二十九 留める
「なにをごらんになっていますか」
声が。耳もとで声が聞こえた。とっさに振り返ろうとしたとき、動けないことに気づいてしまう。気配が、あまりに近すぎて、瓊音が近くてもう動けない。うしろ側から抱えこまれて、片手で目もとを覆われている。いつの間にここへ来ていたのだろう。ぼうっとしていて気づかなかった。
「なにを……、見ているのですか────」
びりりと、耳から痺れが広がる。いつものとおりに落ち着いた、透明な声のはずなのに。それなのになにか、わずかにちがう。ほんのかすかに、ゆれていて、どこか切実な響きがあって。だれかを引き留めるときみたい。そんな、奇妙なことを思って。
「────実緒どの」
耳から注ぎこまれる。とろり、頭の中身がゆらぎ、一気に身体が熱くなる。いま、こんなにもすぐそばで、はじめて瓊音になまえを呼ばれた。
ひんやりと封じこめられたまま、まばたきが瓊音の手とふれあった。血潮が透けて見える気がした。なぜ、こんなことになったのだろう、どうしていいか、見当もつかず、もうぐしゃぐしゃなくらい熱くて、なにもわからなくなりそうで。激しくとどろく混乱の中、ふいに、しゃらりと衣ずれを聞く。わずかな隙間が狭まり埋まり、背中に瓊音の胸が合わさり。奥のゆらぎが、伝わってくる。速い。追いつけないほどはやい、ぎゅうっときつく目を瞑る。なぜ。
どうして、こんなこと。どうしてこうしてしまうのだろう。思ってしまう。ねがってしまう。みんな、みんな傷つけたのに、二度ともとにはもどらないのに、このままがいいとそんなこと、ずっと、こうしていてくれたらと、つかまえていてくれたらと。だめだ。
気力を奮い起こして、懸命になって実緒はもがいた。瓊音を振りほどこうともがいた。けれど、その腕はびくともしない。しなやかでいてたくましいから、いっそうひきこまれていくばかり。息が吸えない。吐くのもつらい。身体じゅうの血がぐらぐらと泣く。それでもと、身をよじったそのとき、目もとから手が離された。束ねた髪がぎこちなく梳かれ、浅く息を継ぐ音を聞く。風がするりと滑るうなじに、風とはちがう、なにかがふれる。
つめたい。やわい。つめたいやわい。こわれそうに、やわらかいもの。それが、なにか、わかったとたん、身体の力が抜けてしまった。
うなじに留まった冷えた唇。すこし、ふるえているのがわかる。なぜ、と思う。とろけて消える。その肌ざわりはうなじをくだり、実緒のぜんぶをさらおうとする。いけない。こんなの。いけないおかしい。きっとなにかとまちがえている。だって、ずっと、忙しいから、ひどく疲れているはずだから。
そして、やわさの内のやわさが、ほのかに肌を撫でたとき。喉の奥からこみあげて出る。ひしゃげた悲鳴のような声。瞬間、ぜんぶが離れていった。実緒は板敷にくずおれた。
「もうしわけ────」
言葉が途切れ、おそろしいほど静まり返る。実緒は両の目をひらいていたし、手に覆われてもいなかった。けれど、なにも、見えていない。いまなにが目に映っているのか、頭がすこしも受けつけない。心の臓ばかりばくばく暴れ、それなのにひどく寒くなる。
「もうしわけ、ございませんでした」
こわばった声が落ちてくる。板敷がいちど軋んだあとに、足音が遠ざかっていく。
ようやく、前が見えたときには、実緒はひとりきりだった。足もとにいた小さな虫も、もはや、どこにも見つからず。飛ばされていってしまったのか。それとも、飛んでいったのか。




