三十五 ゆらぐ
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おそばにいてさしあげてくださいと、わたくし申しましたのに、と比佐は不満げだったけれども。実緒はひどく混乱していて、そんなことを言われたかどうか、あまり覚えていなかった。
瓊音は、居所で着替えると、すぐ平気そうに歩き回った。待っているよう頼んだのに。厨で湯を沸かしていたら、入ってきて、ここで使うと言った。断るのも、運ばせるのも、わるいと思ったのかもしれない。実緒は盥に湯を張って、瓊音に足をひたすよう言った。寒さがやわらげばいいと思った。
瓊音は、手間をかけると詫びた。白湯の器を渡したときも、おなじように謝った。実緒はなんだかむっとして、でも伝えかたを決められず、ひとりでへんな顔をしていた。すると比佐がくすっと笑って、実緒に布を手渡した。なんだかんだと言いながら、厨を出ていってしまった。
囲炉裏には火が灯っているし、たくさんの湯を沸かしていたので、厨の中はあたたかい。湯気とけむりが漂って、空気がぼんやりかすんでいる。その中に座る瓊音の背中を、おぼえず実緒は見つめてしまう。
藍のにじんだ白い寝衣が、炎の色にやわく染まって。肩を流れる結い髪は、水気を含んで黒々とする。実緒は比佐がくれた布を握りしめ、瓊音のうしろへ寄って座った。
「御髪が、濡れておいでです……」
おそるおそる、声をかけると、瓊音はかすかにうなずいた。実緒は、ふるえだしそうな手で、布ごしに瓊音の髪をすくった。重たい水気を吸いとりたかった。
「かまいません」
瓊音が振り返り、すっと片手を伸ばしてくる。布を取られそうになり、実緒は慌てて引っこめた。
「あの、もうしわけ、ありません……」
急に髪の毛にさわるなど、やはりたいへん不躾だった。消えそうな気分でうつむいていると、瓊音は平らな調子で言った。
「もう、遅い時分です。あなたはお休みになってください」
「それは────」
顔をあげたとき、ちょうどぴたりと目が合って。すぐにそらしてしまおうとして、けれど、それはかなわなかった。かすむ薄闇の中につやめく、黒い瑪瑙の玉の瞳が。ほのかに、ゆらいでいるようだから。
もっと、近くで見つめられたら。実緒はわれ知らず身を寄せる。指先がひやりとしたので見ると、瓊音の指にふれていた。ぞっとするほど冷えていた。背筋を恐れが滑り落ち、実緒はその手を包もうとする。ふっと睫毛を伏せた瓊音の、青いまぶたがわずかに動く。
「あの、なにか、あったのでしょうか……」
もう問わずには、いられなかった。
「水に、落ちてしまわれたとか……おつらいことが、あったのでしょうか……障気にさわってしまっても、支障がないとは、ほんとうですか……」
瓊音は、唇を引き結び、こたえようとはしなかった。話したくなど、ないのだとわかる。話す義理だってひとつもないから、黙るべきだと知っている。それでも、実緒は黙れなかった。声がふるえても止まれなかった。
「あの、お聞かせいただきたいです、お話……、きょうあったことだけでも、お聞かせいただきたいのです……」
どこへ行って、なにを見て、ふれていたのか、聞かせてほしい。どうしてもどってこなかったかも、聞きたい。いや、それより先に、痛いところは、くるしいところは。さむさは、やわらぎそうですか────
ばちん、と、火花がはじけて散った。それはおしまいの合図みたいで、瓊音は実緒に背中を向けた。握っていた手が離れていった。図に乗っていたと、思い知る。
どこかで、舞いあがっていたのだ。やっと会うことができたから。さむいと、離さなかったから。引き寄せながらどこかせつなく、なまえを呼んでくれたから。
あれは、夢だったのかもしれない。勝手なねがいが見せた夢。ここにいるのは死に損ないで、ゆるされておらずゆるすこともない。だからおしまいにすべきもの。実緒は奥歯を噛みしめて、言葉も呼吸も閉じこめる。そのとき、ふいに空気がゆらぐ。瓊音の、わずかな身じろぎだった。
「つらいことなど、ございません。障気に多少さわったとして、問題ないのもほんとうです」
どくんと、胸の奥が鳴る。むなしい問いに、こたえがあった。瓊音は実緒に背を向けたまま、なにか続きを言うようだった。
「あまり、かかわりないことですが……、お話しなければと、思っていました。あなたに」
返事が、出てこない。実緒は衿もとを押さえつけ、幾度もうなずくばかりした。
