八 とけて
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美護の都に雨が降る。実緒は褥に横たわり、雨音を聞き流している。遠く、くぐもっているようだった。
じきに夜明けの時分だろう。いつもどおりに目が覚めた。けれども雨でうす暗く、空気は湿り、沈んでいる。板敷はすこしくもって濡れて、御簾の影だけぼんやり映す。御簾はどこかしら頼りなく、ふうわりと裾をゆらがせている。
寝汗で背中が蒸れており、身体じゅうひどく重くけだるい。水底に張りついている気分。ぼうと板敷を眺める実緒は、ふいに、かすかな衣ずれを聞いた。絹地の低い几帳の向こう、ひとの起きあがる気配がしている。ひとり寝ているわけにもいかず、実緒も這いずるように身を起こす。こめかみの奥が鈍く痛んで、頭から倒れこみそうになる。
「早すぎます」
几帳ごしの声。それは瓊音のものだった。起きたばかりのはずなのに、ずいぶんくっきりとして聞こえる。実緒はすっかり慌ててしまい、褥の上にかしこまった。
「はい、もうしわけございません」
「いえ、早すぎると申したのです」
意味を飲みこめず目をしばたくと、まばたきまでが頭に響く。思わず額を押さえたときに、肩にかかっていた厚い衾が、するっと滑って落ちてしまった。ぞくりと、寒気に襲われる。
「あなたは、起きてはなりません。まだお休みになっていなければ」
瓊音は、淡々と実緒に言う。
「さらにわるくなってしまいます。まだご気分がすぐれないでしょう。すこしようすを見たいので、そちらへ行ってかまいませんか」
返事を、待っているのがわかる。でもこたえかたがわからない。重たい頭がぐるぐるしてきて、そのとき、ふいに物音がした。だれかのしとやかな足音だ。渡殿を通り近づいてくる。
「いま、邸の者が参ります」
瓊音がさらりとそう言った。実緒の横を通りすぎ、御簾をあげると外へ出ていく。まばゆいような浄衣から、白藍の小袖に替えていた。髪は束ねたままながら、すこしゆるんだようにも見える。きのうは朦朧としていたせいで、そんなこともよくわからなかった。幾年かぶりに体調を崩した。やたらと高い熱が出ていた。
夜、すぐそばにある瓊音の瞳が、ひどくきれいで見つめたかった。身を任せたくて目を閉じたとき、ぷつっと、意識が途切れてしまった。そして、つぎに気がついたときには、身体じゅうが囚われていた。板敷に沈みそうにだるくて、まともに口もきけなくて、それからとても寒かった。いまはましになっているけれど、まだ治ってはいないらしい。もうすぐ暑い時季が来るのに、身体じゅう鳥肌が立っている。
ふよふよしたり重かったりしたのは、たぶん熱を出す前ぶれだった。実緒はそろりと手を伸ばし、落とした衾を引き寄せた。ちゃんと力が入らない。
「あなたは、なにをしているのですか」
声にゆるゆると顔をあげると、瓊音に見おろされていた。瓊音は実緒のそばにかがんで、早く横になってくださいと言う。実緒を前から衾で包み、そっと褥に横たえた。そして褥を整えながら、実緒の目をのぞきこんでつぶやく。
「まだ、かなり熱があります。すこしは引いているようですが」
さら、と頬を撫で落ちた髪を、無造作に耳にかけている。実緒は返事をするのも忘れて、ぼうと瓊音にみとれていた。でもそのすがたはだんだんと、にじんで、見えづらくなっていく。はずむ雨音も遠ざかり、近くなってはまた遠くなる。
「いま参ったのは比佐という者です。長くこの邸にいる者で、留守を預けているのです」
ここへ入ってきたときは、だれもいないようだったけど。実緒は、ぼんやりと思い出す。濡れた衣を着替えさせたり、支えて薬を飲ませたり、世話をしてくれたひとがいたのだ。おかげで、すこし楽になったのだ。瓊音だけでなく、そのひとにも、たくさんの手間をかけている。
「その者が水などを持ってまいりました」
瓊音にこたえようと思うのに、喉から声が出てこない。頭の中がもったりとして、雨の音がもう聞こえなかった。瓊音の声だけ耳にとどいた。ひんやりと澄んだ清水のように、すうと染みこんでくる声音。聞きつつ、意識がとけていく。寝るのは、いやだ、いやだと思う。もうだれの手も煩わせたくない。抗おうとしたその一瞬に、額がひやりと撫でられる。
「お休みになってかまいません────」
泣きたくなるほど、ここちよかった。実緒は、そのままとけおちた。




