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14.「お前たちは全員、」

 銃弾を二発食らってもけろっとしている怪物を前に、威勢よく閃助たちに襲いかかろうとしていたクラスメートたちは固まってしまった。中には、紺野の銃で撃たれて倒れた生徒たちの安否を確かめている者もいる。

「安心しろ、死んではいない」蒼矢は彼らに告げた。「そもそもこの町で『死』という概念は存在しない。このままでは、このクラスは二人の追放者を処分出来なかったとして、全員が追放処分を受けるだろう。だがお前たちの一番の失態は、二人の裏切り者をさっさと処分出来ずに」蒼矢は親指を己の胸に向ける。「この俺を学校に踏み込ませた件だな」

「あんた、一体何者なんだ……」筋原は顔面蒼白で身構える。だが、掲げる拳に力は入っていない。「死なないってどういうことだよ。やっぱり神様の力なのか?」

 まだ神を心酔し切っている筋原に、蒼矢は興ざめしたようだった。

「神の力、ではないな。大体、奴の正体は神なんかじゃない。まあ、いずれにしても、もうタイムリミットは残されていないからな」

 閃助と香梨の襟首を乱暴に掴んで、蒼矢は教室を出る。最後に、閃助と筋原の目が合った。筋原は微かに羨ましそうな目でこちらを見ていた。

「お前らが拷問を受ける前に――俺たちがすべて終わらせてやる」

 廊下に出ると、騒ぎを聞きつけた他クラスの生徒たちと教職員たちが一組を囲んでいた。ひっ、と閃助が小さな悲鳴を上げると、香梨は「落ち着いて」と小声で囁く。

「どうして落ち着いていられるの。やっぱ香梨ちゃん強靭すぎ」

「神の側近やってたのをある日突然すっぽかしたから、毎日が死の覚悟だった。そりゃ強くなるって」

 そうだ、香梨は神のすぐ傍で働いていた。いつ神自身から狙われてもおかしくない状況を、よくものうのうと生き延びてきたものだ。

「で、でも」閃助は己の襟首を掴む蒼矢を見上げる。「先生、どうして? 撃たれたはずじゃ」

「二度も同じことを言わせるな、この町では誰も死なない。涼も言っていただろう、拷問された追放者は死なない程度に痛みつけられて、神の前に引きずり出されると」

 涼のあの話は本当だったのか? 蒼矢が無事生きている今の現実が、より真実味を増す。

 さて、と蒼矢は面倒くさそうに溜息を吐く。閃助の学年のフロアは大変な騒ぎになっていた。即座に生徒指導の教員が現れ、厳つい顔で迫ってくる。生徒の中にはさすがに紺野のように銃を所持している者はいなかったが、カッターナイフやハサミ、辞書なんかを手に提げているのが何人もいた。辞書の角で頭を殴られたら、確かにひとたまりもない。

 だが蒼矢は動じなかった。小柄な男子生徒と女子生徒を両脇に抱えて、「振り落とされたくなければ、しがみついてろ」と忠告する。はい? と閃助が返答する前に、せっかちな蒼矢は足を踏み出していた。

 蒼い矢が弾け飛んだ。

 それは風のように、光のように、時間が止まったかのように、人間をあざ笑うかのように、人波の間を駆け抜けた。まさに刹那のことであった。全身と意識を持っていかれそうな衝撃に閃助は一瞬何が起きたのかわからなかった。衝撃が止んだ途端に、人ごみのどよめきが背後から聞こえてきて驚く。

 蒼矢は閃助たちを小脇に抱えたまま、両膝を曲げて、前方にずって行く足に急ブレーキをかけていた。火花が散りそうなほどつま先に力を込めたのだ。そして息つく間もなく階段の踊り場から三段抜かしで階段を駆け下りた。閃助と香梨は蒼矢のシャツにしがみつくのに必死だった。閃助の手は血で濡れていたから、蒼矢のシャツにますます赤黒いシミがつく。

