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1.「光の中に飛び込んだんだ」

「光の中に飛び込んだんだ」

 乾燥し切った喉からは、掠れた独り言ばかりが虚空に響く。

「誰かを助けるために。助けなきゃって思って、気がついたら身体が勝手に動いていた。誰を助けたかったんだろう」

 一ヶ月、誰とも会話しなかったにしては、今夜は舌がよく動く。いや、今となっては夜ではなく、日中と言うべきだろうか。

 夜の新緑町に、閃助センスケは立っていた。小学生低学年の頃にこの町に越してきて、早十年が経つ。駅前のバスターミナルは、十九時を回っているというのにバス待ちの行列が並んでいた。すぐそこのコンビニ前まで、蛇を模った人の列が伸びているせいで、コンビニに出入りする客が邪魔そうに列の間を潜っていく。スーツを着た社会人が、スカートの短い女子高生が、犬の散歩をする老人が、新緑駅西口を交差する中、閃助は部屋着を着たまま、ぼうっと立っていた。明らかに浮いた存在であった。

 七時。出勤時間、通学時間。ただし今となっては、夜の七時が町の活動開始時間だ。

「光の中に飛び込んで、やがて光が引いた。そうしたら」目を細め、町の人々を眺める。「町が変な感じなんだけど……」

 これから出勤、通学だというのに、人々の表情は晴れ晴れしく、誰もが軽快なステップでも踏み始めそうなムードで溢れていた。閃助以外の人間、全員が。一人ムードに馴染めない閃助は、彼らと同じ駅前に立っているのに、完全に蚊帳の外にいた。彼らと違って、自分は楽しくも何ともないのだから、当たり前だ。

「ここは何処?」空虚に呟く。病弱で、ここ一ヶ月体調が悪く、部屋に篭りっ切りだった閃助。ある晩目を覚ました途端、はっとした。熱にうかされたダルさも、呼吸をする度に肺がキュッと音を立てて縮んでしまいそうな苦しさも、一切合財消えていたのである。もうすぐ死ぬかもしれない、と昨晩まで思っていたのが嘘みたいだ。

 そうだ、と閃助は静かな混乱にもみくちゃにされた頭をゆっくり振る。記憶の沼に意識を突っ込んで、手探りに昨晩見た光景を思い出そうとした。そうだ、光が差し込んできたのだ。視界やら聴覚やら嗅覚やら、五感をも奪ってしまいそうなほど強烈な光と轟音が、窓の外から勢いよく貫いてきたのだった。原子爆弾でも落とされたか、と思ったほどだ。意外にもそんな風に思考回路だけは、一筋の電流が水面を這うように、ひっそり走っていた。

 そのとき閃助は、家の中にいたもう一人の人物を探していたはずだ。家族だろうか。わからない。随分久しい再会だったのは、覚えている。ショックで記憶が飛んでいるのだろうか。頭が割れそうなほど眩しい光の中の記憶から、ふと現実に意識が戻ってくると、閃助は知らず知らずのうちに頭を抱えていた。

「大丈夫ですか?」

 声をかけられ、ばっと顔を上げる。短髪で眼鏡をかけた、三十代ぐらいのサラリーマンが、心配そうに閃助を見下ろす。縋る思いで、「ここは何処ですか? 皆さん、どうしてそんなに楽しそうなんですか?」と尋ねた。自分を心配して、唯一顔を曇らせていたサラリーマンに、一種の親近感を抱いてしまったせいかもしれない。

「楽しそう?」とサラリーマンはきょとんとする。よかった、やっぱりこの人もみんなと違う、そう閃助が安堵しかけたのも束の間。

「楽しいに決まってるじゃないですか。それもこれも、すべて『神様』のおかげですよ」

 サリーマンはヒゲの剃り切れていない口元を吊り上げ、白い歯を見せる。爽やかな笑みだ。しかしそれどころではない、今この男、奇妙すぎる単語を。

「……は?」閃助はぽかんとする他なかった。神様。神様のおかげ? ますます困惑し、一歩後ずさる。男は学生時代にスポーツでもやっていたのだろうか、肩幅が広く腰も締まっていて、女性受けしそうな外見であった。ニコニコしながら、人目も憚らず両手を広げて、宣言する。

