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2.「初回の授業を始める」

 ちぎった切れ端のような雲が、夕焼けの空にいくつも浮かんでいて、歪に渦巻いている風に見えてしまう。正確には夕焼けでなく、朝焼けなのだが。覚束ない足取りの閃助に追い討ちをかける、明らかな幻覚であったのは確かだが、ほんの一日のうちに奈落の底へ突き落とされていた彼は、目の前に映る駅前の光景すら幻覚であってほしいと願った。

『神様に祝福を! 神様に感謝を!』と書かれたポスターが、知らない間に駅構内の壁にズラリと貼られている。不気味なんてものじゃない。非現実的だ。

(本当に神様なんているのかな)

 逃げ出したい恐怖よりも、疲れていた閃助は、だんだんそちらの方が気になり始めていた。こうして興味をそそられて人々は洗脳されていくのだろうな、と閃助は肩をすぼめた。一歩間違えれば、自分もクラスメートたちと同じになりかねない。毎日あの調子だと、いつ自分まで気が狂うかわからない。いや、それとも、自分も熱狂集団の一人になった方が楽なのか。やはりおぞましいく思った。しかし、絶大なショック状態により、閃助は半分自我を保てない状態であった。家に帰るはずが、今朝立ち寄った駅前にまた戻ってきてしまっている。

 梶井基次郎の『檸檬』の冒頭で「えたいの知れない不吉な魂がわたしの心をしじゅう抑え付けていた」とある。そちらの方が、まさに、今の閃助の心情を表すのに相応しい一文だ。大好きな夕焼けの空も、改札を通っていく女子高生の短いスカートも、一切の魅力を感じない。「時々わたしはそんな道を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める」。これも『檸檬』のとある一説だ。今自分がいる場所が、本来の新緑町ではなく、新緑町を模したもっと違う場所であってほしいと願う。切実に願う。だけどきっと、そんなことはあり得ないのだろう。

 朦朧と意識の中で、白や赤の光が、ちかちか放電している。構内の柱にぶち当たった。つんのめりそうになり、膝と手を汚い地面につく。地面に濡れた斑点があった。自分の涙だと悟った瞬間、閃助は急いで拭って、また立ち上がる。駅の往来で一人蹲って泣いたりなんかしたら、また気味の悪い神様信者に声をかけられて、勧誘されるおそれがある。新緑町の人間は、神様を信じている人間は、いつだって笑顔でいなければならないのだから。一日の経験で、もう心得えている。熱狂的な宗教じみた信仰など、絶対にはまらない、はまるものか、と閃助は幼少時から胸に刻みつけて生きてきたのだ。

 閃助の母親はとある宗教集団の信者だ。父と離婚したのもそれが理由で、離婚当初、自分は父の元で暮らす予定だった。しかし離婚が決まった直後、父が駅のホームから線路に飛び込んで死亡し、仕方なしに母親と共に暮らしていたのだが、彼女は閃助にご飯と薬を残していくだけでほとんど家に戻ってこない。父が死んでから、胸につかえる黒々とした煙は一層濃く、閃助を飲み込んでしまいそうなくらい大きく立ち上るようになった。時折閃助は部屋の隅で、母への愛憎に苛まされては、涙を零している。こんな人生いつ終わってもいい、なんて思っていた時期もあった。

 とにかく今は、自分と世界の身に何が起こっているのかきちんと判明するまで、気持ちよく眠れなさそうだ。

 瞼が勢いよく引っ張られるように、視界が変になり、眩暈が起こっているのだと自覚するまで些か時間がかかった。頭が熱せられてじんじん疼く。自分が知っているようで知らない世界に一人ぼっち。やはり、あてもなく彷徨うには心細すぎて、身体に震えが走った。

 赤いポストの隣のベンチに座って、膝を抱える。そこでしばらく休んでいると、やがて朝日がすっかり姿を現し、明け方から爽快な朝へと時間が切り替わっていた。閃助が座り込んでいた間、彼の前と通っていく人々は彼を一瞥しながらも、朝のサラリーマンのように声をかけてくる者はいない。帰宅ラッシュなのだな、と閃助はぼんやり思った早く幸せいっぱいに包まれた家族の下に帰りたくて、皆は他人を気にしている場合ではないのだろう。もしくは、サラリーマンが言っていた、楽しい人生にこの町にいる全員が全員心酔しているのであれば、不幸なオーラを醸し出す得体の知れない少年一人に近づいて、自分まで気が滅入る思いをしたくないのかもしれない。