「蒼矢先生、貴方はいっ、たい」

「俺は蒼い矢。そのままだ」しれっと返す蒼矢。そして黒目を背後に向けた。

「のろのろしていたら追っ手が来るな。最近ワンパターンが続いているからいつものように出入り口から堂々と脱出は出来なさそうだ」

「え、先生、九凪田高校に何回か来てるんですか?」

「この学校ではないが、建物の潜入捜査は今回で二百三十二回目は越えているだろう」

「蒼矢先生」

「何だ」

「貴方は既に人間とは別次元の存在なんですよね?」

 もう閃助も香梨もわかりかけていた。新緑町の謎を知り尽くし、この状況を打破する方法を恐らく蒼矢は最初から知っていたのだろう。出会った当初から、旋風塾の講師たちの意味深な発言や情報の出し惜しみを何度も繰り返していた。時には嘘もついていたかもしれない。美羽が「旋風塾に未来はない」と自棄を起こしたときも、国定が「俺たちに何をさせようとしているんだ」と問い詰めた際も、黙秘を決め込んだ講師たち。彼らが今になって情報をすべて曝け出すと言い出したのは、香梨が教えてくれた神の関する情報もすべて揃ったからだ。

「つまり蒼矢さんたち側が把握している情報と、神側の情報が揃ってからじゃないと、何も動き出せなかった。だからずっと、僕たちを誤魔化していたんですね」

 蒼矢は舌打ちをする。一階に降り、廊下を右に曲がって水道、校長室、用具室を横切り、職員室の前に立つ。勿論、閃助と香梨を小脇に抱えたまま。長時間二人の高校生を抱えられる腕力はやはり人並みを超えている。足を使って横引きのドアを開け、驚く教職員たちの間を蒼い矢となって駆け抜けた。そして窓を派手に突き破る。教員たちが事態の大事さに気付いたときには時既に遅し、蒼矢たちは校舎裏に着地した。

「前回潜入した中学校では昇降口と保健室前、それからグラウンドで既に信者たちの精鋭部隊が待ち構えていた。今回はラッキーだったな」

 そして裏の校門から学校を出ると、周囲に学校関係者はいなかった。そこから蒼矢は一気に真夜中の町を駆け抜け、新緑町駅前まで十分間走り通した。途中、信号に阻まれて地団太を踏むくらいには腕力も体力も余裕綽々だったようだ。駅前の東口のコンビニ前に着くと、ようやく蒼矢は二人を下ろす。閃助はへなへなとその場にへたり込んでしまった。



 真夜中なのに駅前も周辺の店もビルも、煌々と灯りがついているこの不自然さにはもう慣れた。心なしか、町が明るいせいで月の輝きがいまいち目立たない。まるで作り物みたいだ。今日は小潮か長潮か、満月の三分の二程度の大きさの月が、夜空に寂しく浮かんでいる。町が明るいせいで昔はよく見えた星も、今じゃ輝きを失っているのが大半だった。

 駅前のバス乗り場には誰も待ち人がいない。三人は誰が言い出す訳でもなく、蒼矢、閃助、香梨の順番にベンチに座った。蒼矢の白いシャツと閃助の手は血塗れだが、両者にとってはどうでもよかった。

 今更ながら、新緑町の外の会社や学校に通う住民たちはどうしているのだろう。新緑町全体を巻き込んでいる神のカルト組織についても、世間からは何かニュースにされていないのだろうか。

「この町の交通機関、電車やバスやタクシーには絶対に乗らないことだ」蒼矢は溜息混じりに囁く。「出発してしばらくすると、乗客は全員眠らされ、その日の仕事や学校の授業の記憶を勝手に捏造される。神の力だ。そして各自の帰宅時間になると、各自に合わせた時刻の電車やバスが新緑町に戻ってくる。毎日毎日、きっかり同じ時間の交通機関を信者たちは利用しているんだ。誰もそれが仕組まれた人生だと気づいていない。奴らは神のことで頭がいっぱいだからな。だから、新緑町より外の職場や学校へ通う住民たちは、実はここ一ヶ月と数週間、一切通勤・通学なんてしていない」

