11.「お前は幸せか?」
それから四日間、閃助の体調は再び悪化し、塾に連絡して休みをもらった。木曜日から日曜日の間だったので、勿論日曜の神の演説には行かなかった。
寝込んでいる間は、寝ても覚めても色々な思考が巡りに巡って、三日目の夜は頭がパンクしそうだった。
蒼矢や香梨に、女装癖を受け入れた件についてまともにお礼を言えなかったことは悔やまれる、早く二人に会いたい。学校で今日も誰かが生徒指導室で拷問を受けていたらどうしよう、不安だ。旋風塾のメンバーは相変わらず元気にやっているだろうか、また誰か生徒が抜けていたら寂しい。珠姫は今何処で何をしているのか、やはり彼女も神の信者に成り下がっているだろうか。だが、別にいい。もし自分が追放されたら、そのときは珠姫に殺してもらいたい。彼女は別の高校だし、反逆者に拷問を施すのは生徒指導部の教師の役目だからそれはあり得ない話だろうが、夢ぐらい見てもバチは当たらないはずだ。
珠姫への狂おしいほどの愛情が蘇った今、閃助の頭は珠姫でいっぱいだった。対象が血の繋がった姉だとしても、本物の恋だ。灼熱の恋にうかされて、ベッドの中で何度も珠姫の名を呼んだ。旋風塾のメンバーや香梨の顔もたまに思い出したが、そんなのは二の次だった。体調を崩すといつもこうだ、姉に助けてもらいたくてしょうがなくなる。子供の頃は自分の具合が悪くなる度に、珠姫が献身的に看病してくれたからだ。
月曜日の朝、咳き込みながら起き上がると、淡い晴れ間が窓の外に広がっていた。若干雲に翳っている夕日が、蕩けそうなほど滲んで見えた。もうじき夜が来る。
大分喉の通りもよくなったし、今日辺りから学校に行けるだろうと踏んだ閃助は、少し早めにベッドを抜けて制服に着替えた。閃助の家にはトースターがないので、食パンをレンジに入れ、トースト用のスイッチを押す。冷蔵庫から卵やマヨネーズを取り出し、タマゴペーストを作ろうとしたところで、ズボンのポケットに入れていた携帯電話が振動した。蒼矢からの電話だった。
「もしもし。おはようございます」
『閃助、登校時間まであと何時間ある?』
蒼矢らしく、いきなり矢継ぎ早な質問だ。しかも挨拶もなしに。「今が十八時二十分ですから、あと一時間半くらいありますね」そして平然と答えられる辺り、閃助も蒼矢の対応には慣れていた。
『予想通り余裕を持った生活をしているんだな。どうりでこの時間でも電話に出られる訳だ』
「蒼矢先生はもう少し寝てもよかったのでは?」
『構わん、今日は深夜まで授業がないから帰ったら寝る』
「帰ったら? 外にいるんですか?」
『お前が学校へ向かう前にどうしてもお前に話がしたかったのだ。早起きする他あるか』
やはり寝不足が祟っているのだろう、蒼矢の口調は相変わらず人の鼓膜を容赦なく突き刺してくる厳しさを隠し切れていない。だがそれももう慣れた。
「今日どうしても?」
『そうだな、恐らくお前にとっては緊急事態だろうから、俺が気を利かせて直々に教えに来た』
「え?」
『朝限定の家庭教師だ』
「ていうことは先生、もしかしてうちに来るんですか?」
『もう来ている。さっさと開けろ』
次の瞬間、蒼矢は十回連続で閃助宅のインターホンが押し続けるという暴挙に走った。
「お前の学校で新たに追放準備が始まっている」蒼矢は片目を瞑り、タマゴペーストを塗ったトーストをかじった。「対象は香梨だ」
閃助の前にも同じタマゴトーストが置かれていたが、朝食に手をつける気力はすっかり奪われていた。危惧すべき予想が、見事に当たってしまった。彼女は何より信者の証としてのペンダントを下げていない。それを追及されたら、何も弁解出来ないに決まっている。
「いつからですか」