 どうしよう、と閃助の空っぽの頭に唯一、その言葉だけがぼやっと宿る。早朝の肌寒い風が、ぼろぼろの彼の心身にじかに吹きつけてきて、また風邪を引きそうだ。青空を見上げると、ぽろりと涙が零れそうになる。

 せめて誰かいないのか。自分と同じく、いや自分よりも町の状況に詳しい人間は。

「誰か……誰か、いないのか……」


「――七時十三分二十四秒だぞ」


 頭上から無機質な声が降ってきた。「帰らなくていいのか。学生だろう」

 顔を上げる。長身の、若い男が立っていた。青い髪の短髪で、白いワイシャツを着ている。腕には安っぽいシルバーの腕時計、別段ブランド物でもなさそうだ。首からチェーンが下がっているのに閃助は一瞬警戒心を露わにしたが、どうやら他の神信者がつけているものとは違うようだ。ゴールド寄りのチェーンの下に丸い懐中時計を提げた、所謂ペンダントウォッチだった。両耳のチェーンタイプのピアスも、時計の形だ。一センチほどの短さのチェーンが、豆粒ほどの時計を支えているのだ。少し重そうにも見える。

 また、男は色白で、普通よりは整った顔立ちと言えるが、そのせいか目の下の深いクマがかなり目立つ。目つきはやや鋭く、眠気で瞼が落ちかけている訳でもないから、寝不足ではないのかもしれない。だが、メイクにも見えない。

 閃助はすぐに反応出来なかった。男は眉を潜めてもう一度「帰らないのか」と問うてくる。

「……具合が悪くて」咄嗟に嘘をつくが、一瞬で無駄だと悟った。

「具合が悪くて、さっさと帰宅せず風に吹かれている馬鹿が何処にいる」

 男は淡々と指摘する。年齢は二十代真ん中と言ったところか。鞄などの荷物は一切持たず、完全な手ぶらだ。

「お前の下らない嘘を聞いている暇はない。俺は嘘をつかれるのが嫌いだ。聞かされている俺の貴重な時間が、無駄になるのだぞ。今だってそうだ、お前の嘘に俺が気分を悪くして、こうして説教を垂れている間に、三十秒も経過している」

 外見通り、男は相当時間に対して神経質らしい。

「見ず知らずの高校生に説教している時間も勿体無いと思いますけど」

「子供を諭すのは大人の役目だ。大人の役目は、何であろうとこなさなければならない。それが職業人という者だろう」

 職業人、の単語に閃助は首を傾げる。子供を諭すのが彼の仕事という意味ならば、さしずめ彼は――。

「教師の方ですか?」

「頭の回転が速いじゃないか」男は閃助の前から退くつもりはないらしい。「お前は賢そうだ。ならば、この町の住民に違和感を感じているのではないか?」

「あっ」思わず声を上げる。へなへなと力が抜けて、ベンチから腰がずり落ちる。

「貴方は……いえ、貴方も……」

「異質だ、お前は。俺はそう感じた」

 男は閃助を見下ろし、それから周囲を一瞥する。異質、とは、恐らく町にいる人間の中で唯一、閃助だけが馴染んでいないのに気付いたからだろう。

「かく言う俺も異質だ」

「――よかった」

 口に出すと、嗚咽も洩れてきて目頭が熱くなる。異質なのによかった、と言われた男の気持ちなど露知らず、閃助は込み上げてくる涙を拭うのに必死だ。油断していたら、小便を洩らしてしまいそうなほどの脱力感と、安堵感が、彼の心身を切ないほど覆い尽くす。

「泣いている暇はないぞ」しかし男は閃助の感涙など見ていないも同然だった。「我々は、洗脳された連中よりもっと大変な立場にいる」

「え?」

「お前、神について何処まで知っている?」

 駅のホームから、ゴウンゴウンと電車が発車していく。走っていた女子高生が、ああ、と小さく呻いて、しかし特に慌てた様子はない。その傍で妙に緊迫していたのは、閃助と男の吐く息だった。

「……一ヶ月前に、突然町に物凄い光が差してきて、それから神様が現れたということ。神様は町のみんなに、お金や食料を与えたこと。神様が現れて以来、みんなの心持が穏やかになり、争いがなくなったこと。毎週日曜、神様が駅前で演説するってこと。みんなが神様を信仰していること。なのに、誰も神様の姿を知らないこと……」

