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18.「この素晴らしい思想で溢れている町にサヨナラ」

 その後の双子の対応は迅速だった。

 午前十時、新緑町の住民たちが大体町に帰った頃を見計らって、町役場から町内放送で閃助は住民たちを駅前に集めた。閃助だとバレると面倒そうなので、珠姫の声真似を使った。信者たちは突然の神からの呼び出しを不思議に思いながらも、特に疑問は持たずアホ面で駅前に集結する。だがこのアホ面の中に、今まで学校で仲良くしていた友人たち、世話になった先生たち、近所の人たち、閃助がかつて接してきた人たちが山ほどいる。自分たちの役目は、彼らを無事に転生に導くことだ。

 駅前には珠姫がスタンバイしていた。彼女は姿を隠さなかった。新緑町の住民たちは、初めて見る女神の美貌と、彼女から醸し出される艶やかで輝かしい雰囲気に息を飲んだ。これが珠姫の武器だ。声と口調だけの珠姫など、彼女の魅力の半分も出し切っていない。

「突然呼び出しちゃってごめんなさい。今日は皆さんをある場所に連れて行きたくって、こうして集まってもらいました」

 後から閃助も駅前に足を運んだが、熱っぽい視線と声援を一心に浴びる珠姫は完全なるアイドル扱いだった。それもそうだろう、ただでさえ人懐っこい性格と口調が特徴的だったのに、正体はあそこまでの美人だったのだから、特に男性はイチコロだ。

「わーい、たくさんの声援ありがとうございます! 今まで恥ずかしくて顔出ししてなかったんですけど、勇気を出してみんなの前に出てきてよかった。あ、写真はだめですよお、携帯のカメラ越しじゃなくて生の私をもっと見てほしいな~なんて」

 苦笑してしまうほどノリノリである。

 閃助の同級生たちは彼にそっくりの珠姫が現れて驚いているだろうが、仲のよかった友人には双子の姉がいると前に話したので、察してくれることを祈る。ちなみに女装して珠姫そっくりの姿になっている閃助は、前に夏星と演説を聴いていたのと同じ場所、駅構内の購買の前に身を潜めていた。

 思えばあのとき、もっと間近で演説を聴いていたら、カーテン越しのシルエットで珠姫だと気付いたかもしれなかった。旋風塾の面々は、ひょっとしたら気付いていたのだろうか。それともただ髪型が似てるだけだとしか思わなかっただろうか。いや、もうどちらでもいい。終わりのときは刻一刻と近づいているのだから。

「ねえ、みんな――」珠姫は溜息混じりに囁く。「貴方たちはきっと知らないのでしょうね。ここは私たち人間の永遠の旅路の中の、小さな休憩所に過ぎなくて、私たちはこれからまた旅立たなければいけないってことを。まだ見ぬフロンティアが私たちをずっと待っていたのに、私たちはここで遊びすぎてしまったことを」

 珠姫の言葉遣いが少々砕けている。彼女はもう神として皆に語りかけているのではないのだ。一人の少女として、人々を魅了しようとしている。

「遊びは一旦終わりにしましょう。私は今から、貴方たちをフロンティアへ連れていく。突然の話で申し訳ありませんが、時間がないのです。じきにこの町には大きな災害が振りかかるから」

 その場が騒然となった。そりゃ勿論、誰だって突然町に天変地異が起こるなどふざけたことを言われて信用出来ないだろう。だが、その騒がしさは懐疑的なそれではない。住民たちの心を一ヶ月以上も前から掌握している神が言うことは絶対、それが今の新緑町のルールだ。とどのつまりその神の名を騙る珠姫の発言はすべて、信者たちの心を蜘蛛の糸で惹きつける。

 遠目からこっそり覗き込む。ステージ上に立つ珠姫はアイドルのようにキラキラしていた。太陽の光すらスポットライトにし、にやりと笑っていた。ミッドナイトはもう来ないなと悟った。

「さあ、みんな、ついてきて。この素晴らしい思想で溢れている町にサヨナラして、もっと希望溢れる世界に飛び出そう。貴方を導いてあげるわ、この私が」

 相当距離が離れているはずの閃助に向かって、珠姫はウィンクした。してやられた。全部自分の手柄にしようと目論んでいるのが丸わかりだった。だが、その判断は正しい。新緑町は神を中心に回っていた独裁政治の町だ。神、というより女神に成り代わった珠姫がすべてを終着させなければ信者たちはきっと納得しない。閃助だって誰かに褒めてもらいたくて悪魔に立ち向かった訳ではない。もういいのだ。

