表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/19

17.「一秒も迷うな、ド変態姉弟!」

 朝を迎える新緑町は、帰宅ラッシュで駅前にたくさんの人がいる。サラリーマンや学生たちは今頃バスの中で目を覚まし、今日も仕事や授業をこなしてきた満足感と疲労を背負って帰っていくのだろう。それが作られた記憶とも知らずに。閃助はそんな世界にピリオドを打つために、駅構内を通って西口へ抜ける。香梨もついて行く。

 ビルの隙間からブラッドオレンジの朝焼けが、町役場へ向かう二人を覗き込んでいた。東雲色の空の下、新緑町は今日も人に溢れている。閃助は改めて朝焼けを眺めながら歩いた。地獄の業火もあんな色をしているのだろうか。放射線状雲が朝焼けに向かっていくつも伸びている。地獄へおいでおいでしているかのように。だけど、美しくないと言えば嘘になる光景だ。やがて時間が立つにつれて太陽は白みを帯び始めるだろう。

 閃助は二度と開くことのない美容室に到着してから、二階の自宅へ上がった。珠姫の部屋のドアを開け、クローゼットを開け、二十分かけて服を選び、さらに二十分かけて綺麗にメイクする。

 玄関で待っていた香梨は、閃助が戻ってくると彼の完璧な女装姿に愕然とした。メイクをすると、もはや珠姫との違いが一切なくなる。おかっぱ頭に白い肌、線の細い腰のライン、女性らしい肉付きが男の欲望をそそる太もも、ぴんと伸びた背筋。彼は微かな雲の割れ目から差し込んでくる日差しを、堂々と受けて立っていた。もうじき朝が来る。

 ちなみに香梨は、閃助の自宅からバッドを盗み出していた。閃助が子供の頃、野球チームに所属していたときに使用していたバッドだ。「護身用に、一応ね」

 香梨の指示通り、彼らは新緑町の町役場へ向かった。町役場の三階の奥の部屋、そこが神の居場所だ。町を歩いていると誰もが閃助を見た。男は勿論、女も流し目で閃助を見つめてくる。理由は勿論、女装してばっちりメイクをした閃助が美しいからだ。閃助にとって自分をなめ回してくる視線は懐かしい感覚とか思わなかったが、一緒にいた香梨はかなり居心地が悪かったようだ。

 閃助の手を取り、香梨は走り出した。「香梨ちゃん、どうしたのっ?」戸惑いがちに閃助が叫ぶが、香梨は町役場に着くまで一度も振り返らなかった。そして小さな声で「馬鹿」と吐き捨てた。

 市役所に着くと、受付は顔パスで通った。ただ、受付嬢が香梨の顔に見覚えがあるのか、深刻そうに彼女の背中を追っていたが、閃助が振り向いて「あ、この子は神様の特例で今日から戻ってきたから。安心していいわよ」と微笑を浮かべた。完璧に珠姫とそっくりの口調と声のトーンだ。すると受付嬢はそれきり何も言わなかった。

「閃助くん、貴方って」

「何?」

「最後だから言わせてもらうけど、お姉さん以上の大物よね」

「そうかな? 姉さんの方がすごいよ」

 三階に上がり、言われたとおり右奥を目指した。奥には総務課の部署があり、五時を過ぎて既に帰宅した職員が大半だったせいか、人はまばらにしかいない。総務課のさら奥にある黒いドアを、香梨は指差した。「あれが最終決戦のワンルーム」

 あのこじんまりしたドアの向こうに、悪魔がいるのだと思うと鳥肌が立つ。しかし何より、珠姫が不在であるという賭けが成立していなければならない。今は彼女がいない方が断然有利だ、むしろ悪魔と閃助が一対一にならなければこの作戦は成功しないも同然。

 香梨が言うには、悪魔は相変わらずカーテンで仕切りを作って己の姿を隠しているらしい。ここで珠姫は悪魔と密会を重ねていたのだ。彼らは何処までの関係なのだろう。悪魔に気に入られたほどの魅力を持つ珠姫のことだ、悪魔も彼女の肉体を黙って眺めているだけで済まなさそうだし、珠姫も人間以外の男にほいほい抱かれてしまいそうで怖い。

 湧き上がってくる嫉妬の炎。それも閃助の武器だ。今まで姉のフリをして男を欺いてきた狂気の男は、香梨をその場に残し、汗ばむ手でドアノブを握った。眩暈が起こりかけ、足を踏ん張る。額の汗を拭う。深呼吸をして、悪魔と最後の騙し合いをするために――新緑町のみんなのために。勢いよくドアを開けた。