「昼と夜が逆転した日々が始まってから、一ヶ月が経った。混乱する僕たちを導いてくれた『神様』のおかげで、僕たちはこの生活に順応できているし、豊富なお金や食料だって、与えて下さったんだ。まあ、お金と食料は最初切りだったけどね、次にそれらを獲得するためには、神様の下す『命令』をこなさなければならない。命令を遂行しながら、僕らは普段通りの生活をしている訳さ。君も知っているだろう?」

 知らない。何だそれは、一週間前に何が起こったのだ。まさかあの強烈な光が町を包み込んでから一ヶ月で、町は変わってしまったのか。一ヶ月自分は何をしていたのだろうか、記憶がない。記憶がない。記憶がない。冷や汗が額を伝う。

「神様……って、誰ですか」どんどん胸の中で膨らんでいくシコリを、少しでも解消したくて、決死の思いで尋ねる。目を細めて笑う男が、睨んでいるような気がした。

「知らないの? もしかして、引きこもりか不登校だったの?」

 悪びれもなく聞き返してくるところが、タチが悪い。

「いえ、体調が優れなくて、家から出ていなかったんです」一ヶ月の記憶が飛んでいることは隠した。

「そうなの? 損したわねえ、じゃあ『神様』が私たちに何をして下さったのかも、知らないのかしら。何て不幸な子、彼の素晴らしき行いと宣言を目の当たりにしていないなんて」

 今度はコンビニのゴミ出しをしていた、コンビニ店員の中年の女性が近づいてくる。サラリーマン男と同様の、ニコニコ顔だ。作り物かと思うほどの満面の笑みで、しかしやはりそれは何の歪みも感じさせない、心からの笑顔なのだ。

 次から次へと何なのだ、と閃助は背中に悪寒が走ったのを感じた。結構です、と叫んで、急ぎ足で立ち去る。腕を掴まれて引き止められたらどうしようという一抹の不安も抱いたが、案外そんな輩はいなかった。

 ただ、周囲の怪訝そうな視線が痛い。後ろの方からひそひそ声も聞こえる。先ほどのサラリーマンと中年の女が、彼の後ろ姿に向かって何か話しているのだろう。妙な宗教集団の集会にでも紛れ込んでしまったのかもしれない、と閃助は駅の改札の前を通り過ぎ、東口へと出た。

 新緑駅周辺は都会とも田舎とも言い難い中途半端な発展を遂げていて、そこそこ店の揃っている駅ビルが、駅構内から連絡通路を通して繋がっている。外に出ればバスターミナルがあり、ちょうどその向かい側に大型百貨店や銀行の大きな建物がまず目に入る。他にも全国チェーンのドーナツ屋や、テラスつきのカフェが立ち並ぶ。バスターミナルの中心に丸いスペースがあり、桜の木が一本、植えられていた。春になれば、麗らかなピンク色に染まり、儚げに一人花を散らすのがお決まりであった。ちなみに冬は葉がすべて抜け落ちて丸坊主になる代わりに、クリスマス用のイルミネーションのコードを無駄に巻きつけられて、煌びやかになる。どちらにしろ、一本では物寂しい。桜は複数連なっている方が華があって(花にかけている訳ではない)綺麗なのにな、と越してきた当時は閃助も思ったものだ。

 風景や人の並み、建物も空も何も変わっていない。変わっているものといえば、夜が人々の活動時間になっていることと、自分以外の人間がおかしくなっていることだけだ。

 本当は、今日の昼間に一度目が覚めた。だがいつもは市内放送や子供の声で騒がしいはずの家の周りは、何の物音もせず、自宅の一階で両親が経営する美容室も、閑古鳥が鳴いている状態だった。それどころか下に降りると、店は閉まっていた。怪訝に思いながらも、昼間であるのに眠くて仕方なかった。そのときは眠気で身体も重く、体調が万全であることに気づかないまま、再び部屋で死んだように眠ったのだ。

