4.「騙されてるかも、って考えなかったの?」
はっと閃助は飛び起きた。
夢を見ていた気がする。胃もたれするほど甘いくせに、魔物が追い立ててくるような圧迫感に挟まれた夢――。
ベッドに横たわりながら、ぼうっと窓の外を眺めた。閃助が身体を起こした反動で揺れた髪や、シーツと手の擦れる音、窓から吹き抜ける風で机の宿題の紙が些か動く中、青空と白い雲だけが微動だにしないのが不思議だった。まるで空だけが、おかしくなった町と完全なる別世界に存在しているかのように。そう思うと、あれは本当に僕らが今まで見てきた空と雲なのだろうか、という疑問が沸いてきた。ずっと見ていても、風が吹いても、雲は油絵みたいにそこに硬直したままだった。
高校生の男子にしては閃助の机は綺麗に整頓されていた。学校の教科書と英語検定の問題集が仲良く並んでいる傍に、デジタル時計がひっそり佇んでいる。机に設置されている棚にも、教科書やノート、辞書や数冊の文庫本まで美しく並んでいる。すべて本物だろうかと、触ってみた。今まで授業で書き込んだノートも、文庫本の紙の匂いも、やはり神が現れてからの生活以前と何ら変わらない姿で残っている。無論、病弱で学校にも満足に行けない閃助の授業ノートは、他の生徒に比べれば分量の少ないものであろうが。
そして、これからも、このノートの白紙たちが速いスピードで埋まっていくことはないだろう。もしかしたらもう棚から取り出されることもなく、埃を被ってしまうかもしれない。閃助は、決意をしていた。
十七時、閃助は冷凍食品のエビピラフを温めて食べた。みっともない母でも、閃助のために気まぐれに料理を作ってくれることがあったのだが、母の姿は、もう三ヶ月ほど見ていない。
こうして一人で食事をしていると、一人には慣れているはずなのに、妙な孤独感を感じた。気分が悪くなり、閃助はピラフを半分残すと、ラップに包んでまた冷蔵庫にしまった。
前は、こんな、心に隙間風が吹き抜けるような心境にはならなかったはずなのに。やはり、自分は何か大事なことを――いや、大事な人を忘れている気がしてならない。勿論、母でも、今は亡き父でもない。もっと別の誰かだが、閃助はどうしても思い出せなかった。
すっかり夜も更けた二十二時、閃助は私服で町に繰り出した。今日は土曜日だから学校がない。一人で新緑町を歩くのは勇気がいるが、何食わぬ顔で堂々と歩いていれば、誰も宗教の勧誘などして来ないのは、昨日と一昨日の通学中の経験で身についていた。タートルネックの薄いセーターを着て、首元を隠した。
まほろば商店街の、行きつけの文具店に足を運んだ。新しい大学ノートを買い、それから本屋を一時間ほどぶらついたあと、その足で旋風塾に向かおうと考えた。朝ご飯を食べてしまえば、昼食は取らず三時のおやつの時間に軽食を取れば平気というのが閃助の胃の構造であった。
我ながらかなり落ち着いて行動が出来ている、と思う。商店街はいつも通り、ブティックで店員と客の中年の女性が話し合っているし、ビーグル犬を連れた老人が散歩しているし、中学生ぐらいの男子のグループがコンビニアイスを片手に横広がりになって道を塞ぐ。そんないつも通りの町が、そこに明瞭な風景となって存在していた。とても、皆が自らを神と名乗る胡散臭い人間一人に心酔している風には見えない。やはり何処かに正常な人間はいるのではないか。そもそもここにいるのは皆、神など信仰していない無宗教の人々ではないのだろうか。
しかし、閃助は彼らの首元を確認した途端、肩を落とした。クラスの全員や教師たちまでがこぞって首から下げていたペンダントを、自分を通り過ぎるすべての人間がつけていた。女も、店員も、老人も、中学生さえも。まさにカルト教団の証のようだ。当たり前だが、ペンダントつけていないのは自分だけ。いくらタートルネックで隠しているとはいえ、強風が吹いたり不良に襟首を掴まれてカツアゲされたりしてネックレスをつけていないのがバレたら、と思うと気が気ではなくなった。閃助は小走りに商店街を抜け、近くのスイミングスクールの方へ逃げ込んだ。