 閃助には、だんだんわかってきた。一度目覚めた彼の記憶の結晶は、ゆっくりと解凍されて、記憶が頭の中に染み出している。

 この世界には、新緑町しかない。新緑町だけが我々の世界そのものなのだと、頭の中の自分が穏やかに語りかけている。

 どうしてこんな突然に思い出して、そして受け入れられるのか――それもきっと蒼矢のおかげだ。

 蒼矢の手が閃助の頭に乗った途端に、記憶の解凍が起こり始めたのだ。

「神の正体は、悪魔だ」

 蒼矢の声は夜の闇に溶け込むくらいに、穏やかだった。虫の音ではなくスズメのさえずりが聞こえる真夜中は、平日だからか人気が少ない。それでも、昼夜逆転生活より前に比べたら勿論、多い。

「ここは、簡単に言ってしまえばあの世なんだ」

「はい」

「お前たちは全員、死人の魂なんだ」

「はい」

「かつて存在した現世の新緑町は、今はもう滅んでいる。あるカルト教団が暴動を起こしたんだ。そこの教祖が、ほんの小さなものであるが外国から核爆弾を密輸し、それの実験を試みた。実験に選ばれたのが、新緑町だった。だから新緑町の住民のほとんどが死に絶え、ここへやって来たのだ」

「じゃあ、あの『光溢れる日』って、核爆弾の光ってことですか」

「そうだ」

 香梨は黙って聞いていた。

「ここは所謂、冥界だ。現世とは違う、人間が死んだら誰もが一度は行く、幸福に満ち足りた世界。現世との違いをつけるべく昼と夜の生活リズムが逆転しているが、魂たちは生活リズムにすぐ順応できるので時間感覚は狂わず、気候も寒すぎず、人々は生前よりも穏やかな心境で生活出来る。だが本来はそれだけのオプションがついた世界に過ぎない。神の信者たちが度の過ぎた幸福感を感じるのは、神――いや、自称「神」の悪魔が魂たちをマインドコントロールしているからだ」

「悪魔の目的は何ですか?」

「その前に、この世界の仕組みを説明しておく必要がある」蒼矢は気だるげだったが、些か眩しそうに星を眺めた。

「本来、人は一度冥界に着いたら、暫しの間は冥界に留まって魂を癒してもらう。死ぬと魂だけが残って昇天するが、身体を失った魂はエネルギーが大幅に削られてしまって、すぐに次の身体に入魂出来ない。お前たち人間があの世とか天国とか呼んでいるこの場所は、身体を失った魂たちの憩いの場なんだ。ここで、次の人生を生きるためのエネルギーを十二分に蓄え、そしてまた違う生物となり産み落とされる。魂は転生するんだ、無限にな。近いうちにお前たちも、違う人間ないしは生物に生まれ変わって新たな命として現世で生きることとなる。次の人生がどの生物になるかは誰にもわからんが」

 蒼矢は人差し指を立てた。「ちなみに補足しておくとな、前世によって魂が送られる場所(冥界)は違う。つまり今のこの新緑町は、『現世の新緑町』の住民たちの魂のみ集う場所。だから現世の町とまったく同じ創りにされているんだろうな。何でそういう構築なんだとか冥界創造の仕組みまでは俺は知らんぞ、いつも勝手に一つの冥界が出来上がっているんだからな」

 冥界はいくつも存在し、一つひとつの冥界は現世の被災地を模して創られるのが常なのだろう。つまり――旋風塾のファイルにあった花松地方大震災、あの天災で死亡した者たちは再び冥界として再構築された花松地方へ送られ、安曇大学の事件の被害者の魂は冥界としての安曇大学で再び授業を受けていた、という訳だ。

「大体は地域で分けられるが、他の町や都道府県は当然核爆弾なんて落とされていないから、人は少ないし、もっと言えば大体が年配の老人ばかりだ。だから明らかに現世とは違う場所だと分かり易かったのだが――今回は一つの町の住民の大半が送られてきたし、どいつもこいつも核実験のショックの影響を知らず知らずのうちに引きずっていたんだろうな、簡単に悪魔の洗脳にかかってしまった。俺が担当してきた仕事の中では、五本の指に入るくらいには手間取った」

