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12.「勇気を見せてよ、閃助くん」

 旋風塾よりも閃助の自宅の方が近かったため、ひとまず二人は閃助の自宅へ入った。

 一階の美容室は、相変わらず母が戻らないのでシャッターが閉まったままだ。美容室なら大抵何処にでもある三色ねじり棒が音もなく回っているだけで、きちんと営業していた昔に比べたら店構えも随分古くなったように感じた。もうこの美容室が開く日は来ないかもしれない、と閃助は覚悟している。食費や電熱費、薬代でどんどん家の貯金は減っている。特に学費はばかにならない。大学なんて絶対行けないだろう。

 香梨には客室(元・珠姫の部屋)を一日使うよう提案しかけたが、その前に彼女に思い切って告白した。閃助が、実の姉を心底愛しており、その姉の部屋が今は客室になっているのだと。香梨はやはり興味なさげに頷いたが、寝るのは床でいいので閃助の部屋がいいと言った。閃助は驚いたが、結局承諾した。閃助が洗濯機を回している間、香梨はぼうっと、もぬけの殻になった珠姫の部屋を眺めていた。

 閃助は学校に戻らなかった。蒼矢たちに詳細を連絡し、授業も休みにしてもらった。切れ切れになった雲の隙間から星が瞬く、いい天気の夜だったが、彼らは一日、家にこもって過ごした。特に会話が多かった訳ではないが、一緒にテレビを見たり、ご飯を食べたり、暇つぶしにトランプをした。ババ抜きも大富豪も七並べさえも閃助の負けだった。

「勝負運がないの?」

 真顔で香梨に指摘され、がっくり肩を落とした。

 だが、こうして家で誰かと過ごすのは久しぶりだったので、閃助はあまり落ち込まなかった。むしろ香梨が傍にいるだけで嬉しくて、今日一日は、朝まで珠姫のことを思い出さなかったほどに香梨と一緒にいた。

「貴方のお姉さんってどんな人?」と香梨に切り出されたのは、床についた午前十時のことだ。それまで純粋な幸せに浸っていた閃助の心が、急に痛いほど熟れ、裏腹に身体は寒気が止まらなくなる。

「どんな人、かあ。可愛くて、美人で、仕草が女の子らしくて、そのくせ我がままだし人を顎で使うし、平気で人を騙すわ蔑むわ馬鹿にするわ、完全に世の中をなめているのに何故か上手くやっている。処世術に長けているんだよ。ついでに言うと男の人と性行為が大好きで、僕のことが大嫌いな人だった」

「一言で言うと、悪女だね」無遠慮に香梨は吐き捨てる。そうだね、と閃助は苦笑した。

「でも美しい人なんだ」床に布団を敷いて横たわっている閃助は、エクスタシー寸前の表情だ。明るい影の差す部屋の中では、閃助のベッドを借りて寝ている香梨からもよく見える。

「女としての長所を最大限に駆使して、相手を惑乱させる術を知っている。声の調子、表情の見せ方、仕草など、ほんの些細なことに気をつけるだけで男をモノに出来るって自信に満ち溢れている。僕は彼女に教わったよ、何事も勇気と自信で何とか出来ちゃう人は出来ちゃうんだって」

「で、貴方も勇気を出して女装してみたら、ハマっちゃった訳?」

「そういうことだね」閃助は照れ臭そうにする。「姉さんは凄い人だよ。僕と顔がそっくりなのに、性格は正反対。昔はもっと勝気で優しかったんだけど、ある意味では今の姉さんも、僕と全然違うよ。だからこそ、姉さんは僕が嫌いなんだろうけどね」





『閃助ってさあ、私と違ってモテないでしょ』

 かつてまだ二人暮らしをしていた頃、閃助はいつも珠姫に詰られていた。珠姫は不意に思いついた悪口をすぐに閃助にぶつけてくる。そうして、狼狽する閃助の姿を見て楽しんでいた。

『弱腰だし、声がちっさくてぼそぼそ喋るからイラつくし、服のセンスも微妙だしさ。あんたみたいなのが私の双子の弟なんて、恥ずかしくて堪んないのよね。だから高校は絶対ついて来ないでよ、あんたは違う学校を受験して』

