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瓊音のつまごひ  作者: 相宮祐紀
(四) 罪咎の傷
30/40

三十  無心に





**** ****





 その夜も明けきらぬうちに、瓊音ぬなとはつとめに出かけて行った。なにも言わずに行ってしまって、五日経ってももどらなかった。

 黙って出ていくことはあっても、こんなにもどらないことはなかった。遠い国へ行くときだって、すまるが運んでくれるのだからひとっ飛びだと聞いている。幾日もかかることはないはず、いままでは、いつももどってきていた。

 比佐ひさは、動じていないようすだ。もしもなにかがあったのならば、御統が知らせてくれると言う。それに、こんなこともままあると言う。前はずいぶん長いこと、留守にすることがよくあったから。

 実緒みおも、それは聞いていたし、まだ五日だと言うこともできる。なにかあったのでもないのだろう。でも、実緒にとってこの空白は、ひどくさむざむしいものだった。

 じっとしていると、もっと寒いから、掃除に精を出している。主殿の板敷を拭いている。くれないの小袖にたすきをかけて、裾もあげて帯に挟んであった。掃除にはよく慣れているし、始めれば無心になれるからすき、けれど、いまはだめだった。がらんと空いた気分だけれど、ちっとも無心になれていない。なにをしていても、どうしても、照り返すようにちらついてくる。

 あのとき。ここでふれられたこと。でも、背中にもうなじにも、余韻は残っていなかった。きっと、あれは気まぐれだった。なにかとまちがえたわけではないと、落ち着いているいまならわかる。三月みつきのあいだは妻だから、気まぐれや戯れもするだろう。急に抱きすくめられたとしても、慌てるべきではなかったのだろう。おどろくばかりしてしまった。

 それが、いけなかったのだろうか、だからもどってこないのか。そんなのはきっと思いあがりだ。でも、あのときはほんとうに、わけがわからなくなってしまった。あまりにも急でおどろいて、ほしいと、このままとねがって。けれどだめだから、こんがらがった。みにくい悲鳴を出してしまった。まるで拒んだようだった。そして、あのとき、ふるえていたのだ。

 瓊音の身体は、ふるえていた。どこかがひどく痛むみたいに。そのうえ冷えて、鼓動も速く、息も浅くてくるしげだった。あのときはいっぱいいっぱいで、なにも考えていなかったけど、いま思い出すと締めつけられる。あのひとは、いまは平気だろうか。どこか痛くはないのだろうか。どこかくるしくはないのだろうか。

 実緒は、いちど手を止めた。ふだんから掃除をしているから、雑巾の裏もきれいなままだ。けれど、乾いてしまった気がする。たらいの水にそっとひたした。

 井戸から汲みあげてきた水は、きりりと冷たく、ここちよい。いつもなら、朝に舞う前に、瓊音が汲んでおいてくれる。ここ五日間はいないので、おもに実緒が水汲みをしていた。透也とうやが済ませてくれるときもあるし、すいが手伝ってくれるときもある。比佐はきびきびとしているけれど、ときおり腰をかばっているから、あまり無理をさせたくなかった。

 盥に雑巾を泳がせていると、ぽちゃり、やわらかな水音がする。すうと吹き抜けていく風は、濃くもやわらかな緑の香り。実緒は汗ばんだ額を拭った。近頃、暑くなってきている。そうかと思えば雨が降り、冷えこむこともあるのだけれど。顔をあげ、庭に目をやると、なんだかひどくまぶしく思えた。木や草の色が力強くて。明るい日差しをいっぱい浴びて、のびのび合唱しているみたい。

 その中、池の水面みなもは澄んで、この場所からは見えないけれども空が映っているのだろう。天馬も、映りこまないだろうか。あのひとを乗せた真白の天馬。

「実緒さま、すこし休みましょうか」

「はいっ」

 いつの間にか、比佐が横にいた。実緒がしているのとおなじように、盥の水に布をひたして、鯉のひれみたくなびかせている。目が合うと、そっとほほえみをくれる。

「はい、比佐さん、休みましょう……」

 実緒はこたえて、布を絞った。しゃらしゃらと水が快く鳴る。その音を聞いて思い出す。はじめて、ここへ来た夜のこと。

 これよりひとまわり大きな盥に、いっぱいに熱い湯を張って、瓊音が持ってきてくれたのだ。きれいな布をひたして絞り、手を差し伸べてくれたのだった。いちどは、意味がわからなかった。その手に、この手をかさねてしまった。

 あれから、幾度もふれあって、そのたびに実緒はやすらいでいた。どこかあまやかにざわめいていた。もう、ほんのすこしでおしまいになる。

「実緒さま。瓊音さまでしたらね、近いうちにお帰りになりますよ」

 比佐がゆったりと言葉にすると、きっとそうなのだろうと思える。そうなのだろうと、思えるけれど。

「だいじょうぶです。ね、実緒さま。御統さまもいらっしゃいますし、ご案じになることはありませんよ。なにより、実緒さまがここにおいでです」

 慈しむようにほほえむ比佐に、実緒は、うなずくことができない。

「御統さま、お呼びしてみましょうか。しとぎもお作りいたしましょうね」

 布をしっかりと絞りつつ、比佐はのどやかにそう言った。そのとき、明るい声が響いた。

「実緒ちゃん比佐さんこんにちは!」





 涼風すずかぜのように現れた穂と、比佐と三人でしとぎを作った。できあがったのをほおの葉に包み、実緒はくりやの戸をくぐる。

 空がどこまでも、あざやかだった。雲もとかされてしまったらしい。目を細めながら振り仰ぎ、実緒はそっと呼びかけた。

「御統さま」

 ひゅうと、風が吹き抜け、あたりをすずしい静けさが満たす。うしろをかえりみたときちょうど、厨の陰から顔がのぞいた。真白く、きらめく毛並みの天馬。その目はあかく、ふかくまどかだ。やはり、だれも、乗せてはいない。

「御統さま、こんにちは」

 実緒は御統に駆け寄った。御統のほうでも近づいてきた。たびたびしとぎを捧げているので、呼ぶと来てくれるようになったのだ。実緒は青々した朴の包みを、御統の前にていねいに広げた。

「きょうはしとぎをお作りしました。よろしければ、お召しあがりくださいませ……」

 御統は、しとぎに鼻を近づけ、ぺろりとひとつ口に運んだ。そしてもくもくと、よく噛んでいる。

「お味のほうは、いかがでしょうか……?」

 問いにはこたえないけれど、すぐにふたつめを食べはじめる。実緒はそのようすをじっと見つめる。

「どちらに、いらっしゃるのでしょうか…………」

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