「先週の金曜からだ。今は一時的に旋風塾で匿ってやっている。香梨が信者でない疑惑が浮上したら、奴の家族も黙っておかないだろう。まあ、三日間家に帰らない時点で、もう香梨がターゲットにされているのは確実だろうな、家族からも学校のクラスメートたちからも」
机の向かい側に座ってトーストを食べる蒼矢は、淡々としている。
どうやら、金曜日はまだ疑惑が上がっただけで本格的ないじめ――もとい追放準備は行われなかったらしい。だが、もし今日登校すれば、香梨の机やロッカー、下駄箱などの所有物が大変なことになっているだろう。閃助は身を凍らせた。
「香梨ちゃんは今も、塾にいるんですか」
「ああ、間違っても外出しないように泉澄と涼に厳重に見張りしておけと頼んでおいた。知っての通り、追放されたら間違いなく香梨は原型を留めていない形に成り果てて戻ってくるだろう。いや、帰って来ないかもな」
閃助の胸がずきりと痛んだ。そんなこと、あってたまるか。香梨を思うこの気持ちはきっと他の女の子に対しては抱かない特別な気持ちだ。それはもう、はっきりわかる。しかし、珠姫に対して抱いている狂おしいほどの愛とは少し違う。
「そういえば、このあいだの女装癖暴露騒動で、さらに何か思い出したか」
蒼矢がコーヒーを啜って訊ねてくる。閃助の俯いた顔が強張った。蒼矢に出したブラックコーヒーの、深い苦味のある芳ばしい香りが、今はいい匂いだとも思えなくなる。結局誰にも、自分の異常なまでの近親愛を打ち明けられていない。これは女装癖とはレベルが違う、告白したら確実にドン引きされるに違いない。
「家に、客間があるんですが、それが元々は姉の部屋だったことを思い出しました」話してよさそうな範囲だけぼそぼと打ち明けてみる。「今は姉は家を出て行ってしまったんですが、僕は姉の服やアクセサリーを借りて女装を楽しんでいたんです」
「なるほど、それを確かめるために大慌てで公園を出て行ったのか。つまりあのときお前は自宅に向かったんだな」
「すみませんでした、何も言わずに飛び出して行ってしまって」
自分が、蒼矢の思っている以上の変態である事実が申し訳なくなって、大げさに頭を下げて謝罪した。しかし蒼矢は何食わぬ顔で、「で?」と逆に問い質してくる。
「え?」
「それだけなのか? お前が思い出したのは」
蒼矢の、すべてを見透かされそうな瞳に見据えられ、戦慄した。
「それ、だけ。ですよ」苦し紛れに答えてみたが、明らかに声が震えている。そういえば五日前、公園を走り去る前に思わず香梨に呟いてしまった一言があった。「君を好きになっていればよかった」――まさか聞かれていたのか。だとしたら蒼矢はあの発言に引っかかりを感じているのだろう。
「女装癖とか、それ以外のお前の楽しみや苦悩なんて、正直どうでもいい」
蒼矢はきっぱり断言した。ガチャンと大きな音を立ててコーヒーカップを置く。「寝ればすぐ忘れるタチだしな、俺は。だからお前もよく食べて、よく寝ろ。そして吐き出したい悩みがあるなら溜め込みすぎるな。こんなときこそ、よく喋った方が陰鬱な気分も些か楽になるだろう。ただし相手を陰鬱にさせないよう配慮しながら話す必要はあるがな」
相談相手がいたら苦労しない。目の前の蒼矢に話せる勇気もない。
蒼矢は無表情だったが、何度もコーヒーを啜っては乱暴に置く、を繰り返した。
「些細な幸福感は、実は日常の中のあちこちに散らばっている。神の信仰心から四六時中満ち足りた気分でいるというのは、逆につまらなさすぎやしないか。一喜一憂してこその人生だ。神の思想に染まっていないお前には、よくわかっているだろう」
「はい」
「お前は幸せか? 新緑町がこんな現状になり、俺たちの塾でひっそりと息を潜めて暮らしている生活が、苦だと思うか?」
「正直、僕はまだ昼夜逆転生活を二週間も過ごしていません。なのに苦しいと思う瞬間は一日のうちに何度もあります。でも」