 珠姫が待ち構えていた。


「あーら閃助、おめかししちゃってどうしたの。もしかして今更こっち側に入ろうって言うんじゃないでしょうね」

 瞬間、閃助の中ですべての計画が崩壊した。膝から力が抜け、へたり込んでしまう。頭のカチューシャやつけ睫毛を剥がしてしまいたい衝動に駆られた。珠姫は、絶望のどん底に叩きつけられた閃助を見下し、腹を抱えて笑った。

「何度も同じ手は食らわないわよ。あんたの魂胆なんて見え見えなのよ。私のフリをして偉大なる悪魔様に近づいて、全部服を脱ぐつもりだったんでしょう?」

 部屋の中は気が狂いそうなほど真っ黒な壁紙で覆われていた。黒い部屋に黒いソファー、黒いテレビ、黒いタンスの上には籠の中に謎の黒い果実、そして部屋の奥には黒いカーテン。仕切られたさらに奥にはスペースがあり、恐らくそこに悪魔が潜んでいるのだろう。

「私が男だって勘違いさせれば、悪魔は私に失望する。ついでにもう私は信者じゃありませんと言ってトドメを刺せば、完全に私の居場所はなくなる。そこで、居場所のなくなった私を旋風塾に引き入れる。そうしたかったのよね? だって貴方は私を迎えに来てくれるって言ったものね? だからずーっとここで待ってたのよ、他の男と遊ぶの我慢してさあ!」

 閃助があの場で堂々と宣言してしまったのが――裏目に出ていたのか。このまま逃げ帰るか、いや、もう無理だと悟った。珠姫は高笑いを続ける。

「あんたの作戦は最初から失敗する前提だったのよ。理由は二つ、一つはあんたの作戦がワンパターンだってこと。そう何度も同じ目には私だって遭いたくないから、そりゃ今の男の傍を離れないに決まってるじゃない」

「香梨ちゃん、逃げて――」閃助はドア付近にいるであろう香梨に、決死の思いで叫ぶ。

「二つ目の理由は、何と悪魔様は男でも女でもいけちゃう性的嗜好だってあんたが知らなかったこと。むざむざあんたが小汚い陰茎を見せたら、それこそあんた襲われちゃってたわよ。悪魔様は野獣なんだからさあ、すっごいプレイがお好みだし、それに耐えられるあんたじゃないでしょ?」

「香梨ちゃん、早く逃げて!」

「双子だからこそ出来た作戦だったけど、残念ね。あんたは甘いわ」

 頭が割れるように痛い。閃助は己の終わりがすぐそこまで迫っていると悟っていた。カーテン越しから悪魔の視線が突き刺さってくる。胸が本当に焦げ付きそうなほど痛くて、恐怖と痛みで彼は小刻みに震えた。だが命乞いだけはしないと決めた。

(僕の負けだ……)

「がっはっはっは!」

 腹の何処からそんな声が出るのかと思うほど、しゃがれて、下卑た笑い声。悪魔の声か、と閃助は顔を引き締めた。

「おいガキ――天使のところからの駒か。話には聞いていたが本当にそっくりな妹じゃないか、珠姫」

「こいつ妹じゃなくて弟なんですけど!」

「僕は駒じゃなくて自らの意思でここに来たんです!」自棄になり、噛み付くように叫ぶ閃助。「蒼矢先生たちの駒じゃありません。多くの人を騙して利用している貴方と蒼矢先生たちを一緒にしないで下さい!」

 次の瞬間、カーテンを突き破って二本の黒い閃光が放たれた。その正体は真っ黒な腕で、先端が掌になって節足動物の足みたいに細い線が枝分かれしている。線は五本ずつあり、悪魔の指なのだとわかる。閃助は悪魔の指に頭を鷲掴みにされると身構えたが、彼の頬や髪の毛に微かに触れてくる程度でそれ以上のことはしない。だが、それも閃助が大人しくしていればの話だろう。

