三十二 舞台に
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湿った空気がけだるげに、宙に寝そべり、垂れこめていた。障気があふれ満ちたかのようで、あたりはぼやけて暗かった。瓊音は、白木の柱が支える屋根のもとひとり立っていた。
軒からさがる灯篭の影、空から垂れる雨の糸。黒い地面に吸われ染みこむ。しかし、瓊音の立つ石床は、屋根に覆われ濡れることがない。目の前の井戸も、またおなじ。石で組まれた丸い井筒は、厳かに古び苔むしている。その口を覆う竹簾を巻き取り、床へ広げて、中をのぞいた。
なにも映さぬふかい暗闇。詰まってゆらぐこともなく、ほのかにひかり、じっとしている。これが、もうすぐ動きだす。今回はその前に、たどり着くことができたらしい。近くにひとがいないためだろう。
瓊音は井戸のふちから離れた。前を見やれば、屋根の下からまっすぐに石畳が続く。屋根が途切れたところから、雨に濡れ色を変えている。その先に、石舞台があった。そちらへ足を踏み出せば、床と沓底が高く鳴る。ことん、ことんとひとりごつよう。石の畳を果てまで歩き、瓊音は石の舞台に着いた。
全身が雨に風に当たって、ささやかに鳴っているのがわかる。びたん、とひときわ大きな粒が、頬を叩いて流れて落ちる。灯篭のようなかたちの花が、舞台のふもとにゆれていた。
ここは、あの場所によく似ている。実緒とはじめて会ったあの場所。あのときも雨が降ってきていた。けれども、まったくべつの場所だし、雨粒もいまのほうが大きい。これは、春のなごりではなく、もの憂い夏の前ぶれなのだ。太刀の柄に手を置くと、巻いた手巾がうるおっていた。しばらく、邸にもどっていない。
幾度か続けて神言がくだった。あとは、通りかかった里の、雨で詰まってしまった水路を直す手伝いなどをしていた。それでも、御統を呼べるのだから、もどれなかったわけではない。怖気づいて、もどらないのだ。瓊音はじぶんでよく知っていた。
十日ほど前の、あのときだ。虚ろな西日の差す板敷に、ひとりきり座りこんだまま。じっとどこかを見つめる実緒が、ふいに掻き消えそうに感じた。あのとき、湧きあがったおそれは、どうにも抑えきれないもので。目を塞いでも、抱えこんでも、あたたかくても、やわらかくても。なににもふれていないようだった。それならばもっと近くへいって、もっと、ふかくまでふれたとしたら。つなぎとめておける気がした。だからそれは、できないというのに。
あんまりな無体を働いたから、もはや合わせる顔がない。だが、そんなことを言っていたのでは、もうすぐ約したときが来る。それより早く、いなくなったら。そんなことにはならないと、どこかでなぜか慢心している。消えてしまうと、おそれているのに。いったい、なにを考えているのか、おのれのことがわからない。あまりに、あさましくみっともない。なさけない。いたいくるしいあいたい。
雨垂れが、目に落ちてこぼれる。払う。前方に目をやる。石舞台から見据える井戸は、やはりずいぶんと立派なものだ。屋根も石畳も整えられて、舞台まで備えつけられている。灯篭には火が入っているし、周囲の木々も茂りすぎない。つまりは、ひとが世話をしている。
障気の溜まる場所の中でも、こういうところはたまにある。遠い昔から、この場所に、障気が溜まってきたのだろう。瓊音の大神と神子たちが、脈々とそれを鎮めてきたのだ。このあたりに住むひとたちは、それをよくよく知っているのだ。だれからも忘れられているわけでは、ないと、思わされるけれども。
瓊音は親指で鍔を押しあげ、ゆっくりと太刀を引き抜いていく。刃の鋭いきらめきが、雨のしずくにじんわりにじむ。それを捧げ持ち、まぶたをおろし。湿った空気を吸いこんだ。
「おい」
ふいに、低い声。瓊音ははっと目を開ける。にわかに呼びかけたその声は、下から聞こえたように思った。