旋風塾の面々を思い出す。香梨の姿が脳裏を過ぎる。目の前の蒼矢と視線を交わす。
「こんな貧弱な僕を受け入れてくれる場所があるのは、すごく、嬉しいんです。それだけじゃない、僕の変態じみた趣味を貴方と香梨ちゃんは非難しなかった。神が現れなかったら貴方たちと会えなかったんだと思うと、不思議な感じです」
「そうか」蒼矢はにこりともしなかったが、幾分落ち着いていた。「相変わらず暢気だが、悪くはない」
蒼矢は眠いのか、気だるそうに頬杖をついた。しかし、刃のような鈍い眼光を湛える瞳はまっすぐ閃助を見つめ、声もきびきびしている。生徒に語りかける講師としての態度は依然として崩れなかった。何だかんだ、蒼矢は「先生らしい」人なのだなと閃助は感心する。美羽が淡い恋心を抱いていた理由も、大分わかった気がした。
蒼矢は、閃助が秘密を話してくれるのを待っているのかもしれないと思った。
「蒼矢先生」そう思うと、口が開けた。「僕は……」
辛辣な罵倒を浴びせられるかもしれない。幻滅されるかもしれない。だが、何故だか蒼矢になら話してもいい気がした。蒼矢の、揺るぎない鋭さを誇る瞳に賭けてみようと思った。
「僕が幸せを感じている理由はそれだけではありません。僕は実の姉を愛しています。狂気的なほどに」
「ほう」案の定、興味がなさそうだ。
「すみません、僕は先ほど嘘をつきました。僕は自らの女装癖を思い出したと同時に、姉さんへの近親愛も蘇ったのです。姉さんに会いたくて会いたくて仕方ない、でも居場所がわからないのがどうしようもなく歯がゆい。寝込んでいた日々も毎晩のように、姉さんの夢を見ました。現実とは真反対の、幸せな夢を」
両手で顔を覆い、俯く。「姉さんを本気で愛しているんです。やっぱり、僕は気持ち悪いですか?」
「ナンセンスな質問だな」蒼矢は、すっかり冷めてしまった閃助のタマゴトーストを奪い取る。「町全体を独裁的に支配する化物の方が、余程痛い奴じゃないか」そして萎びてしまったパンの耳に、歯を立ててかじりついた。
「そもそもうちの塾には変人ばかりが揃っている。密かに自殺願望を抱いている中学一年の男子や、その男子に恋愛感情を抱いている女講師、何を考えているかわからない鉄仮面の男講師、その男講師の声からハマって講師に恋してしまった娘、常に人を見下す俺様気取りの仔豚……。俺にとっては、そいつらとお前とでは大した差ではない」
蒼矢自身について何一つ触れていないのが気にかかるが、閃助はコーヒーを噴き出しそうになった。
「ちょっと、待って下さい。今、知ってよかったのかよくなかったのかわからない事実をいくつも聞かされた気がするんですけど」
「どいつもこいつも炭酸飲料と恋に翻弄されやがって、余裕綽々なのは構わないがハメは外さないでほしいものだ」鬱陶しそうに独り言をぼやく蒼矢に、もはや閃助の声は届いていなかった。
しかし携帯電話の着信音には蒼矢は素早く反応した。人前であるにも関わらず平然と電話に出るのは、若干常識がなっていないが、蒼矢だから仕方ない。携帯電話を耳に当てていた蒼矢は、やがて露骨にしかめっ面をし、乱暴に電話を切った。
「まったく、どいつもこいつもハメを外すなと言った矢先に!」
「何かあったんですか?」
「香梨が塾を脱走した」
まだ十九時半だったが、閃助はクラスの教室に飛び込んだ。この時間は、一日の予習勉強をしている委員長の森林ぐらいしか教室にいない。案の定、電気が煌々とついた教室には机に向かって勉強している森林しかいなかった。
「やあ閃助、早いじゃないか」森林が驚いた様子で閃助を見る。顔を上げた反動で黒縁眼鏡が鼻先まで落ちた。おはよう、と切羽詰った声でひとまず森林に挨拶し、閃助は恐る恐る香梨の席に目線を移した。