「触ればわかる。肌のハリと髪のツヤだけは、どうしたって似せられねえさ。悪魔をなめてんのか、ああ?」

 まさに地獄の底から響いてくる怒声。いや、僅かに悪魔は楽しんでいる。自分を値定めしている。

「しかもよりによって俺様に生意気な口を叩きやがって、どうしてくれようか、クソガキ」

「待って」

 背後から聞こえた声に、閃助の喉は干上がった。香梨の声だ。

「その女装男を離してあげて。代わりに私を八つ裂きにすればいい」

「だめだ香梨ちゃん!」目を瞑って閃助はがなり立てる。そして両手で床を叩き、珠姫に向かって土下座した。

「お願いだ姉さん、この際僕はどうなってもいい。地獄に行かないで! そして悪魔の信者たちを助けてあげて! 姉さんが彼らを小梅川まで誘導すればすべて終わる!」

 とうとう悪魔の手が閃助の頭を鷲掴みにした。香梨が飛び出したが、三本目の腕が飛び出し香梨の背中を地面に叩きつける。バットは部屋の隅に転がった。彼女は呻きながら、閃助を睨む。これ以上余計なことは言わないでくれ、と物申したいのだろう。だが、閃助は懇願し続けた。脳裏に旋風塾の面々、クラスメートたちの顔が浮かぶ。それが彼に勇気を与える。

「僕はどうなってもいいんだ、もう僕のこと嫌いでもいい、家族として見てくれなくたって構わないから! 今まで姉さんの邪魔ばかりしてごめんなさい、姉さんが望むなら僕は喜んで地獄に堕ちる――だからお願い。新緑町のみんなだけは」

「見苦しいぜ、泥棒猫が」うなじに悪魔の細い指が食い込む。刺されて血が流れた。

「珠姫からよーく聞いてたんだけどよお、正直てめえは珠姫よりも最低だったぜ。てめえこそが地獄に堕ちるのに相応しいってもんだ。俺の洗脳にかかって、喜んで俺にその身を捧げてくれる馬鹿な連中どもに囲まれてるのも、そいつらが俺に裏切られたと知った瞬間に絶望する顔を見るのも至高だが――俺はてめえみたいなクズが地獄で絶望する顔が一番大好きなんだよなあ!」

 悪魔の指からは強烈すぎる熱が放出されて、閃助は痛みを懸命に堪える。ショックと絶望と、アドレナリンの出すぎで閃助の焦点はほぼ定まっていなかった。視界がチカチカしてくる。ぐるぐる目が回る。気絶するのも時間の問題かもしれない。

「それによお、珠姫は百年に一度のいい女だから地獄で俺の女として生きてもらおうって約束したんだ。悪魔の女になりゃ地獄で永遠の拷問を受けずに済む。悪魔を虜にするほどの女など――てめえが手に入れられる訳ねえだろ! がっはっはっはっは!」

「うふ、ふふふ、そうね」珠姫は妖艶な笑みで閃助と香梨を見下ろす。「悪魔ってね、人間が絶対持っていない刺激をくれるの。もうクセになっちゃうくらいにね。だから私は悪魔様に一生この身を捧げるの、悪魔の女って滅多になれるもんじゃないしねえ。玉の輿より凄いわよ。しかも地獄で、馬鹿な悪魔の信者どもが絶望し、泣き喚くザマを見続けられるなんて、この上ない快感じゃない」

 あれ? と閃助は何かが引っかかる。

 珠姫は悪魔のいるカーテン越しにゆったりと歩み寄った。そしてカーテンの中に入る前に、バットを拾う。珠姫はカーテンの前に立つと、バッドを振り上げ、カーテンごと悪魔に殴りかかった。ぐえ、という悪魔の奇怪な叫びが響く。珠姫は迷わずバッドで悪魔を殴り続けた。何度も何度も何度も何度も何度も――。

「まあ、でも、人間なしじゃ何も出来ないあんたが絶望する顔の方がよっぽど滑稽で素敵だわ」

 一通り殴り終えると、ボロボロになったカーテンを被った悪魔は痙攣して動かなかった。珠姫はバットを捨てると、悠然とスカートの埃を叩く。彼女はほくそ笑んで悪魔を見下ろしていた。やがて彼女の微笑みは爆笑に変わり、甲高い笑い声が部屋に轟く。