 もはや誰も、珠姫の台詞に何の疑問も抱かない。彼女のオーラがさらに住民たちの信仰心を高めてしまったのだろう。珠姫はステージから飛び降りて、手を振ってこっちこっちと駅構内へ入っていく。住民たちがアイドルの追っかけの如く、一斉に彼女を追った。閃助は慌てて駅内のトイレに駆け込み、人ごみが過ぎ去るのを待った。珠姫を筆頭に、住民たちは行列をなして町を横断していく。帰宅途中だったサラリーマンやOLたちも、列の中に入っていく。大行列はいずれ旋風塾の前も通るだろう。

 駅の周辺がすっかりもぬけの殻になった頃、閃助はようやくトイレから出てきた。誰もいない新緑町の駅前を見渡す。壁一面に張られた、神を崇めるポスターを眺める。それを片っ端から破り捨て、気が済むまで続けた。

 それから急いで自宅へ戻り、メイクを綺麗さっぱり落とした。服を脱ぎ、適当な男物のシャツとジーンズを着衣する。普通のおかっぱ頭の男子高校生に戻った。もう二度と、珠姫を思って自慰行為も同然の女装をする日は来ない。今、珠姫は、きっと有頂天で大行列を率いて小梅川に向かっているだろう。閃助は彼女を信じている。そして、喉を搔き毟りたいほど香梨の地獄行きが苦痛だったのをおくびにも出さなかった閃助を、びっくりした様子で見つめる彼女を思い出す。いつも余裕綽々で人を翻弄する珠姫が、初めて浮かべる表情だった。閃助は全身鏡の前に立ち、少しだけ思い出し笑いをして家を飛び出した。思い出し笑いと言えば、香梨の笑みも忘れてはいけない。閃助は何度も唾を飲み込みながら、無人と化した町を走る。

 風にそよめく街路樹、色褪せたゲームセンターの壁、もう動かない駐車場の車と、路上に放置されたバス。ああ、地味で小さな新緑町には、こんなにもたくさんの色が溢れていたのか、と思う。空は快晴で、見慣れた真夜中の星は当然存在しない。燦然と町を照りつける太陽に目を細める。核爆弾が落とされたまま時間が止まった五月の空を辿って、旋風塾へ戻った。

「おい、今すごい行列が通り過ぎたところだ! マジであいつら、小梅川の方に向かってる!」

 開口一番、国定が興奮気味にまくし立てる。蒼矢と涼は、珠姫の後を追って既に小梅川に向かっているという。珠姫が最後まで裏切らないか見張るつもりなのだ。蒼矢は完治とまでは行かなかったが、歩いたり喋れたりは普通に出来るらしい。話を聞いて閃助は安堵した。

「私たちも行きましょう」泉澄が穏やかに切り出した。生徒は全員、頷いた。

「ああ、こんなふざけた世界とやっとおさらばだと思うと清清しいぜ」

 国定は大きく伸びをして、満足そうに溜息をついた。だがすぐに口をへの字に曲げて、「ま、ちょっと寂しいけどな」とぼやく。夏星が馬鹿にしたように鼻で笑った。

「ねえ」苺が恐る恐る閃助に訊ねる。

「香梨ちゃんは……?」

 閃助は一瞬顔を歪めかけたが、胸に手を当ててゆっくり言葉を吐く。

「新緑町すべての住民の命と引き換えに、悪魔の犠牲になった」

 雷に打たれたような衝撃が苺たちを襲ったのだろう、皆が真っ青になった。夏星だけは目を伏せたが、閃助に至っては顔色一つ変えなかった。握り締めた拳が震え、振動が上腕にまで伝わっている。

「閃助くん……」泉澄が恐々と閃助に近づこうとするが、それを閃助は手で制する。

「泣くもんか」閃助は少し声を張り上げ、心臓を鷲掴みにする。深くこうべを垂れたが、涙は落ちない。

「香梨ちゃんは最後まで泣かなかった」

 そして顔を上げたとき、苺が飛びついてきた。抱きすくめられるがまま目を白黒させていると、耳元で優しく囁かれる。

「閃ちゃんたちがこの世界に来てくれてよかった。塾の先生たちが天使なら、閃ちゃんたちは英雄だよ」

 そっと離れた苺は優しく微笑んだ。いつもの明るい彼女の笑みが太陽なら、今の彼女の笑顔は月だ。落ち着いた眩しさが美しい。

 夏星はニット帽を被り直して言った。

「あの女子高生が一人犠牲になっただけで、他の全員が救われるっつー逆転劇が今起きてるんだ。奇跡だぜ。俺たちはもう――余計なことなんて一切考えず、この世界からさっさと飛び降りちまった方がいい」

