二十七 影の中
**** ****
数日のちの夕暮れのころ、瓊音は邸の主殿にて、透也と向かいあっていた。互いに時間がとれたので、いま、市でのできことについて詳しい話を聞いていたのだ。すでにだいたい知っていたのだが、透也は説明すると言い張った。なかなかの大事だったため、しばらく後処理に忙しく、遅くなったと頭をさげた。ほんとうに、もうしわけないと。
「実緒さんに、いやなものばかり見せた。穂も、いま忙しいらしいけど、ほんとはずっと気にしてる」
瓊音は首を横に振った。市は、ひとが集まる場所だ。外れには怪しげな店もある。しかし、市のまんなかで、大騒ぎなどめったにない。美護の都のひとびとが、ごくふつうに買いものをするところだ。
「悪酔いした者がいたのだろう」
「それは、いたけど────」
「そうだろう。かまわないと言ったのはわたしだ。無事に送りとどけてくれて、ほんとうにありがたかった」
「でも、おまえ」
「気をつかわせてすまない」
すると透也は、口を閉ざした。眉を寄せしばし沈黙したのち、すっと息を吸って言いだす。
「実緒さん、ひとが蹴られるのも、石とかぶつけられるのも、たぶん、死んだのも見てた」
瓊音は、唇を噛みしめた。あの日、瓊音が邸にもどると、実緒はすでに帰っていた。いつもどおりのようすであって、それはきょうまで変わっていない。そのように、見えてはいたのだが。
「実緒さんが、いままでどんなとこにいたのか、おれはわかんねぇけどさ。見た感じだけで、おれたちとは……おれとか、穂とかとはさ、ちがうんだなっていうのはわかる」
それなりの身分のひとなのだろう。瓊音も、そう考えていた。贄にされた実緒が着ていた衣は、上等の絹地だったのだ。それだけではなく、たたずまいからも、そこはかとない気品を感じる。
「だから──だからああいうの、あんまり慣れてないっていうか。すごく傷ついたんじゃないかって。考えが足りてなかった。市にはガラがわるいのもいるし、大路ぐらいでやめときゃよかった」
ぬるんだ風が吹き寄せて、おろした御簾が軽くたわんだ。その裾がこすれ鳴る板敷を、透也はじっと見ているらしい。瓊音も、おなじところを眺めた。よく磨かれた板の一部は、差しこんでくる西日のために、細長く色を失っている。それは、互いの膝のあいだに。ふたりして影の中に座って、あいだに流れるひかりの川を、しばらく見るともなしに見る。
「透也」
瓊音がなまえを呼ぶと、透也はやっと顔をあげる。瓊音は、座りなおして言った。
「ほんとうのところを、聞かせてほしい」
「え?」
「ほんとうに……、あのひとを見て、ほんとうにそう思ったか」
瓊音は透也をのぞきこむ。いつも明るい目の中に、沈痛の色がゆれている。
「ほんとうは、あのひとの、なにか────」
さりげなく、よくひとを気づかう透也は、確かに高貴な生まれではない。かどわかされた、捨てられた、売られた買われたはあたりまえの、むごい目に遭わされてきたと聞いている。幼いとき、この邸に忍びこんできたのを、瓊音が出迎えたのがきっかけで、よく遊ぶようになったのだ。やがて透也は、瓊音の父とおなじ職に就いていた。いまは宿舎で暮らしている。都の治安を守るその職に、瓊音も幼いころあこがれていた。
仕事柄か、経験のためか。透也は気楽な顔をしながら、たいていのことを見すかしてしまう。今度は、なにかを感じているのに、言うのをためらうように思えた。言ってほしくて、問うてしまった。
「んー、おまえ、瓊音さぁ……」
透也は、ぐしゃりと髪を掻き回し、なぜかもどかしげに唇を噛む。
「あぁあ、だけど実緒さんにも、いろいろぺらぺら喋っちゃったな……」
ふたたび下を向いてしまって、ぶつぶつとなにか言っている。そうかと思えば頭を跳ねあげ、ひたりと、目を見据えてくる。瓊音は腹の底に力をこめた。あのな、と、透也は言った。
「おれが、勝手に思っただけだ。ぜんぶ本気にしてちゃだめだぞ」