視力のいい閃助には、香梨の机に「裏切り者」と落書きされているのをはっきり確認した。先ほど下駄箱も見てきたが、生臭いようなしょっぱいような異臭のする汁が、香梨の下駄箱から垂れていた。香梨のロッカーも、扉のネジが弛んで半分ずり落ちている。
足が竦んでしまい、無言で閃助は棒立ちしていた。森林が「大丈夫か?」と心配そうに近づいてきたので、必死に頷いた。
「あのさ、森林くん、香梨ちゃんは……」
「ああ、あの反逆者」瞬間、いつもは聡明な雰囲気のある森林の表情が、毒々しく変化した。「どうやらあの女、腹の内では神様に随順じゃなかったみたいだ。今日辺り、生徒指導室に連れてかれてお咎めを受けるって噂だぜ」
「学校には来てないの?」
「さあ、俺はまだ見てないな。先週の後半から学校に来なくなって、土日は主にうちの学校の連中はあいつを捕らえようと必死だった。捕まえて神様の下へ連れていけば、神様直々にお褒めの言葉を頂けるらしいからね」
恍惚とした森林の言葉を右から左へと受け流し、閃助は脇汗の生ぬるさを懸命に堪えた。ひとまず香梨が学校に姿を見せていないことには安堵したが、ここ以外に彼女が行きそうな場所など知らない。よくよく考えてみると、閃助は香梨のことをほとんど知らない。このままではいけないとわかっている、迷っている暇すらないのも。
蒼矢、泉澄、涼の講師三人組も総出で、香梨を捜索するために出陣している。登校していないのならひとまず捜索は彼らに任せて、自分はスパイ活動に専念すべきなのだろう。
だがそう思いかけた瞬間に、香梨のにやりとした笑みがフラッシュバックとなって蘇った。本当にそれでいいのか、閃助? じっとしていられなくなって、閃助は学校を出た。心の中で、スパイ職務放棄してすみませんと蒼矢たちに謝りながら。
実質、初めての無断欠席だ。校門をくぐって来る生徒たちを追い越しながら、閃助は学校から離れた。
ふと、一つだけ香梨が行きそうな場所を思い出す。閃助はかつて彼女と会ったスイミングスクールの向かい側の、公園へ走った。公園に着いたときには、肺が悲鳴を上げるほど苦しかったが、香梨の後ろ姿を見つけてほっとした。
「香梨ちゃん」声をかけると、香梨は振り向いた。
「声がっさがさ」
「ごめん、急いで走ってきた、から」
「心配してくれたの?」
微かに首を傾げる香梨に、そうだよ、と閃助は頷いた。「蒼矢先生から聞いたよ。バレたって」
「貴方、学校は?」
「学校なんてどうでもいいさ、君の安否が心配でずっと探してた」
二人は暫し向かい合ったまま、沈黙が降りた。やがて閃助はしゃがみ込み、呼吸を整える。その様を香梨は少し離れた位置から見下ろす。香梨の足元の土が、僅かに盛り上がっていた。例のスズメの墓だ。墓の前にムラサキカタバミの束が置かれている。主に夏に咲く雑草の花で、閃助も結構好きな花だ。香梨と同じ花が好きだとわかっただけで、少し胸がくすぐったくなる。
香梨が慎重に訊ねてくる。「私の机、何て書いてあった?」
閃助は迷ったが、意を決して「裏切り者、って」と答えた。
「裏切り者か。そうだね」香梨は溜息をついた。
「もう学校へ行っちゃいけないよ。知ってるだろ、先生たちや筋原に捕まったら最後だ」
「うん、筋原の奴、鼻高々に拷問マシーンに成り下がったと言っていたね」今度は鼻を鳴らし、にやにや思い出し笑いした。「だから旋風塾に戻れって?」
「そうだ。町でウロウロしていたら危険だよ。まだ二十時だから、通学途中のうちの学校の生徒に見つかったりしたら大変だ」
「悪いけど、貴方の指示を受けるつもりはない」
強風が吹き抜けて、香梨のロングヘアーが彼女の顔を覆った。髪の毛が下唇に引っかかったまま、香梨は呟く。
「言ったはずだよ。私は自分だけを信じて生きていくって」
「このままじゃ君は殺されてしまうよ!」