「……そうだね」

「俺の勘だけどよ、女子高生はお前らが思ってるほど地獄に堕ちたことを悔やんでいないと思うぜ」

 夏星はズボンのポケットに手を突っ込むと、上目遣いで閃助を見た。「あいつは、きっと叶うことのない綺麗なままの恋を、一生胸に抱いて地獄を生き抜くだろうよ。それはきっとあいつを永遠に立ち上がらせる――見かけによらずしぶとそうだしな」







 小梅川周辺一帯は、空が淡いグラーデションを帯びて檸檬色に染まっていた。桃色の雲が霞がかった空は、確かに極楽に似つかわしい柳緑花紅の光景だ。ちなみに、紅町の風景など何処にもない。川全体は霧がかり、あとは周辺の木々が風に揺られてささめくだけで、川の向こうに見えていたはずの河川敷の景色はなかった。現世の小梅川そっくりに、水流は緩く、ズボンを捲し上げて足を浸けると思ったほど冷たくなかった。水流に撫で付けられて気持ちがいい。

 しかし、本来渓流のないはずの小梅川周辺には、突き抜けるような轟音が響いていた。何処かに滝でもあるのかと疑うくらいだ。

「水が気持ちいい。涼が水温調節してくれたのかもね」泉澄が眩しそうに川の向こうを見つめる。微かに霧が立ち込める川の中へ、住民たちは列を成して次々と入って行った。珠姫が新緑町側の河川敷の下でその光景を眺めていた。閃助たちが来たのに気付くと、彼女は軽く手を振る。

「初めまして、旋風塾ご一行様。と言っても、すぐにサヨナラだけどね」

「うわ、本当に閃助に似てるな。でも姉貴の方が美人だわ」

 国定が冗談抜きで珠姫に見惚れていると、閃助は苦笑いした。泉澄が川の向こうを覗いてみましょうかと提案したので、彼らは恐る恐る川の中を歩いた。小梅川は浅瀬で、澄み切っているほどではないがそれなりに清潔な川だ。綺麗好きな珠姫でも平然とニーソックスを脱いで、膝下まで水に浸かった。

 進む度に滝の流れるような音もどんどん大きくなる。霧が濃くなってくると、閃助は不安になって前方の泉澄のスーツの裾を握る。泉澄は笑って、突き落としたりしないから大丈夫よと慰めた。本当に滝があるのではないかと慄いてしまった発言だった。霧だと思っていた白いモヤは、手で払うと簡単に切れた。「いてっ」「押すな」国定と夏星がじゃれ合っているのが耳元に届いて、安心する。

 一行がそろそろと進んでいくと、急に視界が開けた。霧の壁をいとも簡単に潜り抜けた先にあったのは――本当に滝だった。

 激しい水流に押し流されて少し前のめりになりかけた閃助を、国定と夏星が寸でのところで受け止める。泉澄は天使として鍛えた力の賜か、時折迫ってくる激しい水流も何食わぬ顔だった。滝は轟々と音を立てているにも関わらず、踏ん張れば足元を支えられた。恐らく生身の人間だったら簡単に流されていただろうが、魂だけの存在である彼らは、却ってこの不思議な水に耐えられるのかもしれない。

「すっごーい」と苺が水の中にしゃがみ込んで叫んだ。珠姫も足に自信がないのか岩場に膝をついており、面白そうに下を眺めている。

 幅が広く、落ちない程度に下を覗き込むと真っ白な水飛沫が朦々と上がっている様は、ナイアガラの滝を髣髴とさせる。唯一現世にある滝と違う面は、下の水面が見えないことだ。もくもく漂っている水飛沫と思っていた白いものは、ひょっとしたら雲なのかもしれないし、そうでないかもしれない。閃助にはわからない。わからない程度の奇妙さが、逆に心地よいと感じた。今まで不気味な信仰ムードに包まれていた新緑町の果てに、こんな神秘的な場所があるなんて信じられなかった。何より閃助を感動させたのは――次々と滝へ飛び込んでいく新緑町の住民たちの姿だった。

「さっき塾のセンセーたちに会って、ここから飛び降りるようみんなに指示したの。これで終わりだなんて、呆気ないものね」珠姫はからからと笑った。だが閃助には、胸を打たれる光景だったのだ。