 ふむ、と男は顎を指で撫でつけ、閃助を凝視する。それは、彼のどんよりした目つきのせいかもしれないが、閃助の中に積もりに積もった内情を見透かそうとしている訳ではなく、ただ閃助の外面だけをぼんやり眺めている風な印象を受けた。

「お前はこの一ヶ月、どう過ごした?」

「あの、僕は……」

「隠れて生きていたのか、それとも」男が平然と、風で乱れた髪を掻き分けながら言った。「神の信者をやめたのか?」

「――わかりません。でも今朝、目が覚めたら、一ヶ月時間が飛んでいたことを知りました」

 改めて口に出してみると、一か月分の記憶がすべてないなど――まったく現実味のない話だ。笑われるかもしれないと思ったが、男は無言で閃助を見下ろしていた。

 そして、突如口を開く。「神について知りたいか?」

「知った方がいいのですか」

「知らなければ、危険だ」

「危険ってどうことですか」

「様々な意味で、だ」

「もう少し、詳しい説明を」

「ここでは出来ない」

 ぴしゃりと男は言い切る。ナイフを鉄に叩きつけたかのような、鋭い声音だ。若干苦手なタイプの人間だと思いつつも、今はこの男について行くしかないのだろうと、既に確信している部分はあった。ただ、ひょっとしたらこの男も自分を洗脳しようと、嘘をついているのでは、という猜疑心も拭い切れないのだ。

「芯の弱そうなお前のことだ、このままではいずれお前も神、いや、神の信者に取り込まれる。それが嫌なら、俺について来い」

 芯が弱そうとか、ついて来いなど、会って間もない若い男に言われたところで普通なら聞かないフリをするだろう。だが、閃助は若干の疑念を抱きながらも、今はこの男に縋るしか道はないのだと、割り切っていた。男は確かに、外見も含め、自分よりも遥かに異端に見えた。その危ない香りに、吸い寄せられてついていく。

 町のすべても危険なムードに満ちていた。ついこのあいだ外に出たときとはまるで変わっていた。閃助は、顎の輪郭に沿って切り揃えてある、己のおかっぱ頭をかき回す。男はこちらに振り向きもせず、沈黙を保っている。まさしく時を刻む秒針のように、リズムよく彼の革靴の音が、風のない朝の雑踏の中に響いた。

 駅の東口から十分経った頃だろうか、人の気配が随分収まったことに気づく。新緑駅は飲食店やホテルなどがある西口側の通りの方が栄えている故、東口から少し離れると、少々辺鄙な場所にすぐに飛ばされてしまう。工場やガソリンスタンド、幼稚園などばかりが目立ち、その中にぽつんと、小さなプレハブ事務所のような建物があった。ベージュ色の壁に、紅色の平屋根という妙な色合いだが、男はまっすぐそこへ向かっていく。ガラス張りの押し扉の隣に、屋根と同じ色の看板が、歪んだ斜め具合で設置されている。

『旋風塾』

 男が躊躇いなく中へ入っていこうとするので、「ちょっと待って下さい」と閃助は慌てて呼び止める。

「塾なんですか? 何で塾?」

 億劫そうに男は振り向く。「ついて来いと言ったはずだぞ。この中でなければ、すべての話をすることは出来ない」

「でも、もう夜……じゃなくて」朝日に鮮烈に染め上げられるアスファルトを見下ろしながら、「朝ですし、周りに人はもういないのに」力なく指摘する。

 まだ、若干の不安が、閃助の足を引っ張っていた。新たな空間に踏み込むのとは少し違う、大げさに言ってしまえば、また新たな世界に飛び込んでしまうのではないかと。あるいは、自分は騙されていないか、もしここが神の信者の集う集会場だったりしたら、あるいて新手のカルト教団じゃあるまいか……何もかもを簡単に信用できない頭が、この波乱万丈の狂った一日のみで、出来上がってしまっていたのだ。

「信じて――いいんですか」

 名前も知らぬ教主を信じてやまなかった母の姿を目に焼き付けて以来、浅い人間関係しか築いてこなかった。

「貴方は何者なのですか? せめてそれだけでも」

「おい、少年」唐突に、男が地団太を踏み始める。「お前の無気力な抗議に四十五秒、潰したぞ」

「え」

「お前のような何も知らないガキ一人に、貴重なタイムスケジュールを狂わせられて、俺がどれだけ苛立ちを募らせていたと思っている? 鈍感が。時間がないんだ!」

 声を荒げる男の威圧に、肌がビリッと痺れる。閃助は押し黙ってしまった。男は眉を八の字に吊り上げて「わかったらさっさと入れ」と促す。刹那の空気の激化に、閃助は内心震え上がった。

(何だこの人、二重人格?)

