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瓊音のつまごひ  作者: 相宮祐紀
(三) 坩堝の贄
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二十六 棒切れ

 この手がとどくものでは、ない。ふれようとしてはならないものだ。そのとき、背中になにか当たって、身体が前へ傾いた。転ぶと思った瞬間に、ぐいと力強く引き戻