 誰もが飛び降りようと身体を宙に浮かせた瞬間、晴れ晴れした、本当に幸せそうな表情となり、そのまま落ちていくのだ。神を崇める表情とはまた違う、何処か解放されたかの如く笑って皆が落ちていく。皆が現世へ帰っていく。閃助のすぐ傍で、水飛沫と同時に美羽が飛び跳ねた。いつもの快活とした彼らしい表情で、腕を思いっきり上げて落下していく。閃助たちには気付いていないようだったが、閃助は「バイバイ」と手を振って美羽を見送った。

 その瞬間、ばしゃばしゃと飛び跳ねる水飛沫に混じって、閃助の瞳からも雫が零れていた。我々は死んだ。かくも哀れな核爆弾の実験で、しかもアホらしいカルト教団の仕業で、さらに言えばその教団には自分の母もいて。珠姫はそれを知っているだろうか。知っていたとしても、彼女にとってはどうでもいいことだろう。母に愛された姉は、特に母が好きという訳でもなかったからだ。

 この下には、きっとまだ生き延びている神崎がいる。そして新緑町の皆は、ついに悪魔の信仰心のままにここを飛び降り、悪魔への熱狂的な信仰心など綺麗さっぱり忘れる。最後まで、悪魔の正体や本当の目的が何だったかも知らないまま。そして現世でまた新たな命として生まれ変わる。

 でも、それでいい。ここは冥界だ。極楽だ。皆がこうして、幸せな顔をして新たなフロンティアを飛び出せたのだ。香梨の犠牲は無駄ではなかったのだと、閃助はそう信じている。

 なのに、涙が止まらなかった。皆がいる前なのに――珠姫がいる前なのに、閃助は涙が溢れて止まらなかった。香梨でなく、自分が残ってしまった事実を恨んだ。無駄だとわかっていても、筋原たちに新緑町の真実を伝えられないままサヨナラしてしまったことを後悔した。いずれは自分たちも、前を向いて、この世界に別れを告げなければならない。それが堪らなく苦しかった。まだ、自分はこの冥界で、何か出来るのではないかと――最後の最後で迷いが生じてしまった。

 自分の情けない泣き声を聞きたくなくて、閃助は耳を塞いで慟哭した。自分はいつでも何処でも、泣いてばかりだ。一度顔を上げたとき、苺も一緒に泣きじゃくっていた。後ろを振り向くと、蒼矢と涼が彼らのくしゃくしゃの顔を見てぎょっとしていた。苺は涼に抱きつき、蒼矢は再び水の中に蹲って嗚咽を繰り返す閃助を、じっと見下ろしていた。

 やがて水飛沫は止んだ。顔を上げると、涙もすっかり乾いて顔中かぴかぴになっている。

「残りはお前たちだけだぞ」

 蒼矢が水中であぐらをかいていた。「気は済んだか、閃助」

 閃助は答えなかった。代わりに立ち上がったのは国定と夏星だった。


「あーあ、もっと早くおさらばするつもりだったのに、結局長居しちまった」国定は得意のシニカルな笑みを浮かべる。「美羽もちゃんと落ちたみたいでよかったぜ。つーか、もしここで俺たちが落ちた先が実は地獄でした、なんてオチだったら笑えるけどな」

「ははっ、確かに」夏星が初めて国定の言葉に笑った。

「センチメンタルなムードが感染しないうちに、俺はさっさとおいとまするよ。世話になったな、先生たち」

 国定は振り返らず、その仔豚の如く体躯で水を切りながらのしのしと歩いて行った。そして滝の瀬戸際に立つと、右手を軽く上げてダルマみたいに落ちて行った。


「俺も行くか」

 夏星も首筋を搔いて歩き始める。泉澄が泣きそうに顔を歪め、「待って」と叫ぶ。夏星が気だるげに振り向いた先に、泉澄の白い手が差し出されていた。

「頑張ってね。貴方のこと、ずっと応援してる」

 泉澄は口元を押さえ、嗚咽が洩れるのを堪える。そんな彼女の震える手を、夏星は些か乱暴に握った。一層涙が溢れる泉澄だったが、やがて口元から手を下ろし、汚い泣き顔を晒してしっかり夏星を見つめた。夏星も泉澄を見上げ、

