三十七 三月が
とたんに、広い背中が固まる。息が、胸の奥につかえて、そのまま止まる。きっと互いに。それでも、離れることができずに、実緒は瓊音を掻き抱く。全身で力いっぱい、ふれる。
とても、冷えている。こわばっている。首筋に頬を押しつけるとき、ぴくりと肩が小さく跳ねる。感じてくれているのだろうか。いま、伝わっているのだろうか。熱も、息も、ふるえもゆらぎもぜんぶ伝わってしまえばいいのに。ぜんぶ、ふれてくれればいいのに、このまま、ふれていられたら。このまま生きていられたら。
だれも、だめなんて言っていない。勝手にだめだと思っているだけ。でも思わずにはいられない。だいじにしてくれるひとがいるのに。案じてくれるひとがいるのに。笑いかけて、気づかって、包んで照らしてくれるひとたちが。慈しみ、守ってくれたひとたちが。笑顔をのこしてくれたひと、無事でよかったと笑ったひとが。そして、生きていて、ふれてほしいと。くるしみをこらえるように、伝えてくれるひとさえ、ここに。
だから、ずっとねがっていた。生きていたいとねがっていた。生きていたい。生きていたい。生きて、もういちどしあわせになりたい。ふれないようにしていたねがいは、ずっと、障気を生んでいたはず。
奥底へ沈み、浮いては沈む。熱い、海原に溺れるここちで、実緒は瓊音を抱いていた。濡れたままの髪に指を通すと、その首筋に唇でふれた。空気を求めているようだった。ああ、生きて、いてほしい。
わたしだって、生きていてほしい。あなたに生きていてほしい。勝手でも、奥底からねがう。しあわせであってほしいのだ。なによりうつくしいあなたには。とうとく、かなしいあなたには。生きていてほしい。ふれさせてほしい。ふれてほしい、はなさないでほしい。はなしたくないふれていたい。
そんなねがいが、あふれた中で、かすかな声に呼びかけられる。紅の袖のめくれた腕を、青白い絹が静かに滑り、気づけば、すぐ目の前にある。ふかい艶黒のゆらめきがある。一瞬にしてひきつけられて、さらに内側へひきよせられる。
どく、どく、と音を感じて、実緒はおぼえず目を閉じていた。ふたつの音がふれあっていた。高鳴っていた。聞いていた。ずっといつまでも、聞いていられる、いつまでもずっと、聞いていたい。ゆるされるのならそうしていたい。ゆるせるのなら、ずっとこのまま。このまま、いまは、いまだけは。
水面をたゆたう泡のここち。たまゆらのときが消える気がして、背中に腕を回せない。動けばはじけてしまいそう、そんなときふと、ささやきが降る。くるしい。瓊音が、そう言った。ぎょっとして実緒は顔をあげかけ、やわい手つきに止められる。くるしい。瓊音はもういちど言う。
「こんなに、なるのは、ひさしぶりです。すこし、くるしいものですね」
「え──」
「でも、ここちよいのです。とても、あたたかくて、あなたのせいだ」
あなたのせいだ。
あなたのせい。
こんなにもゆれてなってくるしい。
「もゆら、もゆらに、鳴し給ひ……」
かすかにふるえた小さな声で、ひとりごつように瓊音は唱う。もゆら、もゆらですねとうたう。実緒は、その背に腕を回した。はじけることも、消えることもない、胸に身体をそっと預けた。もゆら、もゆらと、いうのは、それは。
「それは、古い言葉でしたね……?」
「はい。これは、うつくしいたまが、ふれあって鳴る音のことです。そのような意味の、古言です」
詞の続きのような調子に、実緒は笑みを誘われた。うつくしいたまの、ふれあい鳴る音。もゆら、もゆら。とうとい響き。かなしいつらなり。もゆら、もゆら。われ知らず繰り返していると、瓊音がふっと息をこぼした。なんだか、笑ったように聞こえた。実緒は瓊音の衣をなぞり、その輪郭をゆるくたどった。
「やはり、あなたさまと、おなじです」
「はい──」
「あなたさまの、そのおなまえは、ふれあって鳴る音の意味ですから……」