 閃助を己の奴隷だとでも思っていたのか、珠姫は彼に命令すること罪悪感を抱かなかった。そのくせ、都合のよいときだけ『閃助ぇ、数学教えてよ。ほら、ここの問題。可愛いお姉ちゃんのためにさ、人肌脱いでちょうだいよ。ねっ?』などと猫なで声を出して、彼に迫った。身体を微妙に体温が伝わる程度に触れさせ、耳元で囁いた。純粋な心身を保持していた閃助を徐々に狂わせていったのは珠姫だった。

 彼女の微笑みは小悪魔とも女神ともつかない絶妙加減だった。彼女の表情や仕草はどれも至高で、芸術作品とも言えた。機嫌がいいときは太陽みたいなキラキラした笑顔を振り撒いて、寂しくなると儚げな顔を俯き加減にし、またあるときは恐ろしい悪女の顔にもなった。なのに、美しかった。双子なのに閃助の幸薄そうな雰囲気とはまるで違う。話題も空気も常に彼女が主導権が握り、母は不思議な魅力を持つ珠姫を可愛がった。

 特に、目を伏せがちにしながら口を小さく開けて、囁くように喋るのが珠姫の得意技で、閃助は何度もそれに酔わされている。珠姫は双子の弟にさえ色目を使って、翻弄していたのだ。

 閃助の潔白だった思考はいつしか珠姫一色になった。やがて母と姉から「男らしくない」「服がダサい」と異議を唱えられたことによる不満が妙な方向にベクトルを向かせ、ついに彼は女装に走った。閃助が自分の服を使って女装を楽しんでいた事実を知った珠姫は、露骨に「気持ち悪っ」と罵倒した。しかし、何処かなめ回すような目でスカートを履いた閃助を眺めた。

『あーあ、とんだド変態に育ったものね、閃助ってば。でもやっぱ身体のパーツは男よね、私の劣化版って感じ』

 そうして、蔑みと興味を半々に織り交ぜた顔で、毒々しく微笑んだ。

『面白いからもっと見ていてあげる。私の頭が吐き気と苛立ちで蕩けそうになるまで、あんたの汚らしい趣味をしっかり目に焼き付けるわ。そうして学校のみんなにあんたの変態っぷりを一から十まで喋るの。ほら、お話のネタがすぐ尽きないようにさ、その格好で私の足の裏でもなめてみなさいよ。それとも股でも開いてみせる? いいじゃない、どうせ今までも私の声真似で喘ぎつつ、私の服を白い液体で汚してきたんでしょう? ――知ってたわよ、クソ変態』

 言うなれば珠姫は魔女で、閃助は変態だった。だが閃助が女装の才能を使って珠姫を憤怒させる日が来るなど、この当時の珠姫は予想していなかったはずだ。





 昼前の明るさが、締め切ったカーテン越しからよくわかる。しかしちゃんと周期的に眠気は襲ってきた。世界の昼夜が逆転しただけでなく、身体の生活リズムもきちんと順応しているのが本当に不思議だ。

 香梨は静かに相槌を打ちながら、閃助の珠姫との思い出話を聞いていた。思い出話にしては随分と閃助のマゾヒズム補正がかかっていたが、香梨は何も突っ込まない。閃助の変態的な性的嗜好にも、「ふうん」でケリをつけた。

 珠姫の話題になるとどうも閃助は思考回路の歯車がかみ合わなくなってしまうらしく、自分が珠姫の服や女装する自分の姿で抜いたというもはや危険レベルの黒歴史も、口を衝いて出ていた。喋っている最中の閃助には多少の罪悪感や恥ずかしさはあれど、それが恋からなる行為なら当たり前だという風に語った。珠姫の存在は閃助にとって、麻薬だった。アイデンティティーを壊し、周囲の何も見えなくなってしまわせる力を持っている。閃助は愛の毒漬けになっていた自分を思い出してしまったことで、己の狂気すら隠す気がなくなってしまった。