 そして夕方に目が覚めたら、これである。

 それにしても、この意味不明な状況を確認する手立ては一切見つからなかった。町の人間に聞くにしたって、先ほどの例があるから怖すぎる。勘が鋭く、何事にも用心深い閃助は、たった一回不気味な雰囲気を味わっただけで、既にこの辺りはダメだと悟っていた。いや、駅前どころか、町全体がこの異様なムードに包まれていたらどうしよう――。不安が頭を過ぎった。何なのだ、今日は。確かにここは自分が住んでいた新緑町だ、一ヶ月外に出てなかったとはいえ間違うはずがない。

 閃助はこの一ヶ月、体調が優れなくてずっと部屋にこもっていた。その間、昼と夜が逆転している現象が起きた記憶などない。いつも通り、昼は町内放送や近所の子供たちの声が響き渡っていたし、夜は虫が鳴いて町中が静まり返っていた。閃助は一人、困惑の表情を浮かべて辺りをぐるりと見回した。足元が凍り付いていくのを感じていた。そんなつもりはないだろうが、周囲の人間の晴れやかな面持ちが「お前も仲間になれ」と威圧感を醸し出している気がして、はらはらする。一人は心細い。母親は「旅行に行っています」と書置きを残して外出してしまっているようだが、どうせまた彼女の信仰する宗教団体の教主の自宅に寝泊りしに行っているに決まっている。

 途方に暮れた。本来、体調がよくなれば学校に登校するのが普通だが、閃助は学校へ行くのが億劫で仕方がなかった。町全体がこんな不気味なムードなのだから、学校など行く気力が沸かないのは当たり前だ。また家に引きこもっていたいとさえ思った。

 まずは、誰か知っている人を探そう。そう思い、また駅前をぶらぶらしていると、クラスメイトの筋原キンバラに会った。

「閃助じゃん、久しぶり」筋原は驚きの混じった笑みを浮かべ、以前と同じように閃助に接してくれた。「具合はもういいのか?」

「うん、まあね」

「よくなったんなら、また学校来いよ。桐屋とか森林とか、ずっと心配してたんだぞ」

「ありがとう。もう少し落ち着いたら、行こうと思ってるよ」

 筋原は丸坊主で背が高く、体格がいいので、一見恐れられがちな外見をしている。だが、その正体はクラスのムードメーカー的存在で、大人しい閃助にも屈託なく話しかけてくるが故に、閃助も気を許している友人だ。彼のいつもの調子にそっと胸を撫で下ろし、閃助は勇気を出して質問をぶつける。

「ねえ筋原くん、今のこの町、何がどうなってるの?」

「何がどうなってるって」

「僕、具合が悪くて、しばらく外に出ていなかったから、何も知らないんだ。『神様』って誰だか知ってる?」

「ああ!」筋原は指を鳴らした。「神様ね。知ってるも何も、今この町を管理してる偉い人だぞ。しかもめっちゃすげえの。カリスマ的存在っつーの? でもまあ、ずっと部屋にこもってたんじゃ、知らないのも無理ないかもな」

 若干、恍惚とした表情に変わる筋原。愛想笑いをする閃助の背中に汗が伝う。

「その神様って人、一体何をしたの?」

「おいおい、そんな疑り深そうにしなくたって、別に胡散臭い人じゃねえから安心しろって。あの人はただ、昼と夜が逆転になったこの世界でパニクった俺たちをあっという間に諭し、新たな世界へ順応していこうって必死に導いてくれたお方だぞ」

 たった一ヶ月で?

「しかもな、神様は太っ腹も太っ腹、混乱した民衆に豊富な食料や金を与えたことで、町で一時繰り広げられていた混戦をも静めて下さった。資源とか金に釣られてる俺たちも俺たちだけどよ、でも結局、最終的に揉め事を解決するのに一番いい手は、やっぱそういうもんじゃね? そうして下さったことで、すぐに町には今まで通り、いや今まで以上の平和が訪れましたとさ」

 たった一ヶ月で?

