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15.「今度は先生が僕を信じて下さい」

 どちらの女の子の名前を呼んでいいかわからなかった。むしろ、言葉が出なかった。

 夢にまで見た愛する姉が、クラスメートの女の子の手首を掴み、おまけに彼女の頚動脈にナイフを突き立てていた。死ぬことがない世界とはいえ(というか既に死んでいる)、頚動脈なんて切られたら辺りは血の海だ。睡魔に苛まされていた蒼矢は一瞬で覚醒し、怪訝そうに珠姫を見つめる。全身あらゆる毛穴がヒリヒリするほどの緊迫感が流れた。

「お前か、神のお気に入りの娘、且つ――閃助の双子の姉は」

 お気に入り? やはり珠姫は神の信者として一緒に冥界へ来ていたのだと確信したと同時に、「神のお気に入りって、姉さん、どういうこと?」嫉妬の炎が揺らめいた。

「久しぶりに再会したってのにいきなり睨んでくるなんて、そっちこそどういうつもりよ、閃助?」常に人を弄ぶのが珠姫の趣味だ。こちらの質問にまともに答えてくれる気はないらしい。

 珠姫は短いスカートを履いて、黒いニーソックスが太ももの白さを際立たせた。美しい四肢と、スタイルのよさは相変わらずだ。チャームポイントの赤いリボンをあしらったカチューシャも欠かさない。閃助は見惚れてしまいそうになるが、香梨の首筋に当てられたナイフの存在が、すぐに彼を現実へ引き戻す。

「香梨から話は聞いている。お前は神の側近であると同時に、愛人だったそうだな」

「ふふ、ふふふうふふっはっ、あぁはははははっ!」珠姫は片手でお腹を抱え、大笑いした。「ピンポーン! 正・解でーす、悪魔みたいな顔した天使のお兄さん! どうやら裏切り者の香梨ちゃんがぜーんぶ喋っちゃったみたいね? 神様の正体も、あの演説を誰がやってたかってことも! ついでに言うと、閃助がどうして一ヶ月もの間、眠り続けていたのかって理由もね」

「えっ!」閃助は軽く仰け反る。珠姫が、閃助の一ヶ月の記憶がない事実を知っているということは、彼女はその件に何か関与していると決定付けるも同然だ。いや、彼女は閃助が「一ヶ月間眠り続けていた」と言った。あれは記憶がなかったのではなく、ただ単に、閃助は一ヶ月の間意識がなかっただけだったのか?

 今日の珠姫は些かテンションが高い。香梨に後ろからしだれかかり、ナイフを手の中で弄びながら「まあちょーっと話は盗み聞きさせてもらったんだけどねえ、ごめんちゃい。神様の正体自体は、そこの青い髪のイケメン先生が口を割っちゃったみたいね」と楽しげに笑う。香梨はもう抵抗しても逃げられないと悟ったのか、眉間に皺を寄せて、珠姫がナイフをぶらぶらさせる様を見ている。

「でもね、閃助も一回ぐらい演説は聴いたでしょ? 毎週日曜日の深夜にやるやつ」

「う、うん」

「皆さん知っていますかあ? あと五日後には満月なんですよっ」

 何処かで聴いたフレーズ。声のトーン、喋り方――ああ、と閃助は呻いた。

「まあ満月なんて拝めないうちに、この世界は終わりますけ・ど」そして一気に、一オクターブ下がるロートーンが鼓膜に刺さる。閃助は口元を抑えて、「姉さん、だったのか」と震える声で呟いた。

「あの演説をしていたのは姉さんだったんだね……」

「でもお、生憎私は悪魔じゃないわよ。ちゃーんと人間やってました。ド変態な双子の弟を持つ、双子のお姉ちゃんとしてね。そう、私は!」

 珠姫は腕で香梨の首を強く締め付ける。香梨が苦しげに顔を顰める。

「同級生からサラリーマン、ヤクザの跡取り息子に初老の紳士、果てには中学生のいたいけな男の子からイギリス人のホテルマンまで、色んな男を齢十六で味わい尽くしてきた女よ――あんたに男を全部奪われるまではね、閃助」

