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瓊音のつまごひ  作者: 相宮祐紀
(一) 神言の夜
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六   手足に





**** ****





 実緒みおは天馬の背にのって、美護(みもり)の都の一角にある若者のやしきに着いてしまった。あっという間のことだった。都は雨降りではなかった。

 都に来たことはなかったけれど、空から見ようとは思わなかった。きっと、おそろしいからだ。小袿こうちきの中に顔を引っこめ、実緒はなるべくじっとしていた。そのうち、いつの間にか天馬は、ずいぶん地面に近づいていた。やがて、すんなりやわらかく、邸の庭に降り立った。古びた築地ついじに囲われており、広くひっそりした場所だった。奥には、どこかさびしげな、白木造りの殿舎が見えた。

 若者が手を貸してくれるので、つい頼りながら馬をおりると、とてもおかしな感じがした。おなかの中で、ふよふよと、臓腑が浮かぶようなのだった。身体にうまく力が入らず、まっすぐ立っていられない。若者がすぐそれに気づいて、ふわっと実緒を横抱きにした。まぼろしを漂う気でいるうちに、天馬のすがたは消えていた。

 実緒を抱えた若者は、殿舎へ向かって歩いていった。その前に、夜の濃藍こいあいを映す大きな池が広がっていた。丸くて平らなかたちの岩が、ぽつりぽつりと置かれてあって、若者はその岩を頼りに池の向こう岸へ渡った。

 そうしてたどり着いた主殿の、きざはしの下でくつを蹴り捨て、静かな音で素早くのぼる。蔀戸しとみどはあがったままであり、のぞく母屋おもやはうす暗い。ふよふよしていた実緒は突然、いま裸足だと思い出す。泥までこびりついているので、これでは邸をよごしてしまう。

「あの、もうしわけありません、泥を……」

「かまいません」

 若者はすぐにこたえた。そっけないのともすこしちがった、凪いだ声音で言われると、実緒には黙ることしかできない。若者は(しとみ)御簾みすをくぐって、実緒を主殿に入れてしまった。

 よく磨かれてすべらかな、板敷の間が広がっている。調度は几帳きちょうと屏風くらいで、楚々と整えられている。じろじろ見るのもはばかられ、実緒は前方に目を向けた。若者はさらに奥へと進み、渡殿わたどのを過ぎ対屋たいのやへ入る。その御簾の内、几帳の向こう、厚い畳が据えられている。しとねがきちんと敷かれたそこへ、実緒はやんわりおろされた。

 急いでうしろに手をついて、よごれたままの足を浮かせる。頭にかぶった小袿を剥ぎ、足はその上に置くことにする。視線を感じて顔をあげると、若者が立ったままで見ていた。いたたまれなくて顔をそらすと、高灯台と文机ふづくえが見えた。そのとなりには棚が置かれて、冊子そうしや、巻物がきっちりと、ていねいに収められている。金の蒔絵まきえのきらめく櫛笥くしげや、鏡箱かがみばこも備えられていた。このひとは、ここで過ごしているのか。入ってもよかったのだろうか。

「あの……」

「こちらでお待ちください」

 若者のほうが早かった。衣架いかから衣を一枚取って、実緒に引きかけて出ていった。しばらく、実緒は茫然とした。ふわふわ浮かんだような感じは、いまだ治まっていなかった。湿りけのある袴や髪が、しっとりと感じられており、かけてもらった乾いた衣は、実緒にはすこし重かった。あそこで、障気しょうきとふれあって、おしまいのはずだったのに。天馬にのって、邸まで来た。来て、しまった。入ってしまった。ついてきたのだ。あさましい──

 おぼえず衣の裾を握って、実緒はあたりを見回した。吸いこまれそうなほどに静かで、ほかのひとのいる気配はしない。あのひとは、ここにひとりだろうか。庭も、通ってきたどの場所も、手入れが行きとどいていたけれど。そのためなのか、静けさも暗さも、おそろしいものでないけれど。あまり、きょろきょろしてもいけない。実緒は白い小袿で、足裏の泥を拭いはじめた。ここで待っていろと言われたし、ひとの邸をうろつけない。けれど、ぼうっとし続けるのも、だめだ。

「よごれてしまいます」

 ふいに、声をかけられた。突然のことだったとしても、ひとをびくりとさせない声だ。つい手を止めて、顔をあげると、手燭を持った若者がいた。小さな炎の色に包まれ、その立ちすがたはひかって見える。実緒はおぼえず、目を細めていた。

「ただいま湯を沸かしております。拭くものをお持ちいたします」

 若者は淡々と言いながら、高灯台に明かりを移す。なんだかほっとしてしまいつつ、実緒は焦って、慌ててもいた。明かりに照らされる若者が、自身をかえりみていないから。太刀は置いてきたようだけれども、真白い浄衣じょうえはそのままなのだ。なにもかぶっていなかったので、たくさん雨を吸っているはず。着替えていると思っていたのに。実緒は、口をはくはくとさせ、やっとの思いで声を発した。

「あの、どうか、あなたさまの、お身体おいたわりください、雨に降られておいでです……」

「たいして降られておりません。わたしがしたくてしていることです。どうぞいますこしお待ちください」

 そんな言葉と手燭を残し、若者はまた出ていった。実緒はそれ以上どうもできずに、とにかく手足についている土を拭っておこうと決意した。ごしごしと小袿でこすっていると、やがて若者はもどってきた。ほかほかと湯気を立ちのぼらせる、大きなたらいを抱えている。

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