瓊のふれあい鳴る音だ。うつくしい、あかいたまの鳴る音。大神の御名のひとかけらだし、多くのひとが知ることだけれど……
「そうですね。でもこのなまえは、大神の御名からとってあるものです。たいへんおそれおおいですし、真名はだれも覚えていません。これはひどいと思うのですが──」
はい、と実緒がうなずくと、瓊音はあっと声をもらした。聞いたことのない声だったから、おどろいてきゅっとしてしまう。飾りけもなく、どこかあどけなく。ひとひらだけが、こぼれたみたい。瓊音は珍しく、早口になる。
「いいえ、なんでもないのです、なんでもないのでお忘れください、だれのせいだとかどうとか、も────」
「いいえ。だれも、聞いていません……おいやなら、わたしも聞きませんから、言ってもだいじょうぶ、なのですよ……」
実緒は、ゆるやかに瓊音にこたえた。ひどいと思うも、あなたのせいも、くるしいも、聞けてよかったと。聞かせてくれて、よかったと。それに。
「いま、わたしにとって、あなたさまが瓊の音なのです……神さまのことは、浮かびません……すこしも、もうあなた、だけです……」
気がつくと、なにか言っていた。なにを、言っているのだろうか。わからないけど、いまだけならば。実緒はゆっくり息を吐き、そうしてゆっくり目を閉じた。睫毛と、瓊音の衣の衿が、軽くこすれてさわりと鳴った。胸が動いて息がふるえて、喉がこくりと鳴るのも聞いた。露もとまらぬ高鳴りの中、そんな、ささいなことも感じる。
瓊の色だと、思ったからだ。衣を借りるときはいつでも、あかいろばかりを手に取っていた。いまも紅の小袖を着ている。その色の背に手が添えられる。すきとおるようにやさしい、ふれかた。宝玉を撫でるときよりも。かえって砕けそうなくらいに。
あかく、まどかにかがやき続ける。宝玉は、あなたのほうなのに。思うと、こらえきれなくなった。わけもわからずしがみついたら、ごちんと頭になにか当たった。どうやら、瓊音の顎先だ。すっかり慌てて謝ると、ぴたりと声がかさなった。
思わず、笑いだしてしまった。互いを、やわく抱えたままに笑い声までかさなると、万糸雨を受ける草原や、真砂の汀にいるここち。そして、そっと、蓋をするように。やがて静寂が降りてくる。
どこかほっとして、ものたりなくて。実緒は瓊音から身体を離す。瓊音は実緒の肩を支えて、その手を静かに離してくれる。追いかけることは、しなかった。かけがえのないことが多すぎた。こんなしあわせは、もういっぱいだ。もう、いっぱい。じゅうぶんだった。
連れていくことは、しないでと言った。約した三月が済んだときには、この足でここを出ていくので。だから、あなたが障気のところへ連れていってくれる必要はない。でも、三月が済むまでは。ここにいても、かまいませんか。
瓊音は、首を横に振った。はじめのときに約したのだから、三月いなければならないと言った。約したのだから、連れていくとも言った。ひそやかな押し問答をしたすえ、実緒はつい先に口をつぐんだ。すると瓊音も口を閉ざした。
ふたりで、じっと座っていると。急にかたんと戸が開けられて、比佐が厨にもどってきた。大便がなかなか出なかったなんて言うので、みんなで笑いだしてしまった。そのあと、瓊音は髪の毛を拭いた。実緒はそのようすを横で見ていた。
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すずしく、きよい香りのあけぼの。支度を済ませて待っていたとき、ふいに、ふうわり御簾がゆらいだ。まばゆい真白のすがたがのぞき、すきとおる淡いひかりとともに、なにげなく手が差し伸べられる。実緒はその手に、手をかさね、ひんやり、傷だらけのやさしさに、ひかれて御簾の内を出る。はじめてこの手を取ったときから、三月が経った朝だった。