 珠姫はナイフを香梨の頬に突き立てながら、苛立った様子で閃助を睨む。ああ、またこの目か、と閃助は落胆する。汚らしいものを見るような目だ。

「あんたは私と付き合う男たちに嫉妬した。その挙句、女装して私のフリをしては、次々と私の男たちと会った。あんたは私と同じで声域が広いから、ちょっと風邪引いちゃったと言ってやれば男たちは簡単に相手があんたではなく私だと思っちゃう訳。そして、まるで私が今まで彼らを騙していたみたいに仕立てて、男たちの前で服を脱いだ。その私にそっくりなくせに気味悪いひょろひょろの身体をね! そりゃあ男たちも幻滅するに決まってるわ。おかげで私はあのあと問い詰められるわ怒鳴られるわでとばっちり食らって、大変だったんだから!」

 そう、閃助は香梨も指摘した通り、得意の女装と声真似で珠姫に変装して男たちを翻弄したのだ。香梨がそれを知っていたのは、彼女と珠姫が神を通じての知り合いだったから。香梨が弟のクラスメートだと知った珠姫は、彼女に生前の愚痴をぶつけたのだ。だから香梨はずっと、閃助がしでかした行為をすべて知っていた。

「閃助の近親愛は鬱陶しい反面、面白かったけど、ハメを外したわね閃助……。私はあんたから、私の存在や女装癖の記憶など、私が気持ち悪いと思ったあんたの記憶を全部悪魔に消してもらったの。閃助の脳はかなりの変態っぷり思考がこびりついていたからね、一ヶ月間、仮死状態にさせないと記憶を全部デリート出来なかった。だからあんただけが、一ヶ月遅れて目覚めたのよ」

「確かに悪魔も人ならざる存在だ。人間の魂から記憶を奪うなど、造作もないだろうな」蒼矢は舌打ち混じりに言う。同時に、蒼矢が解凍された閃助の記憶を蘇らせたのも、蒼矢が人ならざる存在だったからだろう。

「姉さん、一つ聞きたいんだけど」

「何よ」珠姫は舌を出す。

「核爆弾が新緑町に落とされたのをどうして姉さんは知ってるの?」

 ああ、と珠姫は興ざめした様子で肩をすくめた。「私ってば演説の代行をヤラされちゃうぐらい悪魔様のお気に入りだから、もう全部知ってんだよね、この新緑町の正体を。だからついでに新緑町が滅びた要因も教えてもらったんだわ」

「じゃあ、核爆弾が落ちたとき、姉さんは自分が何処にいたか覚えてる?」

「えーとね、核爆弾の閃光が町中を照らす前、私は気まぐれに自宅に戻ったの。閃助の具合が悪くて一ヶ月学校行ってないって聞いたから、まさか死んでんじゃないかと思って一応心配して見に行った訳よ。そしたら爆弾を落とされた訳」

 確信した。やはり閃助が光の中で助けようとした誰かは、珠姫だったのだ。愛する珠姫が灼熱の光に包まれて燃えていく姿――そうだ、思い出した。記憶が蘇る、蘇る! 閃助は頭を抱えた。

 蒼矢はそんな彼を気にかけたが、あえて触れずに珠姫に問うた。

「ところで、何故今更、お前は香梨を狙う? もっと前に連れ戻すべきではなかったのか」

「香梨ちゃんは基本、他人に縋らず自分だけを信じて生きていく頑固な子。すなわち、所持している秘密の情報も簡単に人に売らないと思ったの。でもまあ、何よりの理由は、悪魔の情報を外部に洩らしたら自分がどういう処罰を受けるか、よくわかってるからよね。私がここに現れたのは、さっきあんたたちの学校から連絡が入ったからよ。閃助と香梨が裏切って、学校を脱走したって」