 笑いもせず蒼矢は淡々と語る。彼は人間の魂とかけ離れすぎている部分が多すぎる。存在自体も、強靭さも、敢然さも、冷静さも。もう長い間ずっと、悪魔と戦ってきた人なのだ。

 塾の棚に収納されていたファイルは、蒼矢たち講師陣の過去の戦記だった訳だ。安曇大学の事件の死亡者や、花松大震災の死亡者の中にも、かつて蒼矢たちの教え子がいた――。蒼矢たちは何年生きているのだろう。

「悪魔の目的は、自分を崇め信仰する奴らを騙し、地獄へ引きずり込むことだ。奴らは魂を地獄で甚振り、いじめ尽くし、本当の意味で拷問するのが楽しくて仕方ない。悪魔だから当たり前だろうがな」

 閃助は、蒼矢が紺野に「地獄へ堕ちろ」と咆えていたのを思い出し、身震いした。

「地獄へ堕ちろって、先生、本気で言ってたんですね」

「ああいう奴はもう救いようがない。まったく、取り乱して生徒を銃で撃ち、その上で自分を正当化しようなど、教師としてあるまじき行為だな。どうせ生前もロクな人間じゃなかったんだろう」蒼矢は鼻を鳴らす。香梨も笑わず、蒼矢と同じ顔をしていた。

「悪魔は至る場所に現れる。あの世だろうと地獄だろうと関係ない、現世を越えた異空間であるのはどちらも同じだからな。奴は一定の憩いの場に人が増えてくると、毎回地獄から這い上がってきて、魂を洗脳し、地獄へ連れていく」

「じゃあ、今、神……というか悪魔の信者の人たちはみんな、このままじゃ」

「全員、地獄への片道切符を握らされているも同然だ」

 閃助と香梨は思わず顔を見合わせ、息を飲んだ。

「地獄に堕ちたら二度と現世に転生出来ず、永遠の苦しみを味わう。仏教における地獄では餓鬼道とか畜生道とか階級分けされているらしいが、本物の地獄がどんな風なのかは俺は知らないし興味もない。第一に、死後の世界と言えば同じく仏教の六道やケルト神話のマグ・メル、北欧神話のヴァルハラ、そして日本の三途の川などが有名どころだ。が、実際のあの世にそんな神聖な場所はない。滅びたはずの新緑町がそっくりそのまま、再現されているだけだ。しかも、住民たちは悪魔に記憶を奪われて、核爆弾の光が町を覆ったときの記憶しか残されなかった。今回新緑町を乗っ取ろうとした悪魔は、あの光が昼夜逆転のキッカケだと嘘をつき、そこで颯爽とヒーローとして現れたことで、上手く神としての立場を確立したのだろう」

 香梨が唐突に口を挟む。「チベット密教の死者の書にも、死者は光を見るって話がある。すごく眩しくて怖い光なんだって。私は最初、あの光はそれかと思っていました」

「つまりお前は最初から、町ではなく自分自身に異変があるのだと気付いていたというのか」

「うーん、まあその可能性もあるんじゃないかなって思ってましたね。それにチベット密教の書の光は、光の中に飛び込めば仏の世界に行けるけど、何も起こらなかったし。光に飛び込まなければ、七日後にまた光が差して込んでくるけど、光なんて最初の一回きりでしたから、すぐに違うとわかりました」

「でも、ある意味では仏の世界に僕らは来てしまったんだけどね」閃助は苦笑する。震える目尻から、雫が一筋零れた。

「そっかあ……」首を垂れて、呟く。「僕たちは死んじゃったのか……」

 香梨は俯きはしなかったが、「この町も、学校も、空に浮かぶ月も、全部偽者だったのね」と儚げに囁いた。

「閃助、お前に一つ重要なことを教えておくとな、現世の新緑町を滅ぼしたカルト教団の愛人は」

「僕の母、ですよね……」閃助の口から嗚咽が洩れ始める。「僕の母が信仰していた宗教団体が、町を滅ぼし、僕たちを殺したんですね」

 蒼矢の手から頭に流れ込んできた映像のおかげで、大体思い出せた。母はついに帰って来ず、愛人の教祖と共に新緑町を破滅へと導いた。今、その教団が何をしているか、母がどうしているかは知らない。そもそも、既に死んでしまった自分には、もう次の人生に備えるか、地獄に堕ちるしか道は残されていない。蒼矢や香梨たちと過ごす日常も、じきに終わってしまうのだろう。そして「閃助」としての自分との別れもやって来る。