「聞いてないよ」

「本当に外に出なかったんだな。まあ学校も休みがちだったお前じゃ、無理ないかも。授業のノート貸そうか? 落書きしかしてねえけど」

 だめだ、と閃助は一歩後ずさる。筋原は元々とラグビー部のムードメーカーだった。不真面目だが、曲がったことは誰よりも嫌いな、クラスの裏委員長とまで呼ばれた男だったのに。彼がこの有様では、自分の在籍する学校や学年にも、神様とやらに心酔している人間が多数いるのかもしれない。閃助はどうしたらいいのかわからなかった。みんなより外の世界を知らないと思っていた自分が、本当に外の世界で取り残されている。まったく意味不明で、不可解で、戦慄した。

「ごめん、もう行くから」

「行くって何処にだよ、余所余所しいな。トイレか?」

 筋原の唯一の短所と言えば、極端に鈍感な面である。それは変わらないらしい。

「学校来いよ、閃助。先生には俺が連絡しといてやるから。元気そうなのに、まさかサボろうなんて思っていねえだろうな」

「違うよ、僕は本当に具合が悪いんだ」嘘をつくと歯切れが悪くなるのが、閃助の悪い癖だ。単純そうな顔をして、人の悪いところは大体把握をしているのが、元々筋原の気味の悪い面ではあった。無論、閃助の嘘がそんな彼に通じるはずがなく、筋原は豪快に笑い、「顔が真っ赤な奴に、具合の悪い奴なんているかよ」と閃助の背中をばんっと叩く。

「体調悪いときってのは、大体、蒼白になるもんだろうが」

 年がら年中熱を出して、顔を紅潮させてばかりの閃助からしてみれば、意味のわからない理屈であった。







 仕方なしに、閃助は一旦家に戻り、制服に着替えた。

 ネクタイを締め、リュックを背負う。洗面台の鏡で、自身のターコイズブルーのおかっぱ頭を眺める。一ヶ月間自分の外見を気にしないで過ごしてきたが、髪がまったく伸びていないような気がした。ヒゲは数日前に剃ったばかりで、口元は少女の如く綺麗だ。元々中性的な顔立ちをしている閃助は、こうして男子高校生の制服を着ていないと女子に間違われることが昔から何度かあった。

「行ってきます」

 誰もいない家の中に、閃助の声が響いた。いつも通りの、寂れたアーケード街に足を踏み入れ、歩く。いや、星の瞬く夜に制服を着て登校する時点で、いつも通りなどとは言えないか――閃助は溜息をつく。

 「まほろば通り」と名づけられたそのアーケード通りには、まず道の入り口に色褪せた赤いアーチがあり、「まほろば通り」の六文字が明朝体で刻まれている。アスファルトの一本道の両脇には、様々な建物が所狭しと並んでいた。ここには年配女性向けのブティックやクリーニング屋など、年寄り世代から支持を受けて生き残っている古い店から、若い女性向けのファンシーな雑貨屋やオレンジジャム入りクロワッサンがおいしいと評判の新しいパン屋など、モダンでお洒落な建物まである。色とりどりだ。蛍光色も古びた色も混ざり合い、建物も高かったり低かったりで、学生の間では「でこぼこ通り」の名称の方が有名である。

 時刻は二十一時前、朝に換算すれば九時。大体の店がそろそろ開店時間だ。シャッターを開ける音が、四方八方で響く。騒がしい夜の幕開けの合図。

 その音すら、閃助は怖く感じた。誰かにも声をかけられたくない一心で、早歩きでまほろば通りを抜けた。終始、膝が笑っていた。

 やがて学校の校門を抜けた。夜の学校とは言え、やはり電気は煌々と全フロアについていて、普通に授業を行っているようだ。もう一限の授業が始まっているだろう。下駄箱に靴を入れて、ぱたんと閉めると、向かい側の下駄箱に半分空いていたのに気付いた。

 閃助の通う学校、私立九凪田高校は、今年で開校五十周年を迎えるそこそこ古い学校だが、私立の割にはどこぞのエリート進学校よりかは小さい学校であった。しかし最近では、生徒を集めるためか学校の設備をよりよく整える工事が頻繁に行われている。保健室をより広く改装したり、年寄りの教員のために校舎内にエレベーターを増やしたり、二年前には元々図書室だった部屋を理系クラスの実験室に改装したあと、校舎の脇に三階建て程度の小規模な図書館を建設した。だが、この、典型的な浅葱色の扉つき下駄箱だけは、何年かに一度塗装はし直しているだけで物品自体は創立以来換えていないらしい。