 そうだった、と閃助は喉を干上がらせる。

 香梨は蒼矢たちに悪魔に関する情報を売った時点で、元より追放処分を受けるつもりだったのだ。だから学校にも堂々と登校した。

 それでも彼女は、閃助が伸ばした手を掴み、脱走を図ろうとしたのだ――。

「でも不思議よねえ、本当に拷問を受ける覚悟があったなら、閃助とセンセーと一緒に逃げたりなんかしないはずだけど。ねえ香梨ちゃん、ひょっとして期待してたの? 閃助なら助けてくれるって。でもそしたらさ、まず学校に登校しないはずよね? じゃあ何なの? 香梨ちゃんはどうして情報を打ち明けて、それでわざわざ自分を危険な目に晒すような真似をしたのかしら?」

「おい、戯言はいい。貴様の粘っこい語りでカップラーメンが一つ出来上がっている。早く香梨を離せ」

「ああ、そっかわかっちゃった!」無視して珠姫はぱっと顔を輝かす。指を鳴らして、その人差し指で閃助を指した。

「香梨ちゃんは閃助に惚れちゃったんだ! でも閃助は姉の私にゾッコンで、私からダーリンたちを奪い取っちゃうくらい私に妄執しているから、香梨ちゃんに振り向くことは絶対にない。だけど香梨ちゃんには持ち前の精神力の強さがある。堂々と拷問を受け入れる覚悟をして、最後の最後に、閃助に何て凄い子なんだと振り向いてもらおうとちょっと頑張ってみたんじゃない?」

「やめて……」

「それぐらい逞しーい香梨ちゃんには造作もないことよね? まさしく命懸けのアプローチ。それにあんたは成功した訳だ。でも私が現れた。どうする? 閃助は一体、悪魔に恋している私と悪魔を裏切った香梨ちゃん、どっちを選ぶのかしら?」

 閃助は呆然とした。珠姫は、閃助の自分への想いを利用して、閃助を悪魔側に引き入れようとしている。ここで珠姫についていったら、香梨の覚悟を無駄にするだけでなく今まで世話になってきた蒼矢たちを裏切ることになる。

「閃助、馬鹿なことは考えるな」蒼矢は慎重に忠告してくる。閃助は彼の方を見れず、微笑みで誘う珠姫に釘付けになる。

「ねえ閃助、こっちに来ない? 楽しいわよ、あの人の傍にいるだけで心が澄んで、安穏していられる。下手に下っ端にいたんじゃこれから追放者の始末で忙しくなるだろうけど、私みたいに側近として傍にいれたら、あの人はすごく可愛がってくれるし、きっとあんたの女装癖だって受け入れてくれる」

 けれど、地獄に堕ちる。

「どうせ転生して今回の人生のことを何もかも忘れちゃうなら、塾とやらに固執する必要ないでしょ? 地獄なんてちょっと火あぶり受けたり針の山に放り投げられるだけで、大したことないわ。何より、大好きな私が一緒にいるんだから、あんたは悲しくでしょ?」

 地獄に堕ちても大したことないなんて、珠姫はどうかしている。

「私は悪魔のお気に入りだから、私が強請れば追放の件も多分取り消してくれるわ。だから安心して、こっちにおいで、ね、閃助?」

 嘘かもしれない。自分を欺いて拷問部屋にぶち込もうとしているだけかもしれない。

「そうだ、あんたが来てくれるなら、代わりに香梨ちゃんを解放してあげる。それでどう? ねえ、私たちはママに捨てられてパパも死んだ、たった二人の家族なのよ。私一人だけむざむざ地獄に堕ちてあんただけ転生して、それってズルくない? 最低なエンコー姉弟らしく、一緒に地獄の炎に焼かれるべきなのよ、私たちは」