閃助は喚いた。はっきりと、殺されてしまうと名言した。涼の「殺されはしないんじゃないかな」という憶測を否定したのだ。
「それ、旋風塾の先生たちが教えてくれたこと?」
「いや、違う。僕の考えだ。先生たちとの授業を通して導き出した、僕なりの解答だよ」
そう、すべてが旋風塾の講師たちの言う通りではないはずだ。蒼矢は授業をする上で、「議論しろ」「お前の意見も聞く」と言った。すなわち、授業内容を「受け入れる」のではなく「情報を吟味した上で考えろ」という意味だろう。
ならば、旋風塾の講師たちが教えてくれた情報がすべて真実だったとは限らない。
閃助はきつく目を瞑る。「僕は怖いよ。今の新緑町がすごく恐ろしい。学校にも、正直行きたくないさ。いつ神の思想に飲まれるかわからないし、明日には追放処分されるかもしれない。信者でない僕たちが生きていく上で常に隣合わせでいなければならないのは、狂気だけじゃない。死も、だ。それを、松木くんの件で思い知らされた……」
でも、と続ける声は掠れて、弱弱しい。それが自分で癪に障って、「でも!」と今度は力強く言い直した。
「蒼矢先生や旋風塾のみんな、そして君に出会えた。いや、君とは神が現れる以前からクラスメートだったけど、こうして話せる仲になれたのはとても嬉しく思う。地獄の中にも小さな幸せはあるんだって知った。君はきっと……僕よりも前に、それを知っていたはずだ」
香梨の顔色が変わった。
「君はいつも、自分の判断を信じているね。きっと頭の中では、色んなことを考えてきたんだと思う。色んな判断、色んな思想、色んな覚悟が積み重なって、今の君が出来上がったんじゃないかな。香梨ちゃん、君のその信念を無理やり曲げようとは思わない。だから、君が自由に判断してくれて構わない。僕は――女装が趣味で、しかも実の姉に本気で恋をしてしまっている変態だけど」
風にあおられた髪のせいで、香梨の顔がまたよく見えなくなる。だが、微かに憂いを帯びている風だった。
「もう神の元には戻らないで。僕と一緒に、旋風塾へ帰ろう」
蒼矢が閃助の家を訪れてすぐ、彼は香梨が神の元信者であった事実を閃助に告げた。タマゴトーストを、ふんぞり返って椅子に座った蒼矢に運ぶ前であった。愕然として思わず皿を落としそうになったものだ。
閃助の記憶がない一ヶ月間、香梨は神の側近としてほぼ毎日のように神の下へ通っていたらしい。しかし、いつしか彼女は神の傍から離れた。蒼矢たちがそれを見抜いたのは、閃助がある夕方目覚めて町の異変に気付いた、約一週間前だ。気付いたのは蒼矢で、元々しょっちゅう生徒集めで町へ繰り出していた彼は、町で何度か彼女を見かけていた香梨の顔を随分前から知っていたのだ。ある日、香梨の首から信者の証であるペンダントがなくなっているのを、偶然蒼矢は見た。鷹の目を持つ蒼矢だからこそ確認出来たのだ。故に、蒼矢はしょっちゅう香梨に声をかけては塾の勧誘をしていた。
「私は確かに神を信じていた。突然の昼夜逆転生活も、地獄の一週間と呼ばれたあのふざけた争いがまた起こっても、あの人なら何とかしてくれるって思ってた。でもね、本当は心の奥でずっと、疑問があったの。本当にこれでいいのかって。それでいつしか気付いちゃったんだ、やっぱり私は人に縋って生きていくのには性に合わないって」
香梨は狂気的な笑みを浮かべた。かつて神に陶酔していた己を思い出して、嘲っているのだと閃助は思った。彼女が今まで、ペンダントをつけていなくても周囲から何の疑念も抱かれていなかったのは、皆が彼女の地位を知っていたからだったのだ。香梨は神の下を去ったあとも、ペンダントをつけていなかろうが神への信仰心は本物だ、神様も承諾して下さっていると、そのまっすぐな瞳で嘘を吐いていたのだという。
「だから、『裏切り者』って呼び名はまさに言い得て妙って訳」