 閃助は、その向かいの下駄箱の隙間から、何かが見えているのを確認した。ローファーではない。鉛に油を塗ったような、妙なてかり方をしているそれは、何かの死体であった。ひっ、と閃助は短く悲鳴を上げる。何の死体かまでは、見に行ける勇気がない。向かいの下駄箱は、確か四組だったはずだ。閃助は一組で、隣には二組、三組と並んでおり、向かいが四組~六組という訳だ。

 収まりつつあった膝の震えが、再発した。典型的な下駄箱に、典型的ないじめとは。半ば呆れもしたが、自分にだっていつ降りかかるかわからない問題なのだ。病気がちでよく学校を休む閃助に対して、奇異の眼差しを注いでくる者は少なくないのだから。

 一限の途中から教室に入るのは気が引けて、休み時間まで昇降口前のベンチ前で時間を潰した。



「四組? ああ、湯原じゃねえの?」教室で筋原に訊ねてみると、あっけらかんと答えてくれた。「いじめられてたって話、聞いてたよ。ただ、この頃は、登校してねえみたいだけど」

 興味のなさそうな口調だ。そうなんだ、と閃助もなるべくノリを合わせる。あまり過剰な反応をしてしまえば、一人だけ『考えが違う』のだとみんなに察知されてしまう。

 閃助は教室を見渡し、そうか、と思った。この、異端と思われたくないという心情が、神様とやらに街中の人間がついていく真意なのかもしれない。だとしたら、今朝会ったサラリーマンやおばさんや、筋原だって、全員が全員本当に神様に陶酔している訳ではないのではないか。救いを求め、閃助はひたすら教室内を見渡す。

 至って変わりのない、一ヶ月前と同じ休み時間の風景だ。髪の毛をワックスで立たせた男子たちが、軟式テニス部からパクってきたのであろう軟球でキャッチボールをしている。窓側の席ではスカートの短い女子の集団が、互いのプリクラを見せ合って甲高い声で喋っている。廊下側の席の女子の塊は、少年漫画の週刊誌を広げて、漫画のキャラであろう名前を熱っぽく呼んで騒いでいる。森林委員長は相変わらず、たった十分の休み時間をフルに使って前の授業の復習をしているし、教卓の前の席では、二人の生徒が次の授業で提出予定だという宿題を見せ合っている。窓の外で、歪んだ弧を描いた三日月が、そ知らぬ顔して夜空に浮んでいた。

 学校を休みがちな閃助には基本宿題がない。そのことを咎めはしなかったが、よく口をすぼめて指摘してきたのは、神崎という友人だった。比較的クラス内では一緒に行動することの多い友人で、いつも彼に勉強を教えたり、時にはジュースを買って来いとパシりに使われたりしたが、別に閃助は気にしていなかった。閃助がコキ使われている光景を、不憫に思った女子の何人かが、神崎いい加減にしなよ閃助くん可哀相だよ、閃助くんは体が弱いんだよ、と強気になって庇ってくれたこともあったが、神崎は追い込まれると、決まって無言を貫いた。彼自身も、閃助の扱いに後ろめたい気持ちがあったのだろうか。

 だが、閃助は、違うだろうなと薄々感じていた。神崎はまず、閃助の存在を、友達として認識していなかったのだと思う。その理屈で考えれば、神崎には、クラスで友達と呼べる存在すら一人もいないのだろう。ただ閃助は神崎を友人として見ていた。

 本日の教室は、その神崎がいなかった。違うクラスにでも遊びに行ってるのかと思ったが、彼に他クラスの友人がいるかどうかさえ不明だし、閃助が登校してくると必ず真っ先にじゃれてくるのが神崎という人間であった。閃助にとって、それは喜ばしいことだった。だから神崎のいない教室を眺めていると、胸の中にギターのサウンドホールのような真っ黒な穴がぽっかり空いた風な空虚感に包まれた。

