五 毛並み
では、と若者は即座に言った。
「まいりましょう。お立ちになれますか」
問われて、実緒はまたうなずいた。そのあと、立てそうにないと気づいた。なんだかひどく重たくて、うまく身体が動かない。雨水が染みているだろうかと、思わず小さく笑ってしまう。そのとき、若者の静かなおもてが、かすかにゆがんだように感じた。指先を紙で切ったみたいに。それはすぐさま掻き消えて、若者はつと上を向く。
「御統」
なんだろうかと思い、実緒も仰向けのまま空を見た。雨の降り注いでくるようすが、つぶさにわかってなんだかふしぎ。なにかを呼んだように聞こえた。ふんわりとそう思っていると、空をなにかが横切った。そして真上に影が差し、それがそのまま舞い降りてくる。
「え……」
実緒は、目をしばたいた。すとんと、かろやかに地に降りたのは、白くて立派な馬だった。雨粒をはじきひかって見えて、秘密のようにうるわしい。だから、と言うべきなのか。この馬は空からやってきた。馬は空飛ぶものではないはず。そして翼があるのでもない。
「こちら、神使の御統です」
若者は表情も変えないけれど、実緒はひたすら呆然として、その馬を眺めることしかできない。馬は、すこし首をかしげて、実緒のほうに顔を向けている。その目がふかく、あかい色だと、ふと気がついたときだった。若者が実緒に言い放つ。
「では、失礼いたします」
なにが、と思うひまもなく、半身を抱え起こされる。ふわりと身体が持ちあがり、気がつけば馬の背の上にいた。すごい早業に実緒は固まり、同時に、きゅっと締めつけられる。父に抱きあげてもらったころが、おぼろげに思い起こされて。でも。
「あ、あの、これは」
実緒は急いで声をあげた。馬は動じていないけれども、こんなにきれいな背に乗るなんて、あまりにもおそれおおかった。馬具もついていないから、なめらかにひかる白い毛並みに、身体がじかにふれている。
「あの、でもこれは、いけないと……」
ほとんど意味をなさないことをもごもごと口にする実緒に、若者は淡白に返した。
「いいえ。これが早いのです」
少々お待ちくださいと言いつけ、若者は馬から離れていく。実緒はどうしてよいかわからず、息を詰めながらじっと固まる。ほどなくもどってきた若者は、白い小袿を持っていた。さきほど実緒が脱ぎ捨てたものだ。泥をほとんど払ってあるそれを、若者は実緒の頭にかぶせた。
すると、雨の音と冷たさが、ふわりと遠くなってやわらぐ。それなのにお礼も言えずにいると、小袿を透かし声が聞こえた。
「美護に邸がございますので、これよりお連れいたします。うしろへ乗らせていただきます」
一本調子にそう言われ、実緒は思わずうなずいた。横向きに座る実緒のうしろに、若者は慣れたようすでまたがる。その手がすいと伸ばされて、馬の首筋を静かに撫でた。実緒は身体を縮こまらせた。
「はじめはすこしゆれますが、どうかお楽になさってください。もしご気分がすぐれなければ、こらえずすぐに教えてください」
若者の声が頭に降って、そのとき、実緒はようやく気づく。このひとはなにもかぶっておらず、ずっと雨垂れを浴びている。
「あのっ……」
「これより動きます。あまり下を見ないほうがよいかと」
若者が低くつぶやいて、とたんに馬が駆けだした。ぐらりと、身体がうしろへかしぎ、若者の胸に受けとめられる。確かにふれたところはやはり、ひんやりとして、こわばっている。実緒はもうなにも言えなくなった。
馬は、はずんだ足どりで、空へと駆けあがっていく。宙に足場でもあるようだけれど、若者の言ったとおりにゆれる。実緒はその冷えた身体から、離れることができなかった。