 珠姫は振り向き、閃助と香梨には一瞥もくれず「さて、行くわよ」と命じた。訳がわからぬまま閃助たちは顔を見合わせる。何が起きたのか。天変地異が起こったのだろうか。

 とかく事情を説明して頂きたい所存であり、閃助は「姉さん、これどういうことなの」と立ち上がった。

「おのれ、珠姫……俺様を、裏切ったのか? 何故だ、何故転生を選ぶ! 地獄に行けば、好き放題男遊びもさせてやると言ったのに!」

 悪魔のくぐもった唸り声が、珠姫の足を止める。彼女が振り向くと赤いプリーツスカートも翻った。

「確かに、地獄で苦しめられる男たちと私がたまに遊んでやれば、男たちは私を女神のように崇めてくれる。そう、地獄に行けば私は本物の女神になれるの。傷だらけの地獄の戦士たちをかしずかせ、私はどんな男たちの手にも届かない鮮麗なままの女になれる。そしてまた地獄巡りが終わるまでサヨナラと言って、男を突き放す。男たちにとって私の顔をひと時でも見れなくなることが本物の地獄になるの。確かに最高に楽しいと思うわよ」

 閃助はぽかんとした。

「それに女なら誰だって、簡単に手に入れられらない孤高のダイヤモンドになってみたいと思うわよ。だから私は最初、悪魔の女になろうと思ったんだけど」

「言ってる意味がちょっとわからない」香梨はしかめっ面をする。

 珠姫は両手を広げ、自らの身体を見せびらかすようにした。「でも、私、悪魔にも飽きちゃった」

「はあ?」

「人間相手じゃ絶対出来ない経験はたくさんさせてくれたし、これからもさせてくれるだろうけどさ。また生まれ変わって死んでこの世界に来れば、いくらでも悪魔と遊べるじゃない」

 何ということだ、閃助は息を飲んだ。彼女は悪魔相手にも遊び感覚だったのだ。

「だったら何度でも生まれ変わって、永遠に男に恋をしまくった方が楽しいし、私に合ってるわ。残念だけど、最初からそう決めてたの」

 しれっと答える珠姫に、悪魔の怒声が浴びせられる。「最初から裏切るつもりだったのか、珠姫!」

 珠姫は薄ら笑いを浮かべる。閃助は彼女に最高の恐怖と最高の頼もしさを感じた。また、やはり彼女を愛おしく思った。少しだけ、彼女が最初から悪魔を愛していなかった可能性も閃助の中にあったのだ。それは、幾人もの男を一度に翻弄し、とっかえひっかえを続けていた彼女を間近で見てきた閃助だからこそ、考えていたことだ。珠姫は皆が思っている以上の魔女だし、現にそうだったという訳だ。悪魔すら最後は切って捨てたのだから、やはり一番の怪物は珠姫であろう。閃助はそんな珠姫に抱きつきたい衝動に駆られたが、堪えた。

 閃助の熱っぽい視線を若干鬱陶しそうに受け止めながら、「何か言いたそうだけど、今は一秒でも立ち話をしてる暇はないわよ。迷ってる暇もね。私のために動きなさい」とドアの外を指差しながら歩いた。


「待」

「でも閃助」

「ち」

「あんたが本当に迎え来てくれるとはね」

 香梨が立ち止まった。

「や」

 珠姫が楽しそうに息を吐く。

「が」

 いくつもの黒い腕が悪魔の残骸の中から弾け飛んだ。

「れ!」



 お姉さん。閃助くんを宜しくお願いします。



 閃助の背後から聞こえた。最後の戦いの火蓋が切って落とされた。着火したのは――

「そうだよ! 一秒も迷うな、ド変態姉弟!」

 悪魔の黒い手を香梨の全身が受け止めた。閃助が振り向いたときには既に、香梨は全身を悪魔の手に絡め取られながら、むしろ悪魔の手をかじりついていた。細い刃の指が彼女の華奢な四肢を串刺しにする。それすらも噛み千切り、取っ組み合う。閃助は三秒だけ立ち止まり、香梨ちゃん、と叫んで手を伸ばした。

「はは、面白え! 香梨、てめえだけでも俺と一緒に来い! 地獄でめいいっぱい可愛がってやるよ、ポーカーフェイスのお前の涙腺が枯れ果てるまでな!」

 全身の血流が沸騰する。「やめろぉ!」

 そんな閃助を一歩でも近づかせることを香梨の目は許さなかった。白く綺麗な肌は一瞬にして無数の赤い線が刻まれ、悪魔の腕を噛み千切る歯も真っ赤に染まっている。

 人は限界を超えたとき、悪魔にも天使にも獣にもなれるのだと閃助は思った。最初の地獄の一週間で、新緑町の皆は獣と化したと聞いていたが、こういうことだったのか? 違う、と閃助は否定する。皆は自分の縄張りを守り、奪い、すべて自分のために理性をふっ飛ばして暴れてきたのだと思う。だけど今の香梨は!