 ふと顔を上げると、こちらを見つめる瞳と、ばっちり目が合った。

 ドアの傍の窓から、手のひらと鼻をガラスにくっつけた女性に見られている。二つのお下げがよく似合う。大きな瞳を爛々と輝かせ、彼女は一旦閃助と共にいた男を一瞥したあと、すぐに姿を消してしまう。

「蒼くん! 蒼くん! 新しい子連れてきたの?」

 そしてドアを突き破る勢いで、外に飛び出してきた。

 驚いて尻餅をつきかける閃助を、女性の華奢な腕が力強く引っ張り上げる。細い見た目に反して、力が強いのになお更驚愕した。

「ねえねえねえ、君も大丈夫なの? 神様いえーいとか、サイコーかっちょいーとか言ったりしない? ちゃんと普通の子?」

 普通、と彼女は口にした。本来なら、神などという得体の知れない存在に恐怖の意を抱いている閃助は、異様ではなく普通と呼ぶべきなのだと、やっと思い出した。

「ねえねえ、この子ちょっと怯えてるよ? 蒼くんが怖い顔して無理やり連行してきたからじゃない? でもさでもさ、いつも無愛想で今まで何度も救えそうな子も結局連れてこられなかった蒼くんが、今日は珍しく一ポイントゲットしたんだね」

「ゲームみたいに言うな。お前だって俺に連れてこられた一人のくせに」

 面倒くさそうに顔を歪め、女性に指を指す「蒼くん」と呼ばれた時計男。彼らの半ば理解不能なやり取りを聞いているうちに、閃助はいつしか、塾の玄関に連れ込まれていた。

「さっさっ、靴を脱いで、上がって上がって! 安心して、ここは君と同じような人たちが揃ってるの。と言っても、生徒は多分君で六人目、先生も三人しかいないんだけどね」

 逐一顔を間近まで近づけてくる女性は、明らかに高校生以上の顔立ちはしていたが、喋り方が随分と幼いというか、一生懸命たどたどしい言葉を紡いでいる風な印象を持たせる。

「あの、中に入ったことだし、聞きたいことが」

「わたし? わたしは生徒の方だよ」

「いえ、貴方のことじゃなく」

(待て、生徒?)

「ここが一体何の塾なのかって」今度は、違う女性の声が横槍を入れてくる。「聞きたいんでしょ? ほら、苺ちゃん、困ってるみたいだから一旦離してあげて。ね?」

 スーツを着た、ベリーショートの温和そうな女性が、優美に笑いかけてくる。目は切れ長なのに、不思議とキツさはない。赤髪にピアス、という一見誤解されがちな見た目すら跳ね除けるくらいに、物腰の落ち着きを感じる。

「いずみー、なっちたちがまだ戻ってこないよ。涼くんも今日は調査で外に出てるし。これじゃあ全員紹介できなーい!」

「夏星くんたちならもうすぐ帰ってくるんじゃないかな。それより私たちが早くしないと、蒼矢が……」ベリーショートの女性は後方を一瞥する。

 閃助は戸惑いがちに靴を脱いだ。新手の宗教団体じゃないよな、という疑念も生まれたが、既に逃げる機会を逃しているも同然だった。

 下駄箱があり、玄関と中はガラス張りの壁とドアを挟んで分かれている。ガラスのドアを抜けても、生徒の名簿やタイムカードや、生徒の出席を確認する手立てはなさそうだった。塾には必要不可欠な、無料配布の高校や大学の資料、検定の申込書なども存在せず、ただ、左側の壁に、駅前で見た『神様に祝福を! 神様に感謝を!』のポスターが、バッテン模様に破かれている状態で無造作に貼り付けられているのを見て、確かにここでは神の信仰活動は行われていないのが明確にわかる。むしろ、反抗意思があるようだ。閃助の緊張感が少し緩んだ。