「まずい事態だね」香梨は突如、ぴしゃりと言った。ふわふわしていた閃助の目が、ゆっくり香梨の方へ向く。

「まともに狂気を抑制出来ない今の閃助くんでは――神に漬け込まれるよ」

 昼前なのに、鳥の鳴き声一つしない。人間以外の生物も生活リズムが逆転しているのだ。

「神は何でも知っている。何でも見ている。それこそ、信者たちの目を使ってね」

「信者たちが逐一報告してくれるから?」

「そう。裏を返せば、神は自分一人じゃ何も出来ない無能なの。でも、今の変態駄々漏れの閃助くんじゃ、到底、旋風塾のスパイなんて務まらない」

「どうして?」さすがの閃助も、香梨の剣幕にうろたえる。

「――もし、貴方の一番愛している人が、違う男を好きになったら、貴方はどうする?」

 唐突な質問に閃助は両手をまごつかせる。「それは……仕方ないよ、黙って見ているしかない。今までもそうだったし。どうせ、姉さんは僕が嫌いなんだから」

「黙って見てる? 嘘でしょ?」薄暗いオレンジ色の部屋が凍りついた。「貴方はお姉さんとセックスした男とさらにセックスする。いや、実際何処までしたのかは知らないけど、とにかく女装して、お姉さんのフリをして男たちと会う。そしておちんちん出し、お姉さんが実は男だったと騙すことで相手を幻滅させるの。違う?」

 狂気の真骨頂を突きつけられた。

「お姉さんは貴方の女装を見た程度じゃ、ただ面白がっただけだって話したよね。お姉さんが貴方に怒って、家を出て行った本当の理由は、それなんでしょ?」

「何で……」わなわなと閃助は震える。寒くもないのに、がちがちと歯を鳴らして。「何で君がそんなこと知ってるんだよお!」起き上がって自分を見下す少女に喚く。

「新緑町の狂ったエンコー姉弟、彼らがこの町に来てくれたのはひょっとしたら百年に一度の幸福かもしれない……って、蒼矢さんが言ってた。貴方が体調を崩して寝込んでいるときにね」

 香梨は閃助の質問に答える気は更々ないらしかった。だが、彼女の一つ一つの言葉はどれも断定的だ。閃助は困惑してどうにかなりそうな頭の中で、思い出す――。彼女はかつての神の側近だ。彼女は情報ソースの塊なのだ。つまり蒼矢たちは、香梨を匿っていた四日間で、相当の量の情報を手に入れていたのだ。無論、閃助に話していない内容も山ほど。

「私が今言えることはただ一つ」香梨はまたベッドに横たわって、顔を背けた。「貴方たち双子は新緑町の運命を握る鍵なの。だから閃助くん、いい加減に目を覚まして」

「待ってよ香梨ちゃん、詳しく教えて! 僕と姉さんが運命を変える鍵ってどういうこと? それに君はどうして僕までエンコーしてた事実を知ってるの! まさか、姉さんに会ったの? 姉さんが何処にいるか知ってるの?」

 神の側近だった香梨が、珠姫の居場所を知っているのなら彼女と知り合ったキッカケは、神を通じてのこと以外ありえない。閃助は悟ってしまった。

 珠姫もまた、信者の一人であることを。

 閃助は絶望感に打ちひしがれた。蒼矢と幸せについて語ったのを思い出した。蒼矢が眠そうな目でトーストを貪る姿。閃助は彼に拾われて、旋風塾に入った。学校でのスパイ任務を任された際、裏切ったら承知しないと釘をさされた。

 でも、愛しの珠姫は神の手にある。怒りと、嫉妬と、困惑と、悲しみで、「ああああああ!」と閃助は叫んだ。

「せっかく貴方の精神が強くなってきたのに、また壊すような真似してごめんね。でもさ」

 香梨はうとうとしながら、最後に、呟いた。

「本当にお姉さんに認めてもらいたいなら――彼女を追いかけるだけじゃだめだよ。お姉さんの服を初めて借りたときみたいに、勇気を見せてよ、閃助くん」


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