19.「時間がない」
ただいま、と囁いた泉澄の声に反応してくれる者はいない。それはそうだ。もう、新緑町で出会った生徒たちは皆、転生してしまったのだから。泉澄がしゅんとしているのを、涼が背中を叩いて慰める。
「ありがとう。毎度慣れないわね、この寂しさは」
「今回は特に。ね、蒼矢さん」
帰って早々、蒼矢はC列の最後尾の席に突っ伏した。頭痛に眩暈、全身を駆け抜ける気持ち悪い痺れ、鬱陶しくて堪らない。自分はもう永くないのだと、ここ数年前から悟っていた。泉澄の言うとおり、働きすぎだったのだろうか。特に今回の新緑町の件は、かなり心身共に厳しい状況に何度も立たされた。
「蒼矢さん、少し休んだ方がいいですよ。身体にガタが来てるのがこっちから見ても丸分かりです」
涼に差し出された手鏡を覗き込む。前より一層暗くなった目元のクマが、自分を睨みつけていた。寝不足どころか、ヤクチュウにも見間違われそうだ。これはひどいな、と蒼矢は自虐した。
窓の外は真っ白な世界が広がっていた。まさに世界の終わり、そして始まりに相応しい光景だが、見慣れてしまった三人にとってはいつもの日常の一環に過ぎない。「ギリギリセーフだったね」と泉澄が笑う。彼女は大分目の腫れが引いていて、夏星にもらったニット帽を大事そうに被っている。涼はイエローサブマリンを口ずさんで、棚のファイルの整理をし始めた。二段目の一番左端のファイルの背表紙には、「新緑町」と書かれている。それを手に取り、涼は中のページをめくった。相変わらずクールな表情は崩れないが、穏やかな面持ちで新緑町の記録に目を通している。
こうして、次の世界が創造されるまで、各自のんびりと休息を取るのが天使たちの日課であった。次に管理する地名は、冥界が出来上がった際に自分たちの手で調べなければならない。その町、あるいは市、あるいは村の名前が、次のファイルの背表紙に書き込まれることになる。
蒼矢は全身のだるさに耐えかねて、「事務所で寝る」と椅子から立ち上がった。そして重い足取りで光の差し込む教室を歩き、事務所のドアを開ける。
あ、と蒼矢が素っ頓狂な声を上げた。
「おい……貴様……」
事務所の前でわなわなと震え出す蒼矢に、泉澄と涼も何事かと駆けつける。二人は事務所を覗き込み、愕然とした。泉澄は半分笑っている。
「何故……何故ここにいる、閃助!」
事務所の床に正座していた閃助は、勢いよく土下座をし、「僕を旋風塾の講師にして下さい」と声を張り上げた。
「いきなりふざけるな!」と喚き散らしたのは蒼矢だった。
「俺が、俺がどんな思いで、お前たちを……」
だが、蒼矢の憤激は一瞬で鎮火してしまった。泉澄と涼は顔を見合わせて、「デジャブね」「はい」と言い合った。まさしく、彼女らが旋風塾へ残った経緯と似たような状況だからだ。蒼矢に懐いた者ほど、旋風塾の講師に憧れる。そして蒼矢の手助けをしたくなる。蒼矢自身もそれをよくわかっていた。だからこそ、怒鳴る気力すらなくなってしまったのだ。
「これで三人目、だと」蒼矢は額を手で覆った。「しかも高校生」
「先生方のご厚意や、先生方が僕たちを導いてくれたこと、そして塾のみんなとの思い出や姉さんへの感情を、僕は忘れたくありません」
閃助は至って真剣だった。背中は汗でびしょびしょだったが、先ほどの慟哭で枯らし気味だった喉を必死に駆使して懇願した。
「先生方が去ったあと、僕はすぐに遠回りをして、全速力で塾へ戻りました。町中が光に包まれて視界が悪く、何度も転んじゃいましたけど」
照れ臭そうにはにかむ閃助の全身は、確かに無数の生傷が残っている。余程必死にここへ辿り着いたのだろう。
「僕は貴方がたのように、これからも悪魔と戦いたいんです。ギリギリまで悩んで結局そう決めました。蒼矢先生の右腕になって、いつかは蒼矢先生に楽させられるような立派な天使になりたいです!」
「俺は老人か! まったく、どいつもこいつも大概にしろ!」
「でもこの気持ちは本物です!」
閃助に引き下がる気持ちはなさそうだった。傷だらけになりながらも、再び旋風塾へ舞い戻り、しかも既に冥界は新たな町を創造中。もう遅い。少なくとも次の冥界が創造されるまで、閃助は転生出来ない。はあ、と蒼矢は深い溜息をついた。
「本当にそれだけが理由か」
「いずれは――香梨ちゃんを地獄から奪還します」
「何?」
さすがの蒼矢も度肝を抜いた。いくら何でもそれは、と泉澄が口を挟みかけたが、閃助の瞳の中に闘志がメラメラ燃えているのを三人は感じていた。閃助はもう最初に出会ったあの閃助ではない。もう臆病で気弱な少年じゃない。彼は戦士になるのだ――。そう、三人は確信した。
蒼矢は腕時計を見る。「まだ次の冥界が出来上がるまで、些か時間がかかるだろう」
「はい」
「仕方ない」蒼矢は閃助の頭を鷲掴みにし、今度は撫でるのではなく無理やり立たせた。痛い痛いと閃助が喚いても無視する。そして彼の鼻先をつまみ、がなった。
「いいだろう閃助、お前に天使としての四十八手を教えてやる。次の冥界が出来るまで、ハイスピードでだ。スパルタだぞ。俺の厳しさは知っているだろう。ついて来れるか」
「何処までもついて行きます!」
明朗快活に閃助は頷いた。両手で拳を作り、蒼矢を見つめ返す。すると蒼矢は彼の頭を離し、泉澄と涼を一瞥した。泉澄は心底嬉しそうに微笑む。涼は鼻息を洩らす。そして蒼矢はまた閃助に向き直り、目の前の精悍な少年の胸に人差し指を突き立てた。
「時間がない。今すぐ始めるぞ――聖なる塾講師の心得を学ぶ授業をな」
蒼矢に元気が戻っていた。
おわり




