回っているのかもしれない。あるいは、走り回っているか。

「泉澄と夏星の関係は、前途多難だね」他人事のように美羽はペットボトルのジュースのキャップを捻る。「あ、今の台詞ちょっとよくなかった?」

「よくない!」突如、事務室のドアが勢いよく開き、鬼の形相をした蒼矢が出てきた。

「何、蒼矢先生」

「夏星も国定も――。一人で町を放浪しているなど、今の町の状況下でよく出来たものだ。特に夏星は喧嘩っ早いが、小柄で体重も軽い。神の信者にナンパされて拉致監禁されたら終わりだぞ。一度奴らの本拠地にぶち込まれたら、何をされるかわかったものではない。信者たちから話を聞く限り、懇々とマインドコントロールされ、神の側近が食べるときも眠るときも片時も離れず完全にそいつに信仰心を植え付けるまで、耳元で囁き続けるのだ。そう、誘惑の囁きをな」

「だいぶ話に尾びれがついている気がするんだけど」

「うんうん、だって神の側近なんかに一般人が容易に近づけるの? その情報のソース、もしかして半分は蒼くんの頭じゃない? つまりつまり蒼くんの妄想入ってない?」

「講師の言うことを信じないというのか、これだからユトリセダイとやらは」

「ゆとり世代っていうのは、学校の勉強内容を従来の詰め込み教育から学習時間や内容を削った、その名のとおり学校生活にゆとりを持たせる教育方針のもとに育った世代って意味で、大人への反発心が高いとかそういうことはないと思います」

 閃助が真面目に答えると、蒼矢が黙れと言わんばかりに閃助の額を指で小突く。

「とにかく、泉澄が連れて帰ってくれれば一段落なんだが」

 蒼矢は携帯を取り出し、泉澄に電話をかけた。その黒い携帯が所謂ガラケーで、所々色の剥がれた大分古いものであるのに閃助は驚いた。

「随分古いんですね、携帯」

「ああ、使えるまで使う主義だからな。携帯も時計も」

 すると泉澄が電話に出たらしく、蒼矢はそちらに集中してしまう。

 閃助と苺と美羽は、お菓子をつまみながら軽く雑談して時間を潰した。やがて蒼矢が電話を切ると、小さく溜息をついた。

「やっぱりなっち見つからないって?」

「泉澄の奴が」蒼矢は苺の質問に答えず、「泣いていた」淡々とそれだけ呟いた。







「さて」

 蒼矢が丸椅子に腰掛ける。その手にはベージュ色のノート。蒼矢のノートかもしれない。携帯と同じようにボロボロで、使い込まれているのがわかる。B列の三番目の席、つまり一番後ろの席に、閃助は膝に両手を乗せて蒼矢を見ている。

「二回目の授業だ。言っておくが俺は泉澄と違って余計な雑談で時間を潰す真似はしないし、涼みたいに必要最低限の話しかしない訳でもない、この一時間を残らずびっちり、俺とお前のために使い尽くす。俺が一方的に話をするだけではない、お前の意見もきちんと聞かせてもらう。限られたこの一時間以内なら、俺の言葉一つひとつに関してゆっくり吟味して、意見を搾り出してもらって構わない。ただしあまり時間はかけるな」

「一コマにおける授業内容のノルマはあるんじゃないですか?」

「お前、俺の言葉を遮るな! ある程度こちら側でノルマを決めているのだから、考えるのにあまり時間を費やすなと言ったんだ。時間はないんだぞ。さあ、とっとと始めるからな。まずは俺からだ」

 むちゃくちゃに矛盾している気がするが、とにかく蒼矢が必死なのはわかった。

 普通の個別指導の塾とは違う緊張感だ。一人の講師が二、三人を受け持つのではなく、完全なる一対一である。蒼矢の口から一体どんな重く厳しい町の情報が飛び出すのか、少し慄いた。しかし、敢然と立ち向かい、議論をしなければならない。授業前に苺から、「頑張って」と背中を叩かれた。花咲くような笑みを得意とする苺も、そのときだけは年相応の頼もしいお姉さんに見えた。