 つらくて堪らなかった。悪魔の信者たちの誰をも助けられず、皆が地獄へ行ってしまうのを指を咥えて見ていることしか出来ないのが悔しい。珠姫にも会えない。せめて珠姫だけには、最後に一度だけ会いたい。

「そういえば」香梨が静かに言った。「神崎だけは、最初からクラスにいなかった」

 顔を上げる閃助を、香梨はじっと見つめた。「もしかしてそれって、神崎はまだ現世で生き残っているってことじゃないの?」

「神崎が……? 生きてる?」

「冥界に来てからずっとその神崎とやらがいなかったのであれば、恐らくその可能性は高いな」蒼矢も頷く。今日の蒼矢は珍しく時間を気にせず、穏やかに話している。終わりが近づくまで身体を酷使し続けたから、疲れているのかもしれない。

 神崎は生きている……今も現世の何処かで。膝を見下ろす閃助の視界がさらにおぼろげになる。海の中に浸かっているかのように、視界は白くなり、揺れる。全身が心地よい浮遊感に包まれた。安堵感が染み渡ってきた。

 何度もパシりに使われたが、自分がいないと一人ぼっちだった神崎。彼は一人で生きていけるのだろうか。だけど、こんな狂った冥界を彼が見なくて済むのなら、嬉しくて仕方なかった。弱い彼なら、きっとほぼ間違いなく悪魔の信者になっていただろう。そんな神崎の姿は見たくなかった。だが何より、彼が生きていると知って、閃助は胸が締め付けられるほど熱い気持ちになった。

「よかった……」肩を窄ませて嗚咽を繰り返す閃助の隣で、蒼矢はしばらく閃助の泣き声を聞いていた。香梨は目を伏せていたが、眠っている訳ではなかった。

 閃助の涙が落ち着くまではさすがに待てなかったのか、僅か三分で「閃助」と蒼矢はまた語り出す。だが、口調は随分と真剣味を帯びている。

「俺と泉澄と涼は、この冥界の管理者だ。人間たちの言う、天使と呼ぶべき存在だ」

 閃助が目を見開くと、反動でまた涙が落ちる。隣で香梨が、得意のにまにま顔になって不気味な笑い声を上げる。「へへっ、ふっ、貴方みたいな病的に時間に厳しくてこわーい人が、天使の実態だなんてね」

 蒼矢は「勝手に言ってろ」と、手を振って跳ね除けるような仕草をした。

「天使は俺たち以外にもたくさんいるが、基本、三人一組ないし四人一組で行動する。新しい冥界が作られる度に、俺たちは本能的にそこの世界を管理し、そして毎度襲いかかってくる悪魔と戦っている。一体いつから俺はこんな戦いをしていたのかすら覚えていない、もうずっとだ。稀に悪魔のいない平和な冥界もあって、そこにいた大体の死人の魂を転生させたこともあるが……最近は悪魔が活発すぎて、働きづめだ。そろそろゆっくり寝たい」

 蒼矢の話では、天使たちの一つのグループはそれぞれの冥界で魂たちに心地よく過ごしてもらうべく、各自能力を持っている。魂たちの生活リズム、時間感覚を人間時代のときとまったく同じ風に調節しているのは蒼矢。気候や気温の変化を司り、夜を過ごす上で魂たちに合った涼しさを調節するのが涼、生前よりも魂たちを穏やかな心境にし、澄んだ気持ちにさせる役目が泉澄。この三人で今は様々な冥界を繰り返し管理し、悪魔と戦っているのだが、最初は蒼矢一人で全部管理していたらしく、あの旋風塾も担当する冥界が変わるごとに毎回設立しているという。

「泉澄と涼は、元々は俺の生徒だったんだ」

「え?」さすがに閃助も驚いた。つまり、泉澄と涼は元々死んだ人間の魂として冥界に昇天し、地獄にも行かず転生もせず、ずっと冥界に残って今は天使として活躍しているのだ。

