16.「特別怖がりな貴方を、ただ、放っておけなかった」
「私がここに残る前、蒼矢は私に『もう一度生きろ』と言ってくれた」
泉澄はE列の最後尾に座って、天井を見上げていた。
「その言葉がすごくかっこよく感じた。生前の記憶をすべて失う恐怖を蹴散らす、希望の一言だって。少なくとも私はそう感じたわ。だから、蒼矢には悪かったけど、私はこれから冥界にやって来る魂たちをそんな風に元気付けてあげたくて、蒼矢と一緒に残ったの」
閃助以外の塾生たちは、香梨たちから事情をすべて聞いただけでなく、転生と地獄行きの二択も既に迫られていた。つまり、新緑町の住民全員がすべて死に、ここが現世とは違う世界だと知っているのだ。誰もが驚愕し、絶句したらしいが、まあ当たり前だろうと閃助は思った。自分だって蒼矢に聞かされたときは冷静だったが、後から涙が止まらないほどショックを受けた。
ちなみに閃助と香梨を除く三人中二人は、既に転生を選んでいた。苺と国定だ。ただし、夏星だけはまだ答えを出していない。
その夏星はE列の真ん中の席、つまり泉澄の前の席で頬杖をついていた。
「お前さあ、俺にも同じこと言ったよな。もう一度生きろってその台詞」夏星は舌をべえっと出す。「蒼矢の受け売りだったのかよ」
「ご、ごめんね」
「お前はいつもそうだよ。厚かましく人のこと追いかけておいて、気の利いた言葉なんて何一つ言えてねえんだ。少なくとも、俺の心にはどれも響かない」
「夏星くん、何もそんな言い方は」
閃助は慌てて止めるが、「うるせえ、泣きっ面じゃ説得力ねえぞ」と睨まれ、何も言い返せない。
泉澄は「そうね」と頷いた。「私は先生には向いてないのかもしれない。私は口喧嘩もロクにしたことなくて、就職して上司に無茶な仕事を押し付けられても、一切反抗出来なかった。毎晩残業続きで、もう何もする気が起きなくなって、最後は首を吊ったの」
閃助は、初めて聞く泉澄の死因にぞっとした。夏星も振り向く。
「私は自殺したからこそ、今度は自分に自信を持ちたかった。だから、生前に諦めた先生の道を、冥界で叶えたの。最初は蒼矢に怒られてばっかりで、未だに後輩の涼からも注意を受ける本当にだめな先生だけど、ただ、私は」
途中から彼女の声が震えていた。閃助に対してはむしろ饒舌だったのに、夏星を相手にした途端、こうだ。泉澄は恐らく自分より気の強い相手には、萎縮してしまう性質なのだろう。きっと夏星はそれが気に入らなくて、余計に泉澄を避けていたのだ。
だが、今日の泉澄は少し違った。
「夏星くんが、死んでもなお――当初は死んだって気付いてなかったけど――自殺願望を抱いていたから、余計に放っておけなかった。そんなに白くて細い身体で、可哀相にって思って」
「可哀相?」夏星はシニカルに笑う。「お前はアレか、雨に打たれたダンボールの中の捨て猫を拾う感覚で俺に声をかけたのか?」
「そうよ、貴方は可哀相」
「あ?」
泉澄は立ち上がり、夏星の前に立つ。「貴方はまだ中学に上がったばかりだったんでしょう? なのに学校でいじめられた程度で自殺しようなんて思ったんでしょ? 雨の中で初めて貴方に会ったとき、そう言ってたよね」
「それが何だってんだ」
「夏星くん、貴方は私よりも弱いわ」
夏星が立ち上がって泉澄の胸倉を掴んだ。黒いスーツとマッチしている白いシャツに、深い皺が入る。閃助が戸惑っていると、後ろから肩を叩かれた。国定だった。
「決着つけようとしてんだ。黙って見守ってやれ」
国定にしては真剣なアドバイスだ。真実を知って、今まで調子に乗った言動の多かった彼もさすがに大人しくなったのかもしれない。単純と言ってしまえばそれまでであるが。
夏星は血走った目で泉澄の怯えた瞳を射抜く。だが、泉澄も目を逸らさない。
「転生か地獄行きか、答えをすぐに出せないのもそう。貴方は人生を恐れている。生まれ変わってもまたつらい思いをするんじゃないかって怖いだけなんじゃないの?」
「てめえは俺の何を知ってんだよ!」
「何も知らないわ! 何も知らないからこそ、こうして今、全身全霊で貴方を説得してる!」泉澄が声を荒げたところなど初めて見たので、閃助も国定もぎょっとした。
「うっせえ! てめえだってパワハラ受けてたくせに、偉そうに説教すんな!」