 改めて、教室内を見渡す。

 玄関のすぐ傍に大きなホワイトボードがあり、そこに今日の日付が殴り書きされている。ホワイトボードの奥を覗くと席が見えた。一列四席セットが、総合で五列程度しかない、小さな個別指導学塾のようだ。にしては、生徒らしき少年少女はおらず、辛うじて先ほど自らを生徒だと名乗っていた二十歳前後の女性しか確認出来ていない。壁一面は白く、清潔感が溢れていた。

 時計男、もとい蒼矢は、険しく目を伏せて膝を軽く震わせている。よく見ると、立ちながらの貧乏揺すりをしていた。腕を組み、「苺、お前は毎回はしゃぎすぎだ。女なら言動に落ち着きを払え」と、何故か叱っている。目元のクマが濃いため、睫毛の境界線すら曖昧だ。

 蒼矢の後ろには漆で塗装がされたシックな雰囲気のカウンター席のようなものがある。普通なら塾長が事務作業を行う場として使われるだろうが、無人だし、椅子すらない。

「座れ」蒼矢は席を顎で指す。閃助は大人しく蒼矢から一番近い手前の席に座り、椅子だけを蒼矢たちの方へ向けた。

「話を始める前に二つ、聞かせろ」

「はい」

「お前の名と職業を教えろ」

「閃助です。高校生です」

「閃助、では二つ目の質問だ。いや、その前にもう一度聞くが、お前は本当に神に対して熱狂的な信仰心を持っておらず、それどころか神がどういった存在なのかすら、把握し切れていないんだったな」

「はい」

「なら最後に問おう。神について、この新緑町で今何が起こっているかについて、知りたいか? 現実を受け入れられる自信があるか?」

 唐突な問いだった。同時に重い問いでもあった。

 だが、知らなければ何も始まらない。時が止まったままの閃助の時間が、ようやく、動く気配を感じる。

「教えて……下さいますか」搾り出した声は微かに震えていた。迷っている暇はない、特に時間に神経質なこの男の前では。また、蒼矢は、神がみんなの心を捕えて離さないように、閃助の汚れのない心身をただでは逃さないつもりでいるような気がした。

 何故そう思ったかと言うと、蒼矢の一見暗い色を湛えた瞳は、妙に眼光だけがギラギラしていたからだ。逃げたら、蒼矢の目は失望の色に沈み込む。そんな予想をさせる魔力があった。

「始めに言っておこう。ここは、今の狂った世界に順応できていない者たちだけを生徒として集め、狂気に染まらないよう教育し、監視する―――『旋風塾』だ。閃助の初回の授業を始める」





 蒼矢は仁王立ちして、閃助に人差し指を向けた。

「まず、お前が今日一日で他者から聞いた新緑町の現状と、ここ一ヶ月で起きた惨禍はすべて本当だ」

「と言いますと」

「今から三十日前、五月七日、午前十時三十六分に、新緑町全体を眩い光が包み込んだ。原因不明の光だ」

 現代文の紺野先生が表現するところの、『光溢れる日』と呼ばれる日がその五月七日という訳だ。閃助自身も確かにあの全身の水分が吸い尽くされそうなほど真っ白で熱い光を浴びたのは、しっかり覚えている。

「その光は時間にしておよそ十五秒ほどで消えたかな、随分長かった。そうしたら、空が一面真っ黒だったという訳だ。月が浮かび、星が瞬く。夜になっていた」

 今は日が昇り、朝の光が新緑町に差し込む、午前七時半過ぎだ。

「住民は激しく混乱し、五月十三日までの丸一週間、町はパニックに陥った。しかも、あの光が差す前ではあり得なかった事態が、町の住民の大半に起こった」

「何ですか」

「人々が獣のようになった」淡々と蒼矢は告げる。「理性と欲求と不安感の塊が、街中に蠢いていたんだ。喧騒に包まれ、暴力事件が多発。死者が出たかどうかは不明だが、一瞬にして紛争地域に近しい状況に変わり果てたな」