「うまく話すことが、できないのですが……」
それでもいい。そんなことない。今度は幾度も首を振る。こちらを見てはいないけれども、気配だけ、伝わっただろうか。瓊音は静かに言葉を継いだ。
「先日、無体を働きました。お詫びすることもおこがましいと、そのように考えております」
「そんな、なにを──」
「そうなのです。あなたになにを申しあげても言い訳にしかなりません。でも、黙してもいられません────いっそすべてを申すのですが、お聞きいただくことはありません。あなたが生きていてくださって、わたしはほんとうにすくわれたのです」
実緒は、言葉を失った。せっかく、話してくれるというのに、はじめから聞きちがえたのか。
「わたしは、大神の御言を賜る、障気を鎮めるなどと申して、言葉ほどたいそうではないのです」
声音は静かにすきとおり、でも奥底に、なにかを秘める。ちゃんと聞きたくて、耳を澄ませる。瓊音へこころを傾ける。
「きょうは、幼い子に会いました。傷だらけでひどく痩せていました。十くらいに見えたのですが、もうすこし大きいかもしれません。とても強い目の、聡い子でした」
市で、足蹴にされていたひと。あの光景がよみがえる。あのひとは、あの場の贄だった。瓊音の出会ったその幼子は、障気の贄にされたのだろうか。
「捧げられたのではないようでした。みずから贄になりにきていた」
「え──」
「ひと買いに遭ったようです。その、むごい場所から逃げてきて、贄になるのだと言っていました。それを止めようとしていたときに、障気が出たので鎮めました。あの子にはさわらせずにすみました。どこかへ走っていってしまった」
わかりません、と瓊音はつぶやく。
「生きていけるかはわかりません。すくいきれないと知っていました。わたしはあの子になにもできません。いのちはなくなりませんでしたが、それだけのことで、それに、いつもは」
いのちさえも、助けられない。
「大勢が犠牲になるような事態は、いつも防ぐことができています。大神のお力の賜物です。ですがわたしは、お力もお言葉も、うまく受けとめることができていません」
いつでも、一歩遅くなる。小さく、笑ったように聞こえた。
「だから、贄が捧げられているとき……、ほとんど間に合わないのです。贄などにされたひとたちが、先に障気にさわっています」
力不足のためなのですと、平坦に言う声がかすれる。でも、それは障気がと、実緒はつい口走っていた。そういう得体の知れないものが、いけない。力不足ではない。すると瓊音は、かぶりを振った。
「障気は、ひとの気配に敏く、思いを持つものではないけれど、ひとにふれようとしています。ふれて、あやめようとしています。障気がひとに、ふれようとするのは、ふれられたことがないからなのです」
障気は、ふれられないものから生まれる。だれにも、ふれられないものたち。
あってもなかったことになる。生きているのに死んでいる。封じこめられ忘れ去られる。そんな情動や思い出や、痛苦が障気となっていく。
瓊音の言葉に、視界がゆらぐ。そんなこと、まったく知らずにいたし、考えてみたこともなかった。いま教えられたことからすると、いま、たったいまこの身体からも、障気が生まれているかもしれない。集まらないと見えないのだから、生み出していてもわからない────
「だれがわるいのでもないのです。障気がわるいのでもありません。障気があふれてしまわぬように、しかと鎮めるのが神子のつとめです。それがじゅうぶんにできていません。大神の思し召しについては、はっきりしたことはわかりませんが、大勢が犠牲にならないならば、かまわないとお思いのようです。ですから、お力を使いこなせぬ者を、八年も『神子』にしておかれます」
力不足のためなのですと、瓊音は、もういちど言う。大勢だろうと、ひとりだろうと、失いたくなどないのにと。
「この前は、贄にされていたひとを山の中に埋めてきました。野辺へ送ったこともあります。時がなくて捨て置いたことも。時があるのに耐えられなくて、そういうときも捨て置きます」
やはり、淡々としているけれど。実緒はこぶしをきつく握った。知らなかった。なにも、ほんとうに。
「御統は、なきがらを乗せませんし、わたしが離れないままいると、降りてきて、なにをしているのかと言います。だれのためにしているのかと、問います。しごくなさけないことなのですが、やめることができません」