「私は講師よ! 説教だってするわ!」
泉澄の気迫は、確実に夏星を圧倒していた。ここまで怒りを露わにしている泉澄は見たことがない。国定が閃助に「なあ、ひょっとしてヤバくねえか? まさに修羅場だ」と耳打ちしてくる。
「夏星くん。貴方は誰よりも弱くて怖がりで、私のようなだめな講師からも逃げてばっかりで、恐怖に向き合う勇気を持っていない。神、いえ、悪魔の演説にも一回戦慄を覚えたから、無闇に悪魔に近づこうとしなかっただけ。そこをたまたま私に拾われただけ。貴方はそれだけなのよ。人よりずっと怖がり――それが貴方が悪魔の洗脳に取り憑かれなかった理由よ」
「っざけてんのか!」
夏星の振り上げた拳を掴んだのは、涼だった。
彼は隣のD列にいた。仕切り板から身を乗り出して、泉澄が殴られるピンチを制したのだ。夏星は拳を吊り上げられ、ボクシングで勝者がレフェリーにグローブを上げられるような体制になっていた。
「離せよ、涼!」
「教室内は暴力禁止」機械的に答える涼の隣には、例の如く苺が背伸びして夏星たちの状況を覗き込んでいた。
「なっち。最後くらい、いずみーの話をちゃんと聞いてあげなよ」
彼女の無邪気な「最後」の一言が、一瞬教室の空気を重くした。
夏星は涼に手を離されると、ゆるゆると拳を解いて腰の隣に下げた。悩ましげな表情で、「ずっと逃げてきたツケが回ってきたってのかよ、くそ……」と悪態をつく。
「そうだよ、俺は逃げてきた。親からも、学校からも、ダチの冷たい視線からも。俺一人で突っかかったって、敵わねえって思ってたから。誰も、俺を理解してくんねえし、心配もしてくんねえ。みんなして俺を責め立てる。俺が逃げたのは、あいつらのせいだってのに」
「でも私は、貴方を理解したくて、ずっと心配してた」
泉澄が儚げに微笑むのを、夏星は上目遣いで見た。そしてすぐ俯く。
「だけど貴方は、また突き放されるんじゃないかって怯えてたのよね? だから私を相手にしなかったんでしょ?」
「クソが……」夏星はニット帽を鷲掴みにしながら歯軋りする。
泉澄の指摘は、どうやら間違っていないらしい。閃助はそれに気付いた瞬間、泉澄の観察眼は蒼矢にも負けていないのではないかと思った。人の感情を冷静に見極め、相手の心を開こうと奔走する姿は、よく考えてみるとそれこそが「先生」の役目そのものではないか。それともそれは天使になったことによる能力エフェクトか。どうであれ、泉澄は本人が言うほど講師に向いていない人柄ではない。
「夏星くんは確かに捻くれ者かもしれない。しかも孤高を気取ってる。だからこそ、私はずっと貴方を見ていた。他の生徒の子たちには申し訳ないけど、正直言ってしまうと、貴方には特別贔屓していたわ。言い方変えればしつこかったってことだけど、本当に、今回の世界では貴方のことばかり考えてた」
「何でだよ……俺に関わったって、いいことねえのに……」
泉澄はかぶりを振る。「特別怖がりな貴方を、ただ、放っておけなかった。先生とか生徒とか関係なく、一人の『人間』として、貴方を元気付けてあげたかったの。それだけ。それだけの理由だけど、強い、思いなの……」
それっきり夏星も泉澄も黙り込んでしまって、野次馬たちも沈黙を無理やり破ることはなかった。涼が静かに「あとは二人きりで解決してもらおう」と言うと、何となく皆は各自散り散りになり、その場を離れた。
ららら、と苺が歌っている。かなり下手くそだったが、楽しそうだ。
「何の曲ですか?」
「いちご☆エクストリーム鼻歌バージョン」
ドヤ顔で答える苺はまた歌を歌い始める。歌い方自体は幼子みたいだが、声が大人の女性のそれなので、余計に違和感を感じる。先ほどまでは相変わらず涼にくっついていた苺だが、今は蒼矢の様子を見に行った涼の後を追わず、B列の席で歌い続けている。何故一人でいるのか閃助が訊ねると、苺は「何だか、涼くんと一緒にいたら寂しくて泣いちゃいそうなんだよね、今」と椅子の上で膝を抱えた。
苺は歌うのをやめると、「ねえ閃ちゃん」と隣に立っていた閃助を見上げた。「わたしはどうして涼くんを好きになったんだと思う?」