「まずはお前の知らない真実からだ。五月七日から十三日の、所謂『地獄の一週間』の発端を話そう」

「地獄の一週間って言い方が中二病臭いですけど」

「神がそういう名称で呼んでいるんだから悪口は神に言え」

 平然と口にしている蒼矢もなかなか中二病臭い。

「アレですよね。人々が獣のように暴走し、紛争状態になったというやつですか」

「そうだ。正確には本当の紛争のようにゴテゴテの機関銃をぶっ放したり、爆発が頻繁に起きたりだとかそこまで野蛮なことをする奴はいなかったがな。だが、獣のようにとは言い得て妙だと評価してほしいところだ。新緑町の人間たちは皆、本能のままに食料を奪い合い、自分の家――つまり縄張り――を死守し、縄張りを拡大しようと近隣の家族同士で争い合った。職場にも学校にも、人なんていなかっただろう、皆それどころじゃなかったからな。ある意味では、今より、人々は狂っていた」

「どうして、そんなことに」

「五月七日午前に町を包んだ光がその要因だ。が、明確な因果関係はわからん」

「断定的ですね」

「俺の予想は外れない」自信たっぷりに宣言する蒼矢の声には、確かに芯の通ったものがあった。

「光、ですよね。それ、多分僕も見ました」

 おずおずと閃助が言うと、「何? 何故もっと早く言わなかった」と凄まれた。

「いえ、あの、あまりにうろ覚えだったもので、もしかしてあれは夢だったのかもって思っていたんです。でも、『光溢れる日』でしたっけ、それがあったのは間違いないんですね?」

 口に出すと恥ずかしい台詞に囲まれて、ああ、と呻きそうになった。

「そうだ、それが五月七日だ」

「ええと、まあ……僕は、その光に飛び込んだんです、多分」

「飛び込んだ?」

「誰かを助けるために」当時の、めちゃくちゃな思考を思い出して閃助は自分自身に慄く。「でも、多分本当です。助けなきゃっていう気持ちだけは、覚えているんです」

 閃助は、矢継ぎ早に言葉を浴びせてくる蒼矢とは対照的に、一言一言控えめに発している。億弱さを隠し切れていない態度が、蒼矢の神経に触れなければいいのだが。蒼矢は少し考え込むと、「助けなければならない、という気持ち以外に、何かそのとき抱いていた思いはないのか?」と些か冷静になって問うてきた。

「とにかく、めちゃくちゃに必死だったと思います。急がなきゃ、その人が僕の目の前から消えてしまうって」

「お前が助けようとしていたのは誰だ」

「それが思い出せないんです」

「助けたいほど大切な奴を思い出せない、と来たか」

 呆れられただろうか、と思い、閃助は俯く。しかし蒼矢は責め立てなかった。彼の、微かに煤けた匂いのするノートを机に広げられ、「これを見ろ」とある一箇所の文字列を指で示された。ページの罫線から外れた上の部分には、「五月七日 光」とだけ殴り書きされているが、罫線の中の文字は打って変わって丁寧な文字で記されている。表の右側には、人の名前が書かれていた。それもここの生徒、苺や夏星、美羽、国定の名もある。彼女ら以外にもいくつか名前があるが、恐らく今はここにいない元・生徒たちの名だろう。

 どうやら、生徒たちの光を見た瞬間の記憶をまとめたデータらしかった。ほぼ全員が、眩い光が差してきたのを覚えているだけか、光などまったく覚えていない、のどちらかだった。ただ一人、夏星の欄だけ、「光が差した瞬間に何故だかわからないが悲鳴を上げていた」と記述されている。悲鳴、の二文字を見て、閃助の腹の底から冷たい痛みが湧き出てきた。