「きたねー顔!」

 と指差して笑った。泉澄も泣きながら微笑んだ。

「おじいちゃんになるまで冥界に戻ってきちゃ嫌だからね。貴方の居場所はきっと、現世にもたくさんあるから。探して、居場所を見つけて、素敵な人生を送ってね」

「ま、努力してみるよ」

 名残惜しそうに互いの手を離す二人。夏星はニット帽を取ると、爪先立ちして泉澄の頭に深く被せた。「それで泣き顔隠してろ」

 そしてズボンのポケットに手を入れ、真っ逆さまに落ちていった。

 泉澄はニット帽で目元を隠し、歯を食いしばって滝の如く涙を流した。


「涼くん、みんな、私もそろそろ行かないとだよね」

 苺が泣き腫らした顔で満面の笑みを浮かべる。涼は最後までポーカーフェイスを崩さないが、苺の頭を撫でて「気をつけて行ってらっしゃい」と呟いた。

「ねえ涼くん、最後にあれ歌ってよ。わたしあれ一生懸命覚えて練習したんだよ」

「あれって?」

「涼くんがわたしと初めて授業したときに歌ってくれた歌だよ。『いちご☆エクストリーム鼻歌バージョン』」

「あれってビートルズのイエローサブマリンなんだけど」

 涼の透き通ったテノールボイスと、苺の音程バラバラのソプラノボイスが、「イエローサブマリン、イエローサブマリン」と口ずさむ。二人の奇妙なハーモニーは、やがて苺の歌声が消えると涼も自然と歌うのをやめた。そして涼は、ぼうっとしながら苺の面影を見つめていた。もう彼を追いかけていた純粋無垢な歌姫はいない。



「さーて、結局残りは私たちだけかあ」

 珠姫は腕組みし、「どうすんの、閃助」と未だしゃがみ込む閃助を見下ろす。

「まだ居座る気なら、私は先に行っちゃうわよ。早く次の美女に生まれ変わりたくてうずうずしてるんだから」

「行くなら閃助の奴も連れていけ。この世界に身体を失った魂がほとんど消滅した今、じきに新緑町は崩壊する」

 蒼矢がつっけんどんに言い放つと、「待ってよ!」と閃助は拳で水面を叩きつけた。最後の最後まで何て己は見苦しいのだろうと思う。地獄の香梨も、こんな自分を見たら落胆するに違いない。だけど、まだ閃助の中で燻っていた思いがあった。もう少しだけ時間がほしい、もう少しだけ!

「時間がないんだ」蒼矢はお決まりの文句でケリをつけようとした。逆にそれが閃助の心に火をつける。

「早くしろ、このままぐずぐずしていると、お前もこの世界と一緒に崩壊することになるぞ!」

「蒼矢先生はちょっと黙ってて下さい!」

「何だと貴様、この俺に向かって刃向か――」

「珠姫姉さん!」

 水飛沫を上げていきり立ってくる蒼矢を無視し、閃助は珠姫に向き直る。珠姫は閃助の強気な眼差しに一切動じない。彼の次の言葉を、辛抱強く待ってくれているようだ。

「僕は貴方を、心の底から愛していました」

 滝の音にかき消されないように声を張り上げて言った。足元の水流がちゃぷちゃぷ音を立てて閃助のふくらはぎを撫でつけて行く。

「そしてこれからもずっと愛しています。実の姉であろうと関係ない。貴方の双子の弟として生まれたことを誇りに思ってる」

 まだ鼻声だったが、芯の通った声音だった。彼女の心に少しでも響いてくれただろうか。いや、見えないくらいの痕でもいい、何か残せたら、それで満足だ。今までなかなか恥ずかしくて伝えられなかった言葉を、胸に温めたままだった告白を、言えてよかった。閃助は脱力しそうになり、珠姫にそんな様を見られているのかと思うと穴があれば入りたい気持ちだった。

 珠姫は肩をすくめ、「最初からストレートにそう言ってくれれば、まだ爆笑した程度で済ませてやったのに」と忍び笑いする。閃助はバツが悪そうに俯いた。何度も珠姫に笑われ、蔑まれてきたが、きっと閃助が女装の才能を駆使して彼女を傷つける真似をしなければ、もう少し現世でも一緒にいられたのかもしれない。

 珠姫は不意に閃助に顔を寄せ、唇にキスをした。一瞬の出来事だったが、信じられない気持ちでいっぱいになり、閃助は本当に脱力して尻餅をついた。泉澄は真っ赤になった目を見張り、涼はあんぐり口を開け、蒼矢は頬を引き攣らせた。