「ああ、それはわかっている」
「よし。それじゃあ喋るけど……、おれが、なんとなく思ったのは。ああいう場面がはじめてだから、傷ついてしまったんじゃなくて。ああいう場面を見て、いろいろ、思い出してたんじゃないかって」
「思い出して────」
「そう。前のこと。おなじようにされてたこと、もしかしてあったのかもしれない。なんというか、おひいさまだろうにな」
瓊音は、言葉を失った。けれども、そうかもしれないと、どこか腑に落ちるところもあった。だんだんとましになってはきたが、実緒はかなり痩せている。衣できれいに隠したところに、痕などあってもおかしくはない。
「あと、知りあいを見たかもしれない。市で」
「──え」
「騒ぎから出て、ちょっと離れてすぐあとだ。すれちがったひとがいたんだけどさ。そのひと、実緒さんのこと、見てて。実緒さんのほうも気づいたみたいで、あっ、ていう顔してたから……」
「そうか」
「そう。若いひと……おれらよりは、ちょっと上かな。そんぐらいの男だった。まずいやつではなさそうだったし、ほんとに知りあいかどうかはわからん。けど、なんかちょっと心配だ。そのあと、うわのそらだったからさ。実緒さん」
「そう──そう、か」
「うん。おれは、そう思ったよ」
ちゃんと見とかないといけない。透也の声はふだんより低い。瓊音はこたえを返せずに、西日の帯をじっと見ていた。実緒と約した三月が済むまで、あとひと月になっていた。
日に日にとくに言葉も交わさず、ただふれあっているそのときが、もうやすらぎになってしまった。もっと、そばまで近づいて、そのまま眠りたくもなるのだ。ほそやかな肩に額を預けて、凛と伸びた背に腕を回して。
でもそれでいて、なぜなのか、腹の底から叫びたくなる。叫んで駆けずり回りたくなる。なにを吐き出したいか知れない。ただ、ただ衝動ばかりがくすぶり、封じこめるのに難儀している。どうしようもなく胸がざわめく。
ふれあうそのときばかりではない。ちらりとすがたを見ただけで、御簾ごしの声を聞いただけ、湯気に包みこまれただけで。実緒が近くにいないときでも、ざわざわと、ゆれうごいてしまう。
向かいあえば、そのたびに、細く小さいと思い知る。その目はうるんで濡羽にも似る。いろとりどりのひかりを宿し、刻々移ろうように思える。いっときも逃したくないと、ねがってしまいそうになる。
でも、その瞳を彩るぜんぶ。よろこびも、かなしみもくるしみも、どれもこの手ではふれられない。あのひとだけのものなのだ。ふれたいなどと求めては、それは欲心がすぎるだろう、けれども見つめて、ふれたく思う。もしや、おなじ思いではないかと錯覚しそうになるときもある。それは、大きなまちがいなのだと、ほんとうはよく知っているのに。
実緒は、ずっと見つめているのだ。拭いきれない思い出と、近づいてくる約束のとき。すきとおる蝶を恋い追うように、そのときをじっと待っているのだ。障気のところへ行って、そして。どうするのかは、よくわかる。はじめからわかっていたことだ。手放すつもりはない、などと。そのようなこと、どうして言えるか。どうして、引き留めることができるか。勝手に攫ってきた分際で。
「おーい、瓊音さん起きてます? いちおう目の前いるんですけど」
からかう調子で、透也が言った。それで瓊音はわれに返った。すこしだけ頬をゆるめてみせると、透也の頬が引きつった。
「おえ、へんな顔気色わる。そういう顔はしなくていいから、実緒さんのことちゃんと見て、話聞いて、聞いてもらえよ。なんか、無理なことがあったら、比佐さんも穂もちゃんといるんだし、おれも、できることは頼まれるから」
とか言ってるけどわるかった、と、透也はまたもや頭をさげた。瓊音も透也に頭をさげて、わるかった、と礼を述べた。透也の言っているようなこと。いますぐにできるならばよかった。