「閃助、光が差した瞬間の記憶をより濃く保持しているのはお前と夏星だけだ。それで」

「怖かった」

「何?」

 蒼矢の言葉を遮り、閃助は鈍く痛み始めた腹を抱える。「そうだ、ちょっとだけ思い出しました。僕は誰か大切な人を助けたいと同時に、すごく怖かったんです。その光自体が怖かったのか、光によって助けたかったその人が消えてしまうのではないかと恐れたのかまでは、覚えていませんが。夏星くんが悲鳴を上げたのと同じで、僕も叫びたいほど恐れ戦いていた。と、思います」

 何故怖いと思ったのか、理由までは思い出せない。ただ、あのとき感じた恐怖感の切れ端が、ぼんやり浮かび上がったのだ。やはり自分はショックで記憶を失っているだけで、あの光が何だったのかを、知っていたのかもしれない。知っていたはずの記憶が抜け落ちているのもまた、身を凍らせる要因の一つだった。自分は何を知っていて、何を体験したのか。いっそ脳みそを取り出して思いっきりシェイクすれば何か重要な手がかりが落ちてくるのではないだろうか。思い出せないという感覚が、やけに気持ち悪かった。

 蒼矢は黙って閃助を見下ろす。シャツの胸ポケットからペンを出し、「なら、その情報も付け加えておこう」と淡々とその場で書き込んだ。一見冷めた対応だったが、机の上のノートにペンを滑らす蒼矢の横顔があまりに険しかったので、閃助はびっくりする。

 前髪が垂れたせいで余計に目元に影が落とされた蒼矢の横顔。鼻筋は高かったが、女性を魅了するには何かが欠けている顔をしていた。つまり、こちらの胸をざわつかせるぐらいに険相な顔つきだった。自分は何かまずいことを言ってしまっただろうかと閃助は危惧するが、顔を上げた蒼矢は、またガラリと雰囲気が変わっていた。

「ところで、先ほどはよくも俺の言葉を遮ってくれたな、生意気な小僧め」

 いつもの鋭い視線を浴びせてくる彼に戻っていた。閃助は少しほっとする。

「いつも人の邪魔ばかりしやがって。待てのできない犬か」

「すみません、急に思い出したもので。でも待てされた覚えはありません」

「見かけによらずいい根性をしているなお前は本当に」早口で閃助に罵倒を浴びせかけた蒼矢だったが、時間の無駄を認識したせいか何故か凄い剣幕で舌打ちされた。

「とにかく、詳細ではないが光を浴びたときの記憶、並びに感情を覚えているのは現時点でお前と夏星だけだ。それで、光を浴びたとき、お前は何処にいたかは覚えているか?」

「何処にいたかまでは覚えていません。でも、一ヵ月後に目覚めたときは、自宅のベッドにいました」

 元々床につきがちの自分のことだから、もしかしたら光を浴びたときも部屋にいたかもしれない、と蒼矢にそっと伝えてみる。すると、「ではお前の助けたかった人物はお前の部屋にいたのか?」と逆に質問されたが、どうもそんな気はしなかった。結局のところ、何処まで考えあぐねても、光に関してはここまでが限界だった。

「記憶に関して、もう少し聞きたいところだが、それは後に回そう」

 ノートのページをめくる蒼矢は、深い沼のようなクマの中に窪んだ目玉をぎょろぎょろさせながら、文字に目を通していた。

「お前はこの一ヶ月の記憶がないと言ったな」

「はい」

「ならなお更、地獄の一週間について知らない方がいい。それに、知る必要などもうない。確かにあの一週間は阿鼻叫喚の地獄絵図だったが、より問題なのは新緑町の現状――神という存在が現れ、そいつに町の人間たちのほとんどが陶酔してしまったという事実だ」

「えっ」閃助は、まさか地獄の一週間についての学習をすっ飛ばされるとは思っておらず、驚いた。過ぎた事象、正確には過ぎた狂気の事象は、知っても無意味だと蒼矢は判断したのだ。まあこのことは蒼矢以外の講師に当たったときに改めて聞いてみようと思い、閃助は大人しく頷いた。