確か蒼矢からどさくさに紛れて聞いたはずだ、涼の声を気に入ったと。それを答えると、「正解! よく出来ました!」と腕を伸ばされて頭を撫でられる。閃助は膝を屈めて大人しく撫でられた。
「わたしはね、人よりちょーっと頭のネジが緩いだけの、歌が大好きなハタチの女の子。そんなわたしは怖いカルト教団が落とした小さな核爆弾によって、小さな命を木っ端微塵にされました。それでもね、歌が好きな気持ちは変わらなかったよ。わたしはアーティストやアイドルになろうとは思わなかったけど、でも歌だけは一生続けて行こうって思ってた。だからわたし、歌う人は元々好きだったんだよ」
あれ、と閃助は意外に思う。「ということは、涼先生も歌うんですか?」
「うん!」苺は本当に嬉しそうに頷く。「ほんと稀にだけどね。気分がよくなると、たまにメロディを口ずさむの。わたしの知らない歌も多いけど、すごく上手で美声なんだよ。涼くんの声って、低くて綺麗でしょ? その歌声が素敵すぎてさ、しかも涼くんは大人びてるし優しいし、そしたら好きになっちゃったの」
えへへ、と照れ臭そうに苺ははにかんだ。恋する女の子の顔だ。閃助は微笑ましく感じた。そして、やはり涼の声から1/fゆらぎを感じたのは錯覚ではなかったのだと気付いた。
でもね、と続ける苺は寂しそうに俯く。
「もうすぐ涼くんともさよならしなくちゃならない。本当は嫌だよ、一緒にいられなくなるのはすごく嫌。でも、仕方ないんだよね? だって、わたしはいずみーや涼くんみたいに、ここに残って先生をやれる器じゃない。出来ないことはないかもって思ってたけど、さっきのいずみーの剣幕を見たら、やっぱり生半可な気持ちで残れないなってわかった」
だからね、と今度は鼻息を荒くする。ころころテンションが変わるのは、最後まで苺らしいと言えば苺らしい。
「わたし、次の人生では前世よりもっとたくさん歌って、上手に歌えるようになる! 涼くんみたいに、誰かを癒せる歌を目指すんだ! 涼くんのおかげでそう思えた。だからまたいつか死んじゃって、違う姿で涼くんに再会出来たときは、わたしは歌姫に生まれ変わってるよ。そして涼くんをびっくりさせるの」
「涼先生ならきっと、それが生まれ変わった苺さんだと気付いてくれますよ」
「当たり前じゃん!」苺は己を右頬をつついて、ウィンクしてみせる。
「ハタチのセクシーな身体でこんなに可愛いテンションを貫けて、でもって悪魔にも恋をしない、こんな天使みたいな女の子はわたしぐらいしかいないでしょ?」
曇り空の午前五時は、夕方なのか明け方なのかわからないくらい薄暗かった。月日は流れ、カレンダーは進んでも、梅雨は一生来ない。何故なら涼がすべて気候と天候を管理しているからだ。天候もランダムで決めているらしいが、今日に限ってこの天気か、と閃助は胸が苦しくなる。作戦が成功すれば晴れ間が見え、失敗すれば雷が我々に落ちてくる仕様にでもなっているのだろうか。
皆がまだ眠りについている隙にこっそり塾を出ようと思っていた閃助の背中に、「閃助くん」香梨が呼び止める。振り返ると、彼女は真摯な眼差しで「気をつけて……」と言い、それから俯いた。
「香梨ちゃん?」
「いや、やっぱり、私も行く」
「えっ」
「貴方が悪魔を欺いたあと、貴方と一緒に珠姫を説得する。貴方より、私の方が断然口論は強い」
さすがに驚いた閃助だったが、香梨の有無を言わさず堂々とした態度に、快く頷いた。
「わかったよ、でも悪魔との戦いは僕一人でやらせてくれ。香梨ちゃんは裏切り者認定されているから、悪魔の前に現れたら確実に危険だ」
「うん、了解」
靴をつっかえて出て行こうとすると、事務所で寝ていた講師たちと教室で雑魚寝していた塾生たちが慌てて飛び起きてきた。蒼矢はいなかった。
「何も言わずに行くつもりだったのかよ。早番のサラリーマンじゃあるまいし」
国定が眠そうな目を擦りながら歯を見せる。
「これでお別れは嫌だよ。閃くんと香梨ちゃんの顔、最後に見せてから生まれ変わらせてね」
苺が涙ぐんでにっこり笑う。閃助もつられて泣きそうになったが、かぶりを振って精一杯微笑んでみせる。
香梨は隣で囁いた。「素敵な仲間が出来たんだね」
「香梨ちゃんも仲間だよ」
閃助が言うと、香梨は紅潮して、控えめに頷いた。
「蒼矢先生にも――宜しく言っておいて下さい」