このスイミングスクールは、閃助が小学生の頃に通っていた場所だ。透明感のある、水色のガラスを四方に張った建物で、中のエントランスの風景やキャラメルブラウンのフローリング、ビーチサンダルを履いてぺたぺた歩き回る幼子の足首さえ鮮烈に見える。建物の周りを駐輪所が囲んでおり、地下は駐車場になっている。
駐車場へ続く下り坂の前に、髪の長い少女が座り込んでいた。暗がりの中でぼんやり浮かび上がる猫のように丸まった背中と、こげ茶色のストレートヘア、見覚えがあった。閃助のクラスメートの女子だ。彼女は多分、一昨日の神信仰ムードで熱狂する現代文の授業中で、一人だけ冷めた目で外を眺めていた、あの少女だ。
(あんなところで何をしているんだろう。ところで、あの子の名前って)
クラスの中でも大人しく、それどころか授業中に当てられたとき以外は滅多に口を開かない寡黙な女の子だったはずだ。友達もおらず、休み時間は席から動かず一人で本を読んでいるか、ウォークマンで音楽を聴いている。彼女に関する切れ切れの情報を集めていくうちに、いつか彼女がクラスの女子から下の名前で呼ばれていたのを思い出した。
『香梨』
「かり、ちゃん」
突如、ばっと香梨が振り返った。慌てた閃助は、しかし今更視線を逸らすことも出来ず、香梨と暫し見つめ合う形になった。香梨は無表情だが、目を細めてこちらを見上げていた。恐らく警戒されている。「や、やあ」と閃助が咄嗟に声をかけても、座ったまま小さく会釈を返すだけだった。
「そこで、何をしてるの?」
恐る恐る近づいてみる。香梨は動かず、それどころか、ふいっと顔を逸らされた。ただ、彼女に逃げるつもりはないらしいと勘付いた閃助は、思い切って歩幅を広げ、香梨のすぐ傍まで歩み寄った。夜の闇の中では見えづらく、目を細め――そこで、息が詰まる。ともすると彼女は何かを観察していたのではないかと思っていたが、香梨が見下ろしていたのは、辛うじてスズメの死骸だということは検討がついた。スズメ本来の形が大分崩れていたが、恐らく間違いない。
「これは……」
「見つけたの」
香梨はまるでアリの行列でも眺めているかのように、淡々と答える。「車に轢かれたんだね」
ほとんど心の篭っていない一言であった。笑った顔や怒ったところも見たことがなかったが、むしろ人間に本来あるべき感情がいくらか欠落している風に見えた。閃助は朝食を後一歩のところで戻しそうになり、立ち上がって脇目に視線を落とす。
「……可哀相、だね」
「うん」
「どうして平気でいられるの?」
聞くと、香梨は霞がかったハスキーボイスで言った。「だってこの子はもう死んでる。死んだあとで悲しんだり怒ったりしても、この子には届かない。だからせめて、この子の姿を私の目にしっかり焼き付けるの。この子の死を誰か一人でも覚えていないと、それこそ可哀相じゃん」
そして香梨は閃助など一切見ず、木の枝を持ってきてと言った。「木の枝でも、頑丈な葉っぱでもいいから」
閃助は急いでスイミングスクールの周りを走ったが、整備された施設の周りには彼女の求めそうなものはなかった。一旦駐車場の前に戻ってくると、既に香梨は、素手で地面に張り付いたスズメの死骸を剥がそうとしていた。
「何やってるんだ」
「いつまでもここにいると、みんな嫌でしょ。だから埋めてあげるの」
タイヤに轢き殺されたスズメの死骸は、香梨がゆっくり持ち上げていくうちにブチッブチッと音を立てて確かに地面から離れていく。羽や後頭部の毛が剥がれ落ちていく。閃助には到底見ていられない光景であった。やがて香梨は立ち上がり、白い両手の中にスズメを包んで歩き出した。閃助はスズメが轢かれた痕を二度と見ることのないまま、香梨についていった。