 ぼんやり室内を眺めていて、今更気づいたものがある。教室にいる全員の大半に、シルバーの十字架のネックレスが下がっていたのだ。はっとして筋原の方へ振り向くと、既に他の友人と談笑していた彼のうなじにも、シルバーのチェーンが巻きついている。恐らく、十字架はシャツの下に仕舞いこんでいたのだろう。生徒の間で流行っているアクセサリーだろうか? 思わず、首をすぼめ、シャツの襟を上に引っ張り上げた。自分だけペンダントをつけていないのがバレたら、面倒な事態になると、咄嗟に勘付いたためだ。

 嫌な予感が頭の中に渦巻く。閃助が喉を鳴らしたのと同時に、二限始業のチャイムが鳴り響いた。日本史の教員が入ってきても、神崎は戻ってこなかった。

「お前、久しぶりだな。風邪にしては随分長く休んでたみたいじゃないか。もう大丈夫なのか?」日本史の木更津先生は、まだ二十代後半と若く、茶髪の天然パーマという風貌から一見軽薄そうな印象を与えるが、教え方は上手く、ノリがいい。また、色白で顔立ちも端正であるため、生徒から人気者なのも十分頷ける。ただし日本史以外の科目はとんと疎く、俺は同じ社会科目の世界史や政治・経済の問題さえロクに解けないんだと何故か自慢げに豪語していたこともあった。

「かなりの授業回数分置いてけぼりにされてるお前には、ちと大変かもしれないぞ。何て言ったって日本史オタクの俺の授業だからな、のらりくらりと授業と関係ない無駄話を交えてくる先生どもとは訳が違う。いいか、ハイスピードでいくぞ。今日からみんなのボルテージも最高潮の、明治時代の勉強だ」

「あ、はい」一ヶ月前に、(本人曰く)楊貴妃そっくりの美人のガールフレンドにフラれた話で授業の半分を使い果たした教師が言える台詞ではない、と思った。

 出席を取り終えると、木更津は彼のチャームポイントとも言える八重歯を見せ、得意げに笑う。本当に授業を楽しんでいるようだ。

「いいか、明治時代はとにかく時代の移り変わりが速い。教科書をざっと見てみろ、江戸時代以降、条約改正や憲法制定、政府への反乱とか民権運動なんかが繰り返し起こるんだよ。幕府がなくなったって、時代の波はうねりにうねって変遷する。何故だと思う? 総理大臣がな、ころころ変わるんだよ。今の時代と同じでな。明治だけで初代の伊藤博文から始まり、十四代目の西園寺公望まで覚えなくちゃいけない。すげえだろ。まあ、人数自体は臨代含め八人しかいないんだが、歴史の流れを把握していく上で重要なのは人数なんかじゃない、それこそ『流れ』を覚えるんだ。何年に誰が何をしたか、何年に誰々が第二次内閣を形成したか。時間を追うんだよ」

 鼻の穴を広げて、木更津先生は拳を固める。確かに、勢いのある話し方をする先生だけあって、彼の話は何故だかすいすい頭に吸収されていく。しかし、今日はどうも、閃助の吸収率が悪い。

「あとは文明や産業の開化もこの頃はさかんでな、当時の明治国家のスローガンで『富国強兵』『殖産興業』『文明開化』の三つが唱えられていたんだな。福沢諭吉の『学問のすすめ』とか、知ってるだろ。まあこの当たりは追々授業でやるとして、今日は教科書の二百三十四ページ、戊辰戦争から始めていくぞ」

 出席を取る際、木更津は神崎の名を呼ばなかった。ごく自然に、最初からいない存在のように、神崎の名が響かない一組の教室に、悪寒が走った。

 そして、木更津の首筋から微かに見え隠れしていた、シルバーチェーン。一ヶ月前には、木更津はアクセサリーなんて身につけていなかったはずだ。教師である彼まで、同じ十字架のペンダントをつけているのだとしたら。

 もしかしたら、ここも――安息の地からは程遠い不気味な空間なのでは。冷や汗で、背中にシャツが張り付く。身体が火照る。

「なあ、やっぱ風邪引いてんのか? 無理すんなよー」後ろの席の筋原に肩を揺さぶられる。触らないでくれ、喋りかけないでくれ、と無言のまま絶叫した。



 本格的に空気が淀み始めたのは、三限からだ。あれは、自分以外の全員にとっては、宙に身体が浮いてしまいそうなほど爽快なムードだったかもしれない。

 三限は現代文だった。現代文は紺野先生という、五十代の厳つい男性教師が担当してくれる。自他共に厳しい物の見方を持つ反面、情には熱く、涙もろいギャップがある、閃助にとってはそこそこ好感を持っていた教師であった。