「あんたは私ほど可愛くはないけど、卑劣で、内なる狂気を潜ませているところは私とそっくりで、人を惹きつける力もある。香梨ちゃんみたいな孤高の美人を惚れさせた男なんだから、来世ではもっと自分に自信を持ちなさい」

 雅やかな笑みで、珠姫は最後に閃助の心を射抜いていった。「あんたが実の弟じゃなければ、ひょっとすれば私も好きになってたかもしれないわ。なーんてね」

 踊るようにスキップして、そうして閃助の愛する姉は颯爽と消えて行った。彼女が飛び立った瞬間に上がった水飛沫が、また水面に波紋を広げる頃、閃助は目の前に白い霧が舞っているのに気付いた。ここへ来たときに彼らの行く先を遮った霧とは違う、もっと眩い光を放つものだ。



「時間が来たな」

 蒼矢が静かに立ち上がった。「この冥界の役目はもう終わりだ。恐らく、悪魔もとっくに香梨を連れて地獄へ戻っているんだろう。俺たちも旋風塾に帰らなくてはいけない」

「旋風塾は、消えないんですか」

「あれは――何なのだろうな」蒼矢は顎に手を添える。「俺がいつのまに天使として生まれ落ちたときから、ずっとあの塾だけは傍にあった。あの外観も、作りも、席の数も、事務所のデスクの数を増やした以外は何一つ変わらないままで。そして一つの冥界が、魂たちの休息の場としての役目を終えて消滅するとき、俺たちはあの塾の中から、新たな冥界が創造されていく様子を見守る」

 つまり、旋風塾以外の風景、建物などの町の構造すべてが毎度毎度入れ替わり、あの旋風塾だけは、いつまでもあの場所に残っている。

「何故なんでしょうか」

「もしこの広い世界、いや宇宙か――とにかく何処かに本物の神がいるのだとしたら」蒼矢はおかしそうに笑った。「あの塾は神が与えてくれた、俺たちの武器なのかもしれない。たまに他の天使グループと共同で一つの冥界を管理するときがあるが、どこのグループも必ず専用の隠れ家を持っている。それは家だったり、ピアノ教室だったり、いいところだと図書館だったりな」

 どの天使たちも、そうして悪魔の信者になれなかった迷い子を引き取るための場所を持っている。それは彼ら自身が獲得したものではなく、既に気付いたときには手にしていたもの。天使すらも統括し、操っている、神は一体何処にいるのだろう。

「もしかしたら今回新緑町の住民たちが、ほぼ全員転生出来たのも、百年の一度の神様の優しさかもしれませんね」

「さあな」

 閃助は立ち上がる。白いシミが視界の端々に浮かび上がり、波紋が広がっていく。きっと一つの冥界が終わりを迎えようとしているのだ。自分たちに希望と絶望と幸福と悲しみを与え、そして大切な人たちとめぐり合わせてくれたもう一つの新緑町。それが今、消えようとしている。いつまでも眺めていたい、輝かしい光景だ。この光景を見終える頃には、きっと自分は滝の下に落ちていて、また新たな命を芽吹かせる。また人間になれるか、それとも犬になるかウサギになるかカメムシになるかはわからない。だけど、その生物に生まれたからには命が燃え尽きるまで精一杯戦ってみせよう――。きっと自分なら出来ると、閃助は確信していた。

「蒼矢先生、泉澄先生、涼先生」

 閃助は顔を上げて微笑む。

「急いで、塾へ帰って下さい。時間がないでしょ。僕はもう少しここで、一人で佇んでいたいです。時が来たら動きますから、心配しないで、行って下さい」

 蒼矢の腕時計は、水に濡れて秒針が止まっていなかった。もう幾度もここで水を浴びながら、生徒たちを見送ってきたのだろう。その腕時計が光る左手が、閃助の頭を鷲掴みにする。そして頭がくしゃくしゃに乱れるほど、撫でられた。閃助は嬉しくてまた笑った。水は気持ちよくて、光溢れた景色は明媚で、蒼矢の手は冷たいのに何処か愛情を感じる。

「先生、先生」と閃助は蒼矢の手にじゃれた。そして蒼矢の手が離れていっても、手を伸ばさなかった。

「達者でな、閃助」

 光で前が見えなくなりそうだ。だけど、蒼矢のドス黒いクマは、しばらく名残惜しそうに閃助を見つめていた。

「最後だから特別に教えてやろう――お前たちは俺が命と時間を削ってでも守りたいと思えるほどの、生徒だった」


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