「どういう……こと」

 あんまりな事実に悪寒が走る。光の粒子に、人の心を荒ませる成分でも入っていたというのか。「意味わかんないですよ、もうちょっと詳しく聞かせて下さい」

「悪いがこの地獄の一週間に関しての詳細は、次の授業に回す。今日は大まかな流れしか説明をしない」

 ちらちら腕時計を確認しながら喋る蒼矢を見ていると、こちらまで神経質になってくる。

「で、五月十四日、新緑町駅前西口に、自身を神と名乗る謎の人物が現れた」

 ここで神の登場か。小説のあらすじでも聞かされている気分だ。

 苺が、隣の列から椅子を持ってきて、座る。「いきなりすぎてびっくりだったよ! 日曜日だったからみんなお休みだったし、ていうかみんな錯乱状態で学校も会社も行けてなかったみたいだけど、とにかく駅前はすごい人で。新緑町ってあんなに人がいたんだね!」

 彼女は思いっきり股を広げて座っていた。はしたない、とベリーショートの女性に軽く膝を叩かれていた。

「それで、神様は何をしたんですか」

「演説のような、町への愛の告白のような。気持ち悪いことこの上なかったな。神も、聞き入る町の人間たちも」

 眉間に皺を寄せて蒼矢は吐き捨てる。

「どのような内容だったんですか? ヒトラーみたいな、力強い演説ですか?」

「それも今度の授業で回す」

 何回授業を受けに来ればいいのか、と考えて、「あっ」と閃助は声を裏返させる。「あの、今日のこれ……授業料とか払わないといけない、ですか?」

「授業料などいらん。黙って話を聞け」

 鬱陶しそうな蒼矢の反論に、「あのね」とベリーショートの女性が柔らかく横槍を入れる。

「今旋風塾の講師をしている私たちは、元々は幸い神の洗脳にはかからなかった町の住民だったの。私と蒼矢ともう一人でこの旋風塾を運営していて、同様に神への信仰ムードについていけず困っていた子供たちを保護し、無償で授業をしているの。この町で何が起こっているのかとか、私たちが調べ上げた神についての情報とかを教えて、一人で多く哀れなマインドコントロールへ引き込まれるのを防げるように。今、生徒は五人しかいないんだけど、前はもう少しいたのよ。ただ、四六時中町の狂ったムードに晒されていると、やっぱりここには戻ってこなくなってしまう……たった二十日ちょいのうちでも」

 女性は暗い顔をして俯く。蒼矢は彼女が話している秒数を数えていたのか、始終腕時計から目を離さなかった。話は聞いていたらしく、「泉澄、俺の仕事を取るなと何度言えばわかる」と声を荒げる。

「はいはい、蒼矢の言い方がキツいせいで、何人かの生徒が戻ってこなくなっちゃったのを気にして、めげずに再トライしたいのね」

「いずみーと涼くんが受け持っていた生徒とも喧嘩しちゃったんだもんねえ。今のところ蒼くん、顔がかっこいいだけで先生としては、いいところなしー」

 苺がからかうと、蒼矢は露骨に不機嫌そうな顔をする。確かに、厳格と言うよりは刺々しい性格なのだということは、出会ってまもない閃助でも安易に感じ取れるぐらいだ。深刻なカルシウム不足、というより。

「おい、貴様らのせいで授業時間を四十七秒も無駄にした!」

 著しく時間に縛られすぎている男だ――病的なほどに。

「時間がないんだ」

「あるでしょう、だってまだ七時半よ」

「俺はきっちり時間を厳守しないと気が済まない、よく知っているだろう。一日のスケジュールを時間通りにこなせなければ、俺の睡眠時間が削られるのだぞ!」

(なるほど、だからクマが酷いのか)

「話を戻すぞ」

「呼吸が荒いですけど大丈夫ですか」

「余計な詮索はするな」

「見て丸わかりです」

 変人だ、と閃助は思った。悪い人ではないが。


「いいか、とにかくこの塾にいる我々は、今この町で神のマインドコントロールを受けず平常心を保っている。我々講師は生徒たちに授業を開きつつ、他にも神に信仰心を持てず路頭に迷っている人間がいないか捜索活動をしている。そして異質と捉えた者を誘い、塾に連れ込んでいる。今日の収穫は、お前一人だ」