スイミングスクールの向かい側の公園に香梨は入って行った。閃助も追いかける。蛾の群がる街灯を通り過ぎ、トウカエデの木のふもとの前で香梨は立ち止まる。香梨は先ほどと同じ体勢でしゃがみ込むと、素手で土を掘り始めた。閃助も迷った挙句、一緒に素手で土を穿り返した。夜になって気温が下がったせいか、土があまりに冷たかったので閃助は少し驚いた。彫り続け、ある程度の深さになると、香梨は乾いてパリパリになったスズメの死骸を優しく置き、そしてまた土を被せた。閃助も手伝った。
一通りの作業が終わると、公園の水道で水を洗った。香梨がプリッツスカートで濡れた両手を堂々と拭くので、閃助はジーンズのポケットからハンカチを出した。几帳面で綺麗好きな閃助は、いつもハンカチを持ち歩く。しかし出した瞬間、固まった。白地に赤いリボンの刺繍が入った、明らかに女性用のハンカチだ。香梨が無言でハンカチを見下ろしている。だが誰よりも愕然としたのは閃助だ。
「あっ、こ、これは……」
閃助は言い淀んだあとで、状況整理をする。朝、妙な孤独感に浸っていたせいで、間違って母親のハンカチを手にしてしまったみたいだ。無意識に家族の温もりを求めていたのだろうか、自分は何て未練がましいのだ! しかし差し出したハンカチを今更引っ込めることも出来ず、些か乱暴に香梨の手に押し付ける。
「お母さんの、間違って持ってきちゃったみたいだ。こんなんでよければ、使って」
香梨は小さく頷いたが、「何で、お母さんのハンカチを、こんなのでよければなんて卑下するの?」
痛いところを突かれて閃助は口を噤む。先にハンカチを貸してしまったせいで、閃助の無気力にぶら下がった両手からは雫が垂れていた。
「僕はお母さんが嫌いなんだ」向かい側のスイミングスクールへ入っていく子供たちの、はしゃぎ声が聞こえる。「家にはたまにしか帰って来ないし」
「家事は?」
「お母さんがたまにしてくれるけど、それ以外のときは、僕が調子のいいときにやってる。実は、僕が学校を遅刻したり休んだりしてるのって、全部が体調悪いからって理由じゃないんだ、休み続けてたこの一ヶ月だって、何日かはほとんど元気な日もあったよ。そういう日は、家を掃除したり食器を洗ったり、洗濯物を干したりして、家事だけで一日潰れてた。僕はノロマだから、一つの作業を早くこなすことは出来なくてね」
今まで、クラスの誰にも話さなかった真実だ。それなのに、この真実を香梨に話してしまったのは、彼女なら黙っておいてくれるだろうという不思議な確信があったからだ。ほぼ初めて会話したも同然の相手なのに、このような気持ちになったのは、スズメの死骸に臆することなく堂々と地面から剥ぎ取って、モグラのように穴を掘ってスズメを埋めた香梨の行動力に、感心してしまったからだろうか。
「ウスノロで馬鹿なのは神崎の方だと思うけど」ぼそりと香梨は言った。閃助は神崎の名前を聞いてはっとする。
「ねえ、神崎はどうして学校にいないの? 昨日も一昨日もいなかったよね」
「追放されたから」
香梨は淡白な口調で答える。「って言われてる」
「追放?」
「神に逆らうと、職を失う。学生だったら学生という身分を剥奪される。神だけじゃない、信者たちに神を批判するようなことを言うと、本拠地に突き出されて罰を受ける」
「罰って……」
「詳細は知らない。神崎は学校が再開して以来、一度も登校してないし」実に恐ろしい事実を語っているにも関わらず、香梨は冷静な態度を崩さなかった。「ただ、これが新緑町の掟。洗脳されるのが嫌なら、潔く自分から学校をやめて外出もしないで一生部屋に閉じこもっていた方がいいと思う」
踊るように踵を返して立ち去ろうとする香梨の腕を、閃助は「待って!」と叫んで掴む。
「君は、信者じゃないの?」
香梨は閃助を睨んだ。些か声が大きすぎたらしい。
「この町では神の信者か否かの問いに対する答えが、周囲の目を大きく変える。信者でない者は異端と認識されて、しつこい勧誘を受けるか、追放の機会を虎視眈々と狙われるの。信者たちからね」声は潜めているが、香梨の口調に棘が混ざった。怒らせてしまったことに後ろめたさを感じた閃助は「ごめん」と謝った。