「俺が一人で、悪魔から純粋な魂を取り戻そうと奮闘していたのが、あいつらには気の毒に感じたのだろう。自分から冥界に残って講師になると、名乗り出たんだ。もっとも、あいつは俺に比べればまだまだ天使としての活動は日が浅い。どうやら冥界で長い間過ごすと天使としての能力が開花してくるようだが、泉澄の能力など、悪魔のマインドコントロールの前では手も足も出ない。あいつはそれを悩んでいるが――少なくとも、身の回りの人間には、あいつの純粋に人を思う気持ちが伝わっているんじゃないか?」

 蒼矢が、泉澄を評価するところは初めて見た。

 思えば、講師の三人には元々人間離れした不思議な魅力があったと思う。蒼矢は鋭い眼光で時に相手を怯ませるが、時には意外な懐の大きさを垣間見せる。泉澄は感受性豊かで、彼女の浮かべる表情はこちらの心を温かくする。珠姫とは別の意味で美しい笑顔を浮かべるのだ。涼は名前のとおりクールで、割かしはっきり物を言うタイプだが、人の心を読んだようなタイミングで的確なアドバイスをし、何より彼の持つ声が鼓膜を程よく震わせて心地いい。泉澄と涼は冥界を飛び回っているうちに、天使としての能力を開花させたのか、それとも彼らが生まれつき持っていた才能なのかは不明だが、天使と呼ぶには相応しい力だ。妙に閃助は納得した。香梨も、また無表情に戻って「へえ」と頷いた。

「そういえば、香梨ちゃんは四日間旋風塾にいたんだよね」

「うん、寝泊りさせてもらった。みんな妙な雰囲気の人ばっかりだと思ったけど、講師陣は今の話を聞いて納得した」

「生徒たちも、みんな先生たちの不思議な魅力に惹かれる人たちなのかもね。苺さんなんて、涼先生大好きだし」

「でも夏星くんは何故だか泉澄さんを避けてるよね」

「夏星くんはひょっとしたら照れてるだけなんじゃないかと思うけど」

「どうかなあ、彼は体質的に一匹狼の方が合いそう」

「そうなんだろうけど、彼は……その、一人にしておくと色々危険なことをしそうで……」

 涙が引いてきた閃助と香梨が、幾分清清しい表情で雑談している間、隣の蒼矢はベンチに背をもたれかけてぼうっとしていた。魂のない抜け殻にも似ていた。異変に気付いた閃助が、「先生?」と不安げに声をかけると、生気のない声で「ああ」と返される。

「眠い」

「今日は一旦帰って、寝ましょう。先生、働きすぎなんですよ」

「だからそんな常識じゃありえないクマが出来る訳で」

「……そうだな」蒼矢はうとうとしていた頭を起こし、力なく立ち上がる。「そろそろ悪魔も、信者たちを地獄へ引きずり落とす頃合だ。あまりちんたらしていられないが、そうだな、半日ぐらい休ませてもらおうか」

 真っ暗な夜の空気が、余計に睡魔を突き動かすのだろう。しっかりして下さい、と蒼矢の背中を支える閃助。



 香梨は、立ち上がったものの、顎に手を添えて考え込んでいた。

「天使、か」

 そしてすっかり疲弊し切った蒼矢を一瞥し、また足元を見下ろす。悪魔が正体を現し、住民たちを地獄へ連れて行くまであと何日残っているのだろう。ひょっとすればあと数時間か。わからない。だが時間に神経質な蒼矢が寝たいと洩らすほどの余裕はあるのかもしれない。いや、しかし蒼矢はいつも言っている。「時間がない」と。

「私が天使になれば、今後破滅に向かっていく魂たちを救えるかもしれない」

 香梨が独り言を洩らした途端、

「香梨ちゃん」

 手首を掴まれた。香梨は自分の肌に触れたその手を凝視する。右手だ。閃助の手は、森林にカッターで切りつけられて血塗れだったはず――誰の手だ!

 顔を上げると、閃助に瓜二つの顔が、毒々しい笑みを浮かべていた。


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