「その、平常心を保っている人たちって、老若男女問わずですか?」

「基本は学生や子供が多い」蒼矢は腕組みをする。「現代人に鬱病ほど重くのない抑鬱状態の抱える者が多いように、どうやら昨今の若者は自分と違う世界に住む人間に敏感らしい。パンピーの群れに隠れオタクが溶け込めないようにな。神も神で、ヒトラーのように若者を中心に熱狂させた威勢のいい演説を得意としていない。どちらかと言うと子供っぽい快活さと大人びた落ち着きを払った喋り方を使い分けるのが特徴的だ。学生の信者たちは熱狂的にハマっているのが多いが、親父や老人などからも支持率が高い。まあ、いずれテストを行うときに聞くことになるだろう」

「テスト?」

「今週の日曜日、三日後だな、駅前西口の午前零時から午前二時にかけて神の演説が行われるはずだ。奴が毎週日曜日に実施しているのだから、今週も多分やるだろう。前の日曜日の演説で、せっかくそれまでに集めた生徒の大半が飲まれた。しかしあれは俺にはまったく理解できん。あれは奴の人間性がものを言っているのではない、言葉の中に人を狂わす妙な薬でも混入しているような不自然さだ」

「わたしもわたしも、何だかぞっとしちゃった」苺が口を挟む。彼女は椅子の上で胡坐をかいており、長い足が目立った。

「魅力的っちゃ魅力的だし、喋り方も可愛いんだけど、なーんか変なんだよね。胡散臭いっていうか、どうも『言葉の魔力』を持っているって感じでさ。さっき蒼くんが言ってた、言葉の中に薬でも混入しているみたいに、頭の中をくすぐられて気持ちよくさせられる感じなの。そうそう、子供用の風邪薬シロップってあるでしょ。実は中毒性高いらしいよ。何だかそれを耳から飲まされている感じだったなあ。甘酸っぱくてロマンがあって、子供じみたような大人びいているような、不気味な印象だった。怖かったー」

「でも、何処か無邪気というか」泉澄が腕を組んで、神妙な顔つきになる。「快活にみんなを元気付けるときもあれば、深刻に訴えかけたり。まだ若いんじゃないかっていう噂が出てるわね、喋り方からして。でも姿もカーテンで仕切られていて、影も見えない」

「話を聞く限りだと、女の人のイメージが強いですね」閃助は言った。喋り方だけ聞いても、可愛くて魅力的で子供じみているが何処か大人びた不気味さ――女の怖さに似てはいないだろうか。だが、それでももし神が男だったら惚れていたかもしれないなどと抜かした女子生徒もいたぐらいだ。口調を使い分けているらしいから、男性的な逞しさも醸し出しているのかもしれない。ますます謎だ。

「でも、ここにいる講師の方々や、苺さんには、神様の演説は効かなかったんですね?」

「そういう人間だって少しくらいはいるのだ、なめないでほしい」蒼矢は一旦間を置き、「先週の演説で、当時九人いた生徒のうち三人が神の手に落ちた。さらにもう一人は……俺との口論で出ていき、その後町で見かけたときには、既に神の信者に陥っていた」胸糞悪そうに吐き捨てる。

「まったく勘弁してほしいものだ。これから手を尽くそうと思っていた者たちに、お前らは偽善者だの神に反抗する悪魔など罵られ、出て行かれた。どっちが悪魔だ、まったく。それに我々が奴らを捜し求め、授業を行ってきた時間がすべて無駄になったのだぞ。これほど屈辱的で後悔の残ることはない」

「でも、私たちは諦めないって決めたの」

 泉澄が柔らかく微笑み、頷いた。「私たちにしか救えない人たちがいる。今の生徒はみんな学生ばっかりだから、なお更ね。みんなの未来のためにも、少しでも多くの若き希望の芽を摘みたくはない」

「わーお、いずみーイケメン!」

 蒼矢は少し呆れた風に溜息をつき、「まあ、そういうことにしておいてやる」最後は乱暴に話を切った。

「さて、二十分経った。これで初回の授業は終わりだ、あとは好きにしろ」

 蒼矢はそう言い残し、奥の事務所に入って行った。

 彼が消えた教室は暫し沈黙が降り、しばらくして苺が言った。

「蒼くん、いっつも時間がない時間がないって、アリスに出てくる白ウサギみたいなこと言ってるの」

 泉澄が目を伏せる。

 閃助は壁かけ時計を確認した。席の列から後ろを向けばどこの席、どこの角度からでも窺がえる好位置にある、大きくて円形の時計。午前八時を指している。久々に歩き回ったせいか、それとも「睡眠の時刻」が迫っているせいか、閃助は微かな眠気に襲われた。