「次はいよいよ神について、ですか」

「いやその前に、神の信者だ」

 蒼矢がもったいぶっているつもりはないのだろうが、一番肝心な話題を遠ざけられて若干拍子抜けした。

 しかし、冷静に考えれば、町中をうろついている自分たち以外のほぼすべての人間が、神の手の内にあるのだ。神の信者を知ることは、今の自分に一番身近に無数に蔓延っている、(悪い言い方をすれば)危険分子を知るという意味だ。

 神という不可解な状況を作り出した源泉がさらに生み出したウィルス(信者)が、今、新緑町の人口のおよそ九十七%を占めている、と蒼矢は言った。つまり新緑町住民のほぼ全員であり、実質、旋風塾に居座るメンバー以外は全員信者になっていると言って間違いない。ウィルスはイコール信者だ。ムードと思想を感染して蔓延させていくところは、確かにウィルスと呼ぶに相応しい。しかしあまりに信者たちを卑下しすぎな呼び方でもある。

「いいか、閃助。出来ることならもう学校へは行くな」厳しく蒼矢は言った。「神に従ったところで何の得もない、ただ自分は幸福で心穏やかに生活出来ていると錯覚するだけだ。それは錯覚なんだ。奴はロクな人間じゃない。それどころか、化物だ」

 心なしか、蒼矢が「化物」の単語を放った途端に塾全体が静まり返った気がした。確かに信者たちは異常すぎるし、神が町の人間たちをどのような手口で取り込んだのか閃助には想像もつかない。彼は無宗教の人間が大半の日本の、小さな新緑町という町の人間たちの心を、たった一瞬で掌握した。確かに、ふざけすぎている。

 しかし蒼矢が何故、そこまで信者たちを目の敵にするのかはいまいち理解出来なかった。神だけを疎ましく思うならまだしも、だ。信者たちはきっと信者になりたくてなった訳ではなく、知らず知らずのうちに掌握されていただけのことだろう、と閃助は信じている。いや――待てよ、と考え直した。

「発言していいですか」

「簡潔にまとめるなら、許す」

「先ほど蒼矢さんは、信者たちをウィルスと呼びましたね」

「ああ。人から人へ信仰心が感染していくという意味でな、尊敬の念を払ってそう呼んでやっている」

「もしかして」この憶測が正しければ、信者なんかよりも神そのものの方が圧倒的に危険な存在だと仮定することになる。

「本当は、『光溢れる日』を境に新緑町の人間たちは狂ってしまって、神が初めて現れた日も彼らは何の疑いも持たず、嬉々として神の元へついたのかもしれません。いえ、神が、新緑町の住民たちを狂わせた、と言った方が正しいでしょうか」

「奇遇だな、俺も同意見だ」

 閃助は口をだらしなく開けた。蒼矢は腕を組んで、だらしない閃助を視界に入れたくないのか目を伏せる。

「つまりあの光には、住民たちの頭のネジを緩くするような何かの仕掛けがあった。神が細工した光、だったということだ。それをモロに浴びた町の住民たちは神経やら精神状態に支障をきたし、一週間は自分の身を守るために半狂乱、神が現れてからは救いの手に身を委ねすぎて半狂乱。そういう訳だ」

 神の正体がますますわからなくなる。彼は蒼矢が言うように、本当の「化物」なのだろうか。

「まあ、あくまでこれは仮定だがな。しかし、そこまで自力で予測出来ているのなら、お前に学ばせることは少し減った。久々に優秀な生徒の匂いがする」

「匂いって」

 苦笑しながら、そういえば日本史の木更津先生にも前に同じことを言われたな、と思い出す。お前が病気がちじゃなく、無遅刻無欠席の皆勤賞を狙うくらい健康体だったら、かなり出来る優等生だと呼べたのにな、と。

「でもこれを仮定とすると、現段階まですべて神の計算通りになりますね」

「計算、か。確かにな」

「――神は一体何を考えているんでしょう」

 肝心なのはそこだ。もし本当に神が、『光溢れる日』からずっと精緻に住民たちをマインドコントロールする努力を重ねてきたのだとしたら、その目的は何なのだろうか。神は何がしたいのか。