 梶井基次郎の『檸檬』を読み解く授業の続きらしかった。勿論、閃助にとって『檸檬』は初めて授業で取り扱う作品だ。前回受けた授業からページ数を数えてみると、一ヶ月で授業は進みすぎていた。紺野先生ってこんなに早く授業進める人だったっけ、と閃助は首を捻る。

 紺野は教室の壁を微かに震撼させる低い声で、重々と解説をした。

「いなかった閃助のためにも、あらすじを振り返ってみよう。冒頭部分から、得体の知れない憂鬱感に苛まされていた主人公――この主人公は梶井基次郎本人ではないかと言われている説もあるが――とにかく主人公の『わたし』は、無気力で落ちぶれた心境に陥りながらも、京都の街を彩る美しいものに触れていくうちに、果物屋の檸檬に目をつけた。本文の比喩表現を借りれば、『レモンエロウの絵の具をチューブから搾り出して固めたような単純な色』と、『丈の詰まった紡錘形の格好』に魅了されたんだ。それから『わたし』の憂鬱は不思議と解消されていき、元気が湧き出てきた。さて、今日はここから物語の最後まで一気に読み解いていこうと思うんだが……」

 にっ、と紺野が微笑む。「何だか、似ている気がしないか? この『わたし』の心境と、我々が神様に出会えた際に感じた喜びが」

 空気が豹変した。見えない熱気が床からぼっと音を立てて沸き起こった。今日一日で何度この感覚を味わっただろう。閃助だけが、一気に足元から泥沼に引きずり込まれた感覚に襲われているのに、誰も気づかない。

「唯一違うところと言えば、我々には、おはじきや南京玉、色鮮やかな果物など我々の目を潤わせる景観が、神様が現れる前はなかった、ということだ」

 何だそれは、と頭を抱えそうになる。

「たった一つの檸檬をかけて、争いも起こった。争いの絶えなかった一週間だったな。みんな――つらかっただろう。勿論、私も、危うく殺されかけながらも僅かな食べ物を食い繋ぐのに必死だった。街中を光が包み込んだ、『光溢れた日』を迎えて以降、帰ったら、家に空き巣が入って食料や生活必需品が数多く奪われていたんだ」

 光、と聞いて閃助は、はっとする。やはりあの街中を貫いた光は、現実だったのだ。では、その争いの絶えなかった一週間とは? そんな状況は知らない。

 そのとき、閃助は今朝会ったサラリーマンの話を思い出した。確か最初だけ、町の人々は資金や食料を神様に与えられた、と言っていたはずだ。そうではなく、昼と夜が逆転した新緑町で最初に起こったのは狂気の争いだと、紺野は今言った。クラスメートたちの反応を見る限り、恐らく真実と見なしていいだろう。勿論、まだ閃助には完全に信じ切れない話ではあるが。

 クラスの一人の女子が、わっと泣き出した。苦悩に顔を歪める生徒もいる。恐らく自分以外のみんなが、何らかの事情で苦痛な生活を強いられたのだ。たった数日間とは言え、全員の顔が曇るほど過酷だったのは窺える。だが、顔面蒼白だったのは、閃助だけだ。

「全部、神様のおかげですね」縁なし眼鏡の委員長、森林が、ぼそりと呟く。瞬間、教室が躍動した。先ほどの沈鬱な雰囲気が百八十度激変し、生徒たちが全員笑顔をたたえ、立ち上がって拳を上へ掲げる者さえいた。涙を零して喜びの言葉を洩らす女子もいる。

「神様が現れてから、我々の生活は変わった。食料を豊富に提供し、貧しい家には多額の生活費を振り込み、何よりあの方のお声を聞くだけで、みんなが不思議と静穏になれるんだ。あの方の存在一つで、幸福な気持ちになれる」

 ここでサラリーマンの話が繋がった、と閃助は思った。

「私、神様の性別が男性だったら、絶対好きになってたかもしれません」前の席の、風紀委員の女子が、頬に手を添えてうっとりする。

「うそ、女の子だったとしても、あんた絶対惚れてるでしょ。ていうか、もう惚れてんじゃない?」彼女の後ろの席の、チア部の女子が笑いながら茶化す。

「本当に嬉しいです、俺も。うちは貧乏で、大学進学も諦めていたのに、神様の学費提供のおかげで勉強が出来るようになったんだ」美術部の引っ込み思案な男子さえ、珍しく饒舌だ。

 生徒たちの恍惚とした表情と賞賛の声が狭い室内に溢れ、溢れ返りそうで、閃助は口端から吐しゃ物が飛び出そうだった。

「私も安心だ。私自身、救われたのも勿論だが、君たちの満面の笑みをまた再び見れるなんて」

 紺野お得意の、お涙頂戴が発揮されている。無地のハンカチで目元を拭う紺野は、いつものどっしり構える厳格さは何処へやら、完全に咽び泣くでかいおっさんと成り果てていた。

 逃げたい。閃助は発狂寸前であった。どうしよう、どうしよう、と全身の震えが抑えられない。後ろの筋原まで「いえーい、神様最高!」と歓喜しているものだから、背中から後頭部までが奇妙な麻痺状態に陥っている。心と、胃が、速くここから立ち去れと警報を鳴らしている。鳴り止まない。しかし、泥沼に浸かって固まってしまった足が、動かない。そんな彼を引っ張り上げたのは、

「そうだそうだ! みんな、閃助の奴さ、一ヶ月病気で家から出られなかったらしくて、神様の存在を知らないんだとよ!」

 筋原であった。ごつごつした彼の両手が、閃助の肩を掴み、宙に上げる。勢いに乗ってよろよろと腰を上げてしまった閃助に、クラス中の閃助を除いた三十六人の視線が一斉に集まる。彼らの見開かれた瞳が、果たして驚愕から来るものか、それとも軽蔑か、新たな勧誘対象を見つけた獲物の目なのか、閃助には検討がつかない。とにかく無性に怖かった。半開きになった口の中に、生ぬるい汗が入り込む。

「閃助くん、神様知らないって本当?」

 図書委員で、女子の中では割かし話が出来る間壁が、苦笑いしながら尋ねてくる。もう逃げられない。小さくと頷くと、今度は「まじで! 勿体ねー! まあお前だからしょうがないかもしんねえけど、一か月分の人生、損してるぜお前!」と、夏川という男子生徒が、楽しそうに指さしてくる。

「ねえねえ閃助くん、神様ってすごいのよ。何でも知ってて、何でも出来ちゃうの。例えばね」

「い、いや、大体のことはもう聞いてるから」

「テレビも雑誌も見てなかったのか? どんだけ病気しんどかったんだよ」

「でも閃助がこうして元気になれたのも、神様の力のおかげだったりして」

「そうだよ! お前も神様に感謝すべきだ」

「毎週日曜日に、駅前で神様の講演会をやってるんだよ。姿はカーテンに仕切られてて見えないんだけど、生神様だぜ。今度連れてってやるよ」

「え、あの、僕は……」

「神様についていかなければ、この街は終わるぞ」紺野の、怒号にも似た低い声で、教室内が途端に静まる。「まあ、人間を超越している力と、懐のでかさをお持ちだからこそ、神様と呼ばれているのだがな。あの方の思想を信じれば、我々はもうあんなつらい思いをしなくて済むのだ」

 じゃあ、信じなければ、どうなるというのですか。結局閃助は、最大の質問を口にせず、興奮するクラスメートの誘い文句に適当な相槌を打つのに必死だった。もう、学校も、侵食して狂っている。昼休み、彼は食事も取らず、一人トイレにこもり胃液を吐き出し続けた。

 だが、一つだけ、引っかかる。先ほど三限の現代文で、紺野の一言が引き金となり起こった熱狂状態。あのときに一人だけ熱狂の輪に加わらず、途中で閃助から目を逸らし、夜空を眺めていた少女がいた気がする。名前は何だっけ。友達の少ない、大人しい子だったはずだ。ああ、今は学校の誰の顔も思い出したくない。

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