「今日はもう帰っていいわよ。もしまた来てくれるのなら、明日でも明後日にでも来て。時間はいつでもいいわ、夜中から朝にかけては、ずっと開けてるから」

 平常通りの時間に戻せば、昼間から夜、と言ったところだろう。

「わかりました」深くお辞儀をし、席を立つ。すると、がやがやと声が玄関から聞こえた。

「おい、また誰か来たのかよ?」

 無遠慮に教室に入って来たらしい少年が、ホワイトボードの脇から怪訝そうに顔を出す。黒いパーカーを来て、紫色のニット帽を被った、童顔の少年だった。年は小学生高学年か中学一年生ぐらいだろうか。彼は緊張する閃助を値定めするように眺め、「ふうん」と呟く。

「なっち、国っち、みゅう、まーりん、おかえり!」

 苺が元気よく立ち上がると、小太りの高校生ぐらいの男がぬっと顔を出して、「麻里なら、もういないよ」と暗く呟く。

「え?」

「ああ。突然癇癪起こして、逃げ出しちまった。腫れ物扱いされるぐらいなら、神の方に寝返った方がマシだってよ」

 ニット帽の少年は興ざめしたように呟き、買い物用のエコバックを泉澄に押し付けた。

「ほらよ、夕飯のおつかい買ってきたぞ。どうせ今日もみんなここでメシ食うんだろ」

「夏星くん、何処行くの。食べないの?」

「出先でアイス食ってきたから、もう腹いっぱい」

 夏星と呼ばれた少年は、パーカー越しからは気づきにくいが、袖から伸びる手首はかなり細かった。顔立ちも頬がこけるほどではないがシャープで、色白だ。身長もあまり高くなく、しかしどっしりとした足取りで隅の列の一番奥の席へ入っていってしまう。一人仲間が欠けた事態に関して、まるで興味がなさそうだ。

「まーりんが……」

「これで生徒は四人ね」

 苺が寂しそうに俯く。泉澄もがっくり肩を落とした。

「けど、麻里は既にちょっと前からキツそうだったろ、メンタル的に。授業だって上の空で、一回蒼矢先生とも口論になりかけたじゃないか」

 小太りの男子が椅子を引いてどっかり腰かけた。何処か人を見下したかのような口調に、皆が押し黙った。本人は自覚がないのか気にしていないのか、コンビニの袋からサンドイッチを取り出して袋を破り始める。

 これ以上自分が口出し出来ないと察した閃助は、せめて場の空気を変えようと、「あの、いいんですか。さっきのニット帽の彼を放っておいて……」と控えめに声を上げた。「いくら痩身と言えど、アイスだけじゃさすがに食事としては足りないんじゃ」

「ほっといていいさ。夏星、いっつもああなんだよ」小太りが苦笑しながら閃助に話しかけてくる。彼は自身を国定と名乗った。

「夏星の分、勿体ないからさ、お前も食べていきなよ」

 しかし幾分食欲のなかった閃助は丁重に断り、今日は帰りますありがとうございました、と泉澄たちに礼を言って、背を向ける。ばいばーい、と苺が満面の笑みで大げさに手を振ってくれた。

 玄関から、国定と、もう一人のみゅうと呼ばれていた眼鏡をかけた女子のひそひそ声が聞こえた。

「夏星さあ、いつまでここに居座るつもりなんだろうね」

「神側にもこっち側にもいるのが苦痛なら、いっそ一人になっちゃった方が気が楽でしょうにね」

 玄関まで見送ってくれた泉澄の耳にも届いたのだろう、彼女は深刻そうな顔をした。どうやらまともな精神を保っている人間が住み着く旋風塾にも、ある意味では異色な人間が少なくないらしい。

「また来ます」何故だか閃助は、そう口にしていた。「明日の夕方、いえ、朝方とか。学校が終わったあとにでも」

 それまで景気の悪い表情をしていた泉澄が、はっと顔を上げた。端正な顔立ちが少し綻ぶ。

「本当? 蒼矢もきっと喜ぶよ。明日なら、三人目の講師も出勤してくるし、楽しみにしてるね、閃助くん」

 優しげな女性の声に、閃助、と呼ばれたのは久方ぶりだった。あれ? 自分はいつもどの女性に、閃助、と呼ばれ続けていたのだろう。母親は一度だって、名前を呼んでくれはしなかったはずだ――。


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