すると、香梨が断言した。「私は信者じゃない。神の演説も聴いたけど、全然沁みてこなかった。貴方は演説すら聴いていないんだってね」
「教室で、僕が神を知らないのを筋原に暴露されたこと、覚えていたんだね」
「……あのときの紺野先生」呆れた風に言う香梨。「最初、演技かと思ったくらい、泣き方がガチすぎて。笑いを堪えるの必死だった」
次の瞬間、今までポーカーフェイスを貫いていた香梨の口角が突然上がり、にまにまと笑い出した。微かに「ふひひっ」という上擦った声も洩れている。閃助はぎょっとして、立ち竦んでしまった。町の隅々まで漆黒が落とされているシチュエーションの中では、余計に香梨の奇怪さが引き立つ。
「まあそれはいいや」そしてほんの数秒で彼女の不気味な笑顔は消え、また無表情に戻る。
思わず、閃助は引き攣ってしまった。香梨の不気味な笑みはただ口角を上げていただけではない、目尻はきゅっと締まり、鼻の穴は広がり、眉毛はひくついていた。それが今やどれもまっさらな、完璧なまでのポーカーフェイス。どうやら、本当に一時的に思い出し笑いをしていただけだったようだ。しかしギャップがもはや天地の差だ。
「とにかく、信者になるのが嫌なら学校にも来ない方がいいよ。まあ、既にそれが理由で昨日も早退したんだろうけど」
「君はどうするの?」
「私は友達いないから、そもそも勧誘されないし。周りも勝手に私も仲間だと勘違いしてるんだと思う。だから逃げられる。でも貴方は、逃げられない。そして神崎も逃げられなかったのかもね」
香梨の言葉は閃助の中に重く響いた。神崎は本当に学校に追い出されたのだろうか。いや、その前に神崎は、信者ではなかったということか? お調子者で、人を半ば道具みたいに見ていた奴だったのに、神の手の中にはハマらなかった――そうか、そうだったのか、と閃助は愕然とする。
「僕、神崎を探してみる」
自分と仲のよかった神崎も、自分と同じ境遇に立たされていたのだと思うと、急に神崎が恋しくなった。もしかしたら町の何処かに隠れているかもしれない。再会出来ればいいな――。新たな希望が、暗雲の立ち込めていた心の中に淡い光を灯す。
香梨はそれ以上、神崎に関して何も言わなかった。
「ねえ、ところでさ。僕、これから塾に行くんだけど」
「塾?」香梨が眉を潜める。「それって、駅の東口の近くの?」
「知ってるの?」
「塾って言っても、あそこは神の反乱組織みたいなところでしょ、知ってる。私、何回か声かけられてるもん」
旋風塾の講師たちは神の洗脳にかかっていない町の人間を見抜いて、塾へスカウトしている。毎日学校へ通っている香梨なら、講師たちの目に止まってもおかしくないかもしれない。ところで、己が信者じゃないとほとんど他人に暴露していない香梨が、どうして信者でないと蒼矢たちは見抜いたのだろう、という疑問が閃助の中で浮上した。が、今は忘れることにした。
「僕、あそこの生徒になったんだ」
「そう」香梨は興味がなさそうだ。
「君はどうして塾生にならないの? だってあそこには、僕たちと同じで異端と呼ばれる人たちが揃っているんだ。学校にいるより、ずっと安全だよ」
「本当に?」
香梨が眉を顰める。「逆に、どうして貴方はその人たちを信じられるの? 騙されてるかも、って考えなかったの?」
「勿論考えたよ、最初はここも新手のカルト教団なんじゃないか、とさえ疑った。でも、僕が見る限り、確かに神への反抗心はあるみたいだし、この町のことを色々教えてくれるんだ」
「何かに縋って生きていかなきゃなんて、それも宗教と一緒だよ」香梨は閃助の腕を振りほどき、振り返ることなく歩いていく。「私は私だけを信じて生きていく。それが一番安全だって私は思う。だから、あんまり干渉して来ないで」
呼び止めようとしたが、閃助は怯んでしまった。己の腕を振りほどいた香梨の力があまりに強かったせいかもしれない。仕方なく、「じゃあ、また」と言い残して香梨と逆方向に歩いていくことにした。