 思考には時間など関係ない。ただの一瞬でも、たとえ一コンマでも人は時に宇宙並みに膨大な情報量を処理出来る。そんな瞬間がたまにある。しかし考えれば考えるほど、行動を起こす力を失う――。最後の追放者が本当に香梨になるなんて。自分だけを信じて生きていこうとしていた少女が、閃助たちの勝利を願って犠牲になるなんて。

「俺様は負けねえ」悪魔はカーテンからその身を潜らせ、香梨の右足にしゃぶりついた。ぞっとするほどしわくちゃな顔をしていて、煤けた茶色をしていて、血走った目を閃助に向ける。閃助は思わず悲鳴を上げた。

「この先も悪魔として、天使どもを潰し、人間どもの脂のこってり乗った魂をいつかは食らい尽くしてやる。てめえらが死ぬ度に何度だってつけ狙うさ。だが今回は女一人で勘弁してやる、クールな女の悲鳴ほどそそるもんはねえからな!」

 来るな、と香梨は怒鳴った。

「――貴方を、信じてるの。生まれて初めて、人を守ろうと思えたの」

 閃助は息が出来なくなり、頭を抱え、歯茎が痺れるほど歯を食いしばり、

「私の気持ちを無駄にしないで!」

「香梨ちゃ――あっ、あああああああっ!」

 悪魔に咆えた。香梨に咆えた。珠姫に咆えた。自分に咆えた。

 悪魔は香梨だけでも地獄に連れていくと言った。確かに悪魔を早々に見限って、天使たちに情報を受け渡し、閃助にここまで行動させる勇気を与えてくれたのは彼女だ。それの何がいけなかったのだろうか。いっそ自分が香梨と仲良くなろうと思わなければ、香梨も自分のことなど気にも留めず、奇妙な学習塾の一員としか認識しなかったのかもしれない。

 香梨の長い髪は引き抜かれ、地面にとぐろを巻く。彼女はやがて人の原型を留めていない残骸に成り果て、地獄に引きずり下ろされる。そう、残りの新緑町の住民たちの運命と引き換えに。ほとんどの人間が彼女の末路を知らないまま、きっと転生することになる。最後に皆の前で、赤裸々に告白してもいい。だが、転生か地獄行きか、の運命を選択することなど――本来は魂たちは知らないままでいいのだ。何故なら、魂たちは皆、新たな命に転生する以外に幸福な道はないからだ。神の正体など知る必要はないからだ。

 絶叫の語尾が消えていく頃には、閃助の顔にもう迷いはなかった。流血した身体を悪魔の方に引きずられていく香梨は、もう手を伸ばしてくれない。

 閃助は踵を返した。自分を信じてついて来てくれた少女が身体を張って閃助たちを守った意味を無駄にしてはいけない。

「ありがとう、香梨ちゃん」

 香梨はけたたましい咆哮を上げた。閃助の裏の顔が珠姫のためにその身を尽くせる狂人なら、香梨の中に目覚めた彼女の真骨頂は、悪魔相手にも怯まず襲いかかる野獣の心だ。本当の怪物は珠姫でも閃助でも悪魔でもない。追い込まれて限界突破すれば、人間全員が怪物になり得るのだ。たとえ魂だけの存在でも、それが人間の真骨頂なのだとしたら。

「人間って恐ろしい生き物ね」既に悪魔の部屋から大分離れた場所を歩いていた珠姫に、閃助はようやく追いつく。珠姫は一切振り向かなかったが、流し目で閃助を見た。

「愛する人ためなら自己犠牲も厭わない――。閃助もこっち来てから随分成長したのは認めてあげるけど、あの子はあんたよりずっと強かったわね」

 ニヒルに微笑む珠姫は、閃助が真剣な顔色を変えずに珠姫の隣を歩き続けるのに気付くと、あら、と少し目を丸くした。泣き虫で怖がりだった閃助が、香梨の惨劇を一瞬で振り切ったのを意外だと思ったのかもしれない。だが、それは大好きな姉が傍にいて、その姉と綺麗に着飾った姿で一緒に歩いているこの状況で彼女に笑われたくないからだ。本当は、今にも顔をくしゃくしゃにして泣き喚きたいのをメイクの下に隠しているだけなのだ。

 胸が張り裂けそうな思いを懸命にひた隠すのは、人間の強さとは言えないだろうか。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