三十 無心に
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その夜も明けきらぬうちに、瓊音はつとめに出かけて行った。なにも言わずに行ってしまって、五日経ってももどらなかった。
黙って出ていくことはあっても、こんなにもどらないことはなかった。遠い国へ行くときだって、御統が運んでくれるのだからひとっ飛びだと聞いている。幾日もかかることはないはず、いままでは、いつももどってきていた。
比佐は、動じていないようすだ。もしもなにかがあったのならば、御統が知らせてくれると言う。それに、こんなこともままあると言う。前はずいぶん長いこと、留守にすることがよくあったから。
実緒も、それは聞いていたし、まだ五日だと言うこともできる。なにかあったのでもないのだろう。でも、実緒にとってこの空白は、ひどくさむざむしいものだった。
じっとしていると、もっと寒いから、掃除に精を出している。主殿の板敷を拭いている。紅の小袖にたすきをかけて、裾もあげて帯に挟んであった。掃除にはよく慣れているし、始めれば無心になれるからすき、けれど、いまはだめだった。がらんと空いた気分だけれど、ちっとも無心になれていない。なにをしていても、どうしても、照り返すようにちらついてくる。
あのとき。ここでふれられたこと。でも、背中にもうなじにも、余韻は残っていなかった。きっと、あれは気まぐれだった。なにかとまちがえたわけではないと、落ち着いているいまならわかる。三月のあいだは妻だから、気まぐれや戯れもするだろう。急に抱きすくめられたとしても、慌てるべきではなかったのだろう。おどろくばかりしてしまった。
それが、いけなかったのだろうか、だからもどってこないのか。そんなのはきっと思いあがりだ。でも、あのときはほんとうに、わけがわからなくなってしまった。あまりにも急でおどろいて、ほしいと、このままとねがって。けれどだめだから、こんがらがった。みにくい悲鳴を出してしまった。まるで拒んだようだった。そして、あのとき、ふるえていたのだ。
瓊音の身体は、ふるえていた。どこかがひどく痛むみたいに。そのうえ冷えて、鼓動も速く、息も浅くてくるしげだった。あのときはいっぱいいっぱいで、なにも考えていなかったけど、いま思い出すと締めつけられる。あのひとは、いまは平気だろうか。どこか痛くはないのだろうか。どこかくるしくはないのだろうか。
実緒は、いちど手を止めた。ふだんから掃除をしているから、雑巾の裏もきれいなままだ。けれど、乾いてしまった気がする。盥の水にそっとひたした。
井戸から汲みあげてきた水は、きりりと冷たく、ここちよい。いつもなら、朝に舞う前に、瓊音が汲んでおいてくれる。ここ五日間はいないので、おもに実緒が水汲みをしていた。透也が済ませてくれるときもあるし、穂が手伝ってくれるときもある。比佐はきびきびとしているけれど、ときおり腰をかばっているから、あまり無理をさせたくなかった。
盥に雑巾を泳がせていると、ぽちゃり、やわらかな水音がする。すうと吹き抜けていく風は、濃くもやわらかな緑の香り。実緒は汗ばんだ額を拭った。近頃、暑くなってきている。そうかと思えば雨が降り、冷えこむこともあるのだけれど。顔をあげ、庭に目をやると、なんだかひどくまぶしく思えた。木や草の色が力強くて。明るい日差しをいっぱい浴びて、のびのび合唱しているみたい。
その中、池の水面は澄んで、この場所からは見えないけれども空が映っているのだろう。天馬も、映りこまないだろうか。あのひとを乗せた真白の天馬。
「実緒さま、すこし休みましょうか」
「はいっ」
いつの間にか、比佐が横にいた。実緒がしているのとおなじように、盥の水に布をひたして、鯉のひれみたくなびかせている。目が合うと、そっとほほえみをくれる。
「はい、比佐さん、休みましょう……」
実緒はこたえて、布を絞った。しゃらしゃらと水が快く鳴る。その音を聞いて思い出す。はじめて、ここへ来た夜のこと。
これよりひとまわり大きな盥に、いっぱいに熱い湯を張って、瓊音が持ってきてくれたのだ。きれいな布をひたして絞り、手を差し伸べてくれたのだった。いちどは、意味がわからなかった。その手に、この手をかさねてしまった。
あれから、幾度もふれあって、そのたびに実緒はやすらいでいた。どこかあまやかにざわめいていた。もう、ほんのすこしでおしまいになる。
「実緒さま。瓊音さまでしたらね、近いうちにお帰りになりますよ」
比佐がゆったりと言葉にすると、きっとそうなのだろうと思える。そうなのだろうと、思えるけれど。
「だいじょうぶです。ね、実緒さま。御統さまもいらっしゃいますし、ご案じになることはありませんよ。なにより、実緒さまがここにおいでです」
慈しむようにほほえむ比佐に、実緒は、うなずくことができない。
「御統さま、お呼びしてみましょうか。しとぎもお作りいたしましょうね」
布をしっかりと絞りつつ、比佐はのどやかにそう言った。そのとき、明るい声が響いた。
「実緒ちゃん比佐さんこんにちは!」
涼風のように現れた穂と、比佐と三人でしとぎを作った。できあがったのを朴の葉に包み、実緒は厨の戸をくぐる。
空がどこまでも、あざやかだった。雲もとかされてしまったらしい。目を細めながら振り仰ぎ、実緒はそっと呼びかけた。
「御統さま」
ひゅうと、風が吹き抜け、あたりをすずしい静けさが満たす。うしろをかえりみたときちょうど、厨の陰から顔がのぞいた。真白く、きらめく毛並みの天馬。その目はあかく、ふかくまどかだ。やはり、だれも、乗せてはいない。
「御統さま、こんにちは」
実緒は御統に駆け寄った。御統のほうでも近づいてきた。たびたびしとぎを捧げているので、呼ぶと来てくれるようになったのだ。実緒は青々した朴の包みを、御統の前にていねいに広げた。
「きょうはしとぎをお作りしました。よろしければ、お召しあがりくださいませ……」
御統は、しとぎに鼻を近づけ、ぺろりとひとつ口に運んだ。そしてもくもくと、よく噛んでいる。
「お味のほうは、いかがでしょうか……?」
問いにはこたえないけれど、すぐにふたつめを食べはじめる。実緒はそのようすをじっと見つめる。
「どちらに、いらっしゃるのでしょうか…………」