「よくよく突き詰めてみると神の信者たちは一般的なカルト教団よりも頭のネジを緩められているな。カルト教団というのは、伝統的な宗教――たとえば仏教やキリスト教、ヒンドゥー教など民族全体で浸透しているもの――とはきちんと線引きがあると俺は考えている」

 蒼矢の話を聞き、閃助は倫理の授業であるとき先生が話していたことを思い出した。伝統的な宗教は、生きるための知恵だとか思想を伝授し、神のご加護に感謝しながら信仰を深めていく。だが考え方は必ずしも統一ではない。仏教やヒンドゥー教での古くから考えられている輪廻も、宗教によってかなりシステムが違うのは有名だし、仏教徒の中には輪廻否定派もいる。正確にはそれは断見派と呼ぶらしい。このように、宗教によって必ずしも信者の思想が皆、統一されている訳ではない。

「伝統的な宗教って、ポジティブな考え方って感じですよね」

 教主の思想や教え、恵みに感謝し、教主を絶対的な存在として教主の教えを人々に広めていく点では同じように思える。教主の崇拝、絶対性、宗派で信じられている真理を持つのも、「宗教」の特徴である。しかしカルト教団は反社会的な思想を持つ新興宗教という認識が一般的だ。カルトという言葉に犯罪的且つ危険な意味を持つレッテルが貼られているのも、イメージを悪くさせる要因の一つであるが、危険思想の新興宗教は増え続けているのも現代の事実なのである。

 また、カルトの教主は、伝統宗教のそれより崇拝対象としてより強烈なイメージを信者たちに植え付けているケースが多いかもしれない、と閃助は思った。伝統宗教を「信じる」と呼ぶなら、カルトは「心酔する」と区別すると分かりやすい。



 そのような議論を蒼矢としていると、あっという間に五十分が経過していた。あと十分しかない。最後に蒼矢は言った。

「明日は日曜日だ。昼から駅前で神の演説が行われるから、お前も来い。お前は塾に入会してまもないが、一度神の演説を聴く、つまりテストをクリアすれば、正式にうちに生徒として認めてやろう」

「えっ! 今日はまだ、正式に認めてくれていなかったんですか」

「無論だ。お前はまだ神に直接出くわしていない。とは言っても、奴の演説中は奴の顔はカーテンで仕切られていて、見えないのだがな」

 確かそれは学校で聞いた。しかし、カーテンということはシルエット程度はわかるのだろう。彼がどんな言葉で、どんな身振り手振りで、住民たちを口説くのか気になった。同時に、それを聴いている信者たちの反応も如何様なものか、恐ろしくて想像したくなくなった。

「……怖いですね、明日」

「大丈夫」

 声は後ろからした。涼が立っていた。

「正しいことと、間違ったことを、神の演説から冷静に分析するんだ。そうすれば自然と、君は解答を導き出せる」

 それだけ言って、涼は事務室に入っていってしまう。追いかけて行った苺が、事務室のドアの「生徒立ち入り禁止」の貼り紙を指差して、「わたしに抱きつかれるのが恥ずかしいからって、逃げなくてもいーじゃん、もう涼くんってば!」と嬉しそうに叫んだ。蒼矢が鼻白んでいたので、閃助は「まあまあ」と宥める。にしても、涼は必要以上の発言しかしないクールな人だと思っていたが、涼の心強い言葉に閃助は勇気をもらった気がした。固かった表情を緩めた閃助に、躊躇いなくずけずけ言うのはやはり蒼矢の役目だ。

「先に言っておくが、我々は去る者追わず、がモットーだ。お前が明日神に対して心酔してしまったなら勝手にしてもらっていいし、塾も出て行ってもらって構わない。だがな」

 蒼矢は恨めしそうな顔をした。「それは、哀れだぞ。神は人間を助けてくれない」


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