 蒼矢が待ちすぎて頭がキレたのか、足を踏み込んで珠姫の脇の間を潜る。蒼い矢となった閃光は、見事香梨を抱きかかえて奪還した。ああ油断しちゃった、と珠姫は特に面白味もなさそうに呟く。ひとまず香梨と引き換えに閃助が悪魔側につく必要はなくなった。

 けれど、けれど、これが珠姫を手に入れる最後のチャンス――。

 今まで何度も打ちのめされて、突き飛ばされて詰られて、珠姫にはいじめられる対象としか相手にされてこなかった。しかし珠姫は今、悪魔に陶酔している。閃助が仲間になればきっと、自分のことも前よりは受け入れてくれる。彼女の存在を思い出してから、会いたくて触れたくて仕方なかった人だ。これが最後のチャンス……。

「新緑町の狂ったエンコー姉弟、彼らがこの町に来てくれたのはひょっとしたら百年に一度の幸福かもしれない」

 唐突に蒼矢が息切れしながら言った。何処かで聞いた……そうだ、前に香梨が、蒼矢がこう言っていたと教えてくれた言葉だ。

「上手くいけば、の話だがな」香梨を下ろすと、蒼矢は膝をついて荒い息を吐く。目だけは、珠姫に香梨に触れさせまいとぎろりと睨んでいる。珠姫は肩をすくめた。

「それでこそ教育に携わる人の目だわ。素敵ね」

 そうだ、と閃助の瞳にも淡い希望の光が灯る。絶望と狂気に飲まれかけていた心の内に、一つの言葉が浮かび上がった。

『本当にお姉さんに認めてもらいたいなら――彼女を追いかけるだけじゃだめだよ』

 そういうことか、と閃助は脱力する。香梨ちゃん、ようやくわかったよ。

 珠姫は興ざめしたのか、いつまでも黙ったままの閃助に一瞥くれて「さすがの私も待ちくたびれたわ。さっさと答えてよ、あんたは来るの?」

 閃助の右手が拳を固める。

「それとも塾に残って、私を置いて違う人生を送るの? さあ、二択よ」

 左手が拳を固める。噛み締めた下唇をさらに強く噛み、やがて、勢いよく離した。

「三つ目の選択肢を選ぶよ。姉さん、貴方を迎えに行く」

「はあ?」

「貴方の目を覚まさせて、僕は、貴方と一緒に転生する」

「は」珠姫が目をひん剥き、「あははははっ!」頭を抱えて笑い出した。

「まるで昔の気弱な閃助じゃないみたい。随分と強気な宣言ね。なら、やってみなさいよ。どうせ無駄に終わるけどね!」

 挑発的に笑う珠姫の背後で、蒼矢の青い頭が地面に倒れ伏した。







 蒼矢が目覚めたのは、彼を塾の事務室に運んでから一時間も経過した頃だった。

 塾の事務所には閃助は初めて入る。外観の塾の狭さからしたらありえない、明らかに異空間の、広いフローリングが広がっていた。1LDKの広さとそう変わらない。窓はなかった。奥に小さな台所があり、台所の手前に二つ、反対側に一つのデスクが配置されている。デスクにはパソコンが置かれていたり、ノートが山積みになっていたり、引き出しから紙の資料が乱雑に飛び出しているもの(これは多分蒼矢のデスク)の三つだ。間に布団が敷かれ、そこで蒼矢は寝かされていた。部屋の隅に畳まれいる二つの布団とシーツ、枕は、泉澄と涼のものだろう。確かにこの部屋は、三人分が眠れるくらいのスペースはありそうだ。事務所と銘打ってあるが、生活スペースの雰囲気の方が濃いな、と閃助は思った。それとも小さな会社の事務所の中にはこういう寝泊りも出来る作りをしているところもあるのだろうか。

「塾の事務所か……ここは」

 狐につままれたような顔で、辺りを軽く見回す蒼矢。彼は、はっと目を見開いたかと思うと起き上がった。閃助が枕元で正座していたのに気付くと、閃助、とか細く彼の名を呼ぶ。

「おはようございます、先生」

「香梨とお前の姉は」

「香梨ちゃんは無事です。姉さんは去っていきました」

「そうか」

 自身の髪を触りながら、「俺は寝ていたのか?」と半ば驚いた様子でさらに彼は訊ねる。

「珠姫姉さんが去る寸前に、気絶しました」

「気絶だと」蒼矢は自分のことなのに、ぎょっとしていた。「俺がか。信じられん」

 泉澄が部屋に入ってきて、「根詰めしすぎだったのよ、蒼矢は」と心配そうに言った。「でも貴方のおかげで、閃助くんも香梨ちゃんも無事だった」

 後から香梨もひょっこり顔を出してくる。蒼矢の顔を見ると少し頬の力を弛め、「あの、ありがとうございました」と頭を下げる。蒼矢は「ああ」と言っただけだったが、彼が香梨を見た途端に小さく息をついたのを、閃助は見ていた。

 すると泉澄と香梨の間を割って、涙目の苺が飛び出してきた。「蒼くん蒼くん! よかったあ、心配したんだよ!」

「うるさい、傷口に響く」蒼矢は鬱陶しそうにした。苺は虚を突かれたように、「えっ、不老不死の蒼くんの傷口ってまだ塞がってないの?」と仰け反る。蒼矢は、黙って瞼の窪みを親指と人差し指で抓んだ。

「嘘なんだね? 私を黙らせようとして傷に響くからって嘘ついたんだね? ひどいよ蒼くん、私はこんな大きな声で喜びを体現しているのに! 蒼くんが無事に戻ってこれたんだから、精一杯喜ばせてよ! ほらわたし、今にもドンドコ飛び跳ねそうに興奮し――」

「余計にうるさくなる! 誰かそいつを大人しくさせろ! 涼、いるか!」

「苺ちゃん、コーラあげるからこっちおいで」

「わーい行く行く涼くん!」

「よし、ひとまず俺の頭と床が割れずに済んだ」

 蒼矢はぐったりして、また布団に倒れ込む。クマはますます深みを増し、顔も青白い。疲労困憊なのか丸分かりだ。蒼矢は目を細めて、天井のフローリングライトを見つめる。ナイフのようだった眼光はすっかり弱弱しくなって、このまま放っておいたら彼は死んでしまうのではないかと閃助は不安になった。この世界に死の概念が存在しないのはわかり切っているが、何か不吉な予感が閃助の鼓動を不安定にさせた。この世界の終わりと共に、蒼矢も長年の天使の役目を終えて、滅び行くのではないか――そう思った瞬間、閃助は声に出して懇願していた。

「先生、まだ死なないで下さい」

 閉じかけていた蒼矢の瞳が、閃助の方を見上げる。

「悪魔を倒すことは出来ないかもしれないけど、僕はせめて、信者の方たちに地獄に堕ちてほしくない。これは大きな賭けですが――新緑町の住民全員を転生に導く作戦を決行しようと思います。貴方のアドバイス通りに」

「どういうことだ?」蒼矢はあくまでとぼけてみせる。

「まず、珠姫姉さんを僕たち側に引き入れます」

 香梨は何か言いたげだったが、蒼矢や泉澄は黙って耳を傾けていた。

「そして、僕たち双子が協力して――悪い言い方をしますと信者たちを騙し、転生の道へ導くんです」

 閃助は先ほど泉澄から、転生の仕方を聞いた。蒼矢から冥界の仕組みの説明を受けたと申告すると、泉澄は力強く頷いて転生について語ってくれた。

 冥界に滞在する魂たちが次の人生へ転生するには、新緑町の外へ出ること。つまり、新緑町の町外れにある『小梅川』を渡った先へ行けばいい。現世では、小梅川を渡った先は紅町という別の町になる。小梅川を渡れば、魂は前世と冥界での記憶を完全に失い、新たな命に変わってまた現世に落とされる。

 最初からそこへ行けば閃助たちもさっさと転生出来たのではと考えたが、泉澄が言うには、冥界へ召されてまもない魂は次の人生を迎えるためのエネルギーが不十分であり、回復しないまま転生すると次の人生では長く生きられなくなる。生へのエネルギーを蓄え、現世から解放された魂たちに休息を与えるのがこの冥界の存在意義だ。天国を仏教用語で、極楽と呼ぶように、冥界はあくまで「現世での役目を終えた魂の休憩所」なのだ。現世で死を体験すると、エネルギーをほとんど燃え尽くして魂だけの状態になってしまう。そんなボロボロの状態で転生するのは危険極まりない。

「それで、どう珠姫と協力するんだ」

「信者たちは皆、珠姫姉さんの喋り方イコール神の喋り方だと勘違いしています」閃助は人差し指を立てる。「つまりボイスチェンジャーを使おうと地声だろうと、珠姫姉さんがいつも通りの口調で自分を神だと名乗れば、みんな信用するはずです」

「そんなに都合よく珠姫を利用出来るか?」

「――僕は、珠姫姉さんの真似をして、姉さんの彼氏たちを騙してきた」閃助はニヒルに微笑む。「だから、いつも演説方式で声だけ聞かせるなら、僕も、姉さんと同じような口調で喋れるんです。僕はずっと姉さんを見てきたから、完璧に姉さんを演じられる。でも姉さんには僕と違って、口調だけでなく、人を虜にするたくさんの武器を持っている。それを使ってもらいます。でもまあ、ここからの作戦は、姉さんをこちら側に引き入れるのを成功してから詳しく話した方がよさそうですね」

 蒼矢と泉澄は大体理解をしたらしかったが、香梨はやや難色を示した。しかし無言を貫き、諦めたように、目を伏せた。

 蒼矢はしばらく考え込んでいたが、やがてぽつりと呟いた。

「最後は愛する姉を利用すると来たか。あの女をお前の思い通りに動かすのはかなり至難の業だろうが――」そこで、蒼矢は面白そうに口角を歪める。「かつてお前に狂気を宿した姉すら駒に出来たなら、お前こそが一番の怪物になるだろうな」

 初めて蒼矢が笑った顔を見た。天使の笑みには程遠い、むしろ期待に胸を膨らます悪魔みたいな笑みだ。

 閃助も微笑みながらかぶりを振る。「すべては、貴方の思惑通りですよ。貴方のアドバイスのおかげで、僕はこの作戦を思いついた。正確には貴方の大きな賭けに、僕は乗ったんです」

「一体何のことだか」蒼矢の息がまた荒くなり始める。

「僕たちエンコー姉弟が協力すれば、百年に一度の幸福が冥界に訪れる。貴方はそう言いましたね。今まで貴方たちは新しい冥界が作られる度、悪魔に騙されて地獄に堕ちた数多の魂たちを見てきた。でも、今回は上手くいけば、誰一人として悪魔に魂たちを渡さずに済む……。僕が悪魔の思想に染まらず、その瓜二つの存在である姉さんがずっと神の代理をしてきたからこそ、成し遂げられるかもしれないんですよね?」

 蒼矢はとうとう目を閉じた。だが口元は満足げな笑みを湛えている。

「――悪魔は基本、若い女や生前に成功を収めた奴を側近に置いて、自分の代わりに神を演じさせる。悪魔はどう足掻いたって悪魔だ、ダミ声だわ喋り方はガサツだわ、奴が直接喋ったら人間の魂の心を捕らえるなど到底出来ない。今回の悪魔は、自分の代理として珠姫を選び、珠姫の声や喋り口調に乗せて魂たちを洗脳させる魔力を注ぎ込んだ。旋風塾にいるメンツが神の演説が気持ち悪いと言ったのは、ここにいる連中だけが悪魔の魔力を本能的に撥ね退けたからだ。だから変な奴ばかりなんだよ」

 でも、と蒼矢は付け加える。

「その変人たちに助けてもらわなければ、天使も悪魔も何も出来ない。人間は何と不思議な存在なのだろうな。単純なくせに、時間に縛られず、常に他人を信じる心を持っている。悪魔の信者だろうと、そうでなかろうと、信じる気持ちは人に希望を与える。先生を信じてよかったと生徒たちに言われるのは――俺の終わりのない仕事の一番の報酬だ」

「先生」閃助は優しく頷いた。「僕は先生に町で見つけてもらえたから、今ここにいるんだと思います。それに学校で先生が助けに来てくれなかったら、僕と香梨ちゃんは今頃拷問部屋で肉の塊にされていたと思います。旋風塾にはいっぱい疑問を持ったときもあったけど、短い期間しか一緒にいられなかったけど、僕は先生たちを信じてきてよかった。だから」

 閃助は蒼矢の右手を掴む。冷たくてぞっとしたが、彼らはそもそも人間ですらないのだから、彼らの魂に体温などないのかもしれない。その冷たい肌に閃助の温かな涙が落ちた。

「今度は先生が僕を信じて下さい」

 仮死状態から目覚めたばかりでおどおどしていた閃助に比べたら、随分と逞しくなった。彼の今の宣言が、部屋中の空気を痺れさせ、泉澄が奇跡でも見たかのような顔で目を潤ませている。香梨が閃助の背中に飛びつき、無言で抱きしめた。彼女の体温はまだ残っている。魂の温もりだ。その温もりを背中に受けながら、閃助は蒼矢の冷たい手を握り締める。ありったけの勇気が欲しい。自分を受け入れてくれる人たちはもうこの塾にしかいない。だけど、それで十分だ。今まで皆に助けてもらった分、今度は自分が恩返ししなければならない。珠姫を引き入れる策はもう練ってあるが、正直成功する確率は低い。運が悪ければさらに閃助は珠姫に突き放され、信者たちは悪魔に取られたまま戦いが終わってしまう。だけど今はあの魔女が、勝敗の鍵を握っている。やるしかない。

 ただ、もうすぐ自分は本当に消えてしまうのだと思うと――それも寂しくて寂しくて堪らなかった。生きているうちから、蒼矢や香梨たちに会えていたらよかったのに。だがそれはあり得ない話だ。

「この期に及んで泣くな、閃助。言っただろう、俺は死なん。俺は何人もの生徒たちを送り出してきた、そしてこれからも生徒を現世に送り出す、永遠の塾講師だ」

 閃助の視界が霞みに霞んで、真っ白になっていく。

「お前が新緑町を救ったところで、転生すればその記憶すら消える。無論、旋風塾があったことも、珠姫を愛したことも、香梨に出会えた記憶も」

 まるで核爆弾の光を浴びたあの日のように。

「だが、お前が俺たちの希望であったことは、お前が消えても俺たちがずっと覚えておいてやる。だからめいいっぱい、暴れて来い」

「はい」

 このまま目が見えなくなって、やがて耳が聞こえなくなり、すべての感覚がなくなり、自分は消えてしまうのではないかと怖くなる。不安で胸がいっぱいになる。押し潰されそうになる。世界の命運を自ら背負ってしまった。だけど後戻りは出来ない。成功しようが失敗しようがこの世界はやがて消える。でも今は、自分と一緒に死んでしまった双子の姉を、何としても取り戻さなくてはならない。

 いや、ひょっとすると珠姫は――。

 蒼矢の手の冷たさと、後ろから感じる香梨の温もりは閃助が泣き止むまでずっと彼を包んでいた。


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