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瓊音のつまごひ  作者: 相宮祐紀
(五) 瓊玉の音
38/40

三十八 もゆら

 




**** ****





 鏡の水面みなもは、明け空を映す。うすらぐ闇に、たなびく東雲しののめ、凛ときよらかな空気の中に、朝日の兆しが染みわたる。ふいにすずやかな風が吹き抜け、小さく波立つ池のほとりに。浄衣じょうえをまとい、太刀を携え、瓊音ぬなとは静かに立っていた。

 やしきの庭に横たわる池。奥の底には、障気しょうきがある。ここが障気邸というのは、じつはあながちまちがいではない。障気は確かに溜まっている。いまだあふれることがなく、底に沈んでいるだけだ。日に日にそばで舞っているため、落ち着いているところもあった。動きだすことは考えにくく、鎮めよと命じられることもないので、長いあいだそのままだった。ゆっくり、徐々に、増えていた。

 じつはそうだと打ち明けたとき、ほほえんでそっとうなずいた実緒みおは、いまも、すぐそばにいる。

 きょうで、実緒に会った夜から、ちょうど三月みつきが経つことになる。約した時に至ったので、こうして約したことを守った。障気のところへ連れてきた。手を引いてちゃんと連れてきたから、これで、もうじゅうぶんだろう。このあとどうするのかについては、なにも約してはいないのだから。

 ずいぶん勝手な真似をする。わかっていても、ねがってしまう。そばで見ているように頼むと、実緒はせつなげに瞳をゆらした。さらさらと降る澄んだひかりが、その頬を伝いおちていく。


 この玉垣たまがきしまを守護する、瓊音の大神おおかみ共鳴ともなりの神だ。ふれあって、音が鳴ることがすき。音は、ふれあわなければ鳴らない。ふれあわなければ、はじまらない。それは、生きることでもあって、そして、生かすことでもあった。けれども、ひどく難しいこと。たやすく遠ざかってしまって、手を伸ばすことも難しくなる。遠ざけてしまうときもある。

 瓊音は、いままでいちどたりとも、力を使いこなせたことがなかった。大神の力を、おのれの身体で受けとめきれたことがなかった。その理由はよくわかっていた。ふれようとしていなかったから。わかっていても、わからなかった。どうすればよいか、わからなかった。太刀の柄にふれ、そっと握った。


 ────もゆら


 呼ばわり、抜き放つ。見慣れたやいばが現れる。その白銀はくぎんが、鍔のほうから、日を受けるように色づいていく。染められていく。生血なまちの色に。色は白刃しらはの内をたゆたい、切っ先へのぼり、こぼれておちる。まどかな、ちいさな、あかいろのたま。つぎからつぎに生みおとされる。すべて目に見えぬ緒につなげられ、刃のまわりを回り渦巻く。実のなる枝を捧げ持つよう。ゆらめきふれあい、鳴っている。とどろく胸に空気をおくり、瓊音は舞を、ことばを鳴らす。


 けまくもかしこ

 瓊音ぬなと玲瓏もゆらの大御神おほみかみ

 よろづのさはりの八百会やほあひに

 とが禍事まがごとのあらじものをと

 もゆらもゆらにたま

 垣内かきうちみながらたひらけくやすらけく

 まもたまさきはたまへと

 かしこかしこみもまを


 ふれられなかったものたちが、せめておだやかに鎮まるように。ねがいながら、(うた)い舞う。幾度も、幾度も繰り返す。

 音に水面みなもがふるふるとゆれ、あかい波紋が広がっていく。池の隅まで染みわたり、水はすきとおる血のなみだとも、おおらかにゆらり、ゆらりゆらいで、やがては音を醸しはじめる。耳を、こころを傾け聞けば、それは共鳴りの音だった。

 はかなく、やさしくおだやかな。あざやかに澱み濁りきよらな。睫毛のほのかなまたたきよりも、なみだのひそかなきらめきよりも、近くて遠くてふれたくおもう、心音にも似た音だった。確かに高鳴るその音を、ともに、聞いているとわかった。残らず拾おうとしていると、それをおもうと、あたたかかった。ひどく重たく、あたたかいのだ。ここちよくて、くるしくて、ふかくかなしみがこみあげてくる。それでもやはり、あたたかく、きっといつまでも、舞っていられる。ずっとどこまでも詞がとどく。

 やがて、天からひかりが降りる。音色は、消えゆく。しずまってゆく。

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