二十八 小さな
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「みてみてあねさま、郁真の頭!」
裏山を探検するときに、見守ってくれる従者のすがた。見つけるのは、いつも香於だった。
「わたしね、おおきくなったらね、郁真のつまになるんだよ。だって、郁真は、背が大きいし、目が細いし、眉毛は太いし、鼻……はあるし、口も、口は、口がいつも、こうやってにっこりしてるでしょ? だからすてきでしょ、ね、あねさま?」
なるほどそうかと、うなずきながら、はずんだ声を聞いていた。実緒も、郁真がすきだったけれど、そんなにたくさんすてきなところを、言うことはできないだろうと思った。香於はきっと、郁真のことが、とても、とてもだいすきなのだと。
べつのあるとき、裏山にいて、ふたりで花輪をこしらえていた。実緒は、木の陰でこちらを見ている郁真のすがたに気がついた。香於のほうをのぞいてみると、花を摘むのに夢中になって、気づいていないようだった。はじめて先に見つけたと思い、実緒は得意になって教えた。
「香於、見て。郁真がいるよ」
香於は、きょとんと目を丸くした。それからぷくりと頬をふくらませ、実緒を軽くにらんで言った。
「そんなの、わたしも気づいてたもの」
とがっているのに、弱々しい。はじめて聞いたと思いつつ、実緒は、そうだねごめんとこたえた。それからすこし時が流れた。
「わたし、もうすこし大きくなったら、郁真の妻になりたいのだけど」
香於はこころもちは変わらず、ちょっぴりおませになっていた。
「父上と、母上は、許してくださると思うけど。年が離れすぎているかな。わたしは、いつおとなになれる? 郁真はわたしのことがすきかな。すきじゃなかったらどうしよう。だけどわたしは、郁真がすきなの」
ずっと、ずっとほんとうにすき。香於は、うっすら頬をあからめ、夢を見るようにつぶやいた。
「だって、郁真は背が高いし、目は切れ長で、眉は凛々しくて、それと鼻筋は通ってて、あとは唇のかたちもきれい。いつも笑ってるし助けてくれるし、力持ちだしすごく強いし、それからだれにでもやさしいの。すてきでしょ? ねえ、あねさま?」
なるほどそうかと、うなずきながら、やわらかい声を聞いていた。六つと幼かったけれども、香於はいっぱいに恋をしていた。かわいいな、と、思って見ていた。
「ねえ、あねさま。山とか歩くの、もうやめたほうがいいのかなあ。わたし、おてんばさんみたいだもんね、ねえ、あねさま。どう思う?」
そんなふうに、問われたから。なんだかさびしくなってしまった。だから、やめなくていいよと、こたえた。
実緒は、とくにわけもなく、板敷にしゃがみこんでいた。
透也が帰ってしまったあとに、ここをのぞきに来たけれど。瓊音もすでにいなかった。居所に入ってしまったのだろう、はやく白湯を持っていきたい。そう思いつつ、座ったままで、西日の差す板敷を見ていた。いつの間にやら追憶に溺れ、ようやく浮かびあがったときには、小さな虫が足もとにいた。
どこかから飛んできたのだろうか、それとも、落ちてきたのだろうか。それでどうやって生きているのかと、ふしぎに思ってしまうくらいに、小さくか弱いようすの虫だ。透けてなくなりそうなその身を、痛々しいほどふるわせている。きっと、じきに死ぬのだと思う。いっそ潰してやろうと思う。一緒に、潰れてしまえと思う。
きょう、透也がここへ来たのは、市へ出かけたあの日のことを瓊音に話すためだろう。ふたりとも、なにも言わなかったけれど。あの日、邸に帰る道中、透也も、穂も沈んでいた。比佐も、それを察したらしい。口にすることはなかったけれど、案じているのが伝わってきた。
そんな状態がなんとなく、きょうまでずっと続いていた。町へ行こうと誘ってもらって、行ってみたいなんて言ったから。もうしわけなく、潰れそうになる。ほんとうに、わけがわからないのだ。ありえないことがあったから。市で、郁真のすがたを見かけた。
郁真は、照羽にいるはずなのだ。美護の都の市などで、出くわすはずのないひとなのだ。だから、とてもよく似ているだけの、べつのひとかなと、思いたかった。
でも、べつのひとなどではない。あれは確かに、確かに郁真だ。幼いころから親しんだひとを、見忘れることはそうそうできない。それに、一瞬目が合ったとき、泣きだしそうな顔をしていた。なぜ、いたのかはわからない。けれども、確かに市にいたのだ。でも、声をかけず、かけられず、黙って通り過ぎただけ。そうすることしかできなかった。きっと、互いにそうだった。
郁真は、香於がなくなったあと、まるでべつのひとみたいになった。香於がすてきだと言っていた、笑顔がすっかりなくなっていた。おふたりをお守りできなかったと、なみだも出ぬほど悔いているのだ、だれかからそう聞かされた。郁真はひどく傷ついていて、それも、実緒の咎だった。
あの日、香於を誘ってしまった。もう行かないほうがいいのかな、と。香於は、そう言っていたのに。実緒が、香於を連れだしたのだ。守られてひとり生き延びたのだ。そして、決してそれだけではない。
そのあとも実緒は咎をかさねた。家のひとたちの目を盗み、障気のあった場所へ通った。香於とおなじようになろうとしていた。母は、それに耐えられなかった。そんなことばかりするのなら、と実緒にたくさんの仕事を与えた。みずからやらずに済むように、ゆるい痛苦をたくさん与えた。長く、続いて大きくなった。
いつくしまれて、まもられていた。すべては実緒の咎だった。そんな咎人を捨てたくなるのは、しごくあたりまえのことだろう。でも、三月だけと拾われた。それも、もうすぐおしまいだ。だってゆるされていないのだ。ゆるせない。生きているなんて。
小虫は、日射しに焦がれるらしい。あまりに甲斐なくうごめいている。実緒は、ただそれをじっと見つめる。見つめて、手を伸ばしかけ、ふいに。静かな気配が降った。ふわり、肩が包みこまれて、そして目の前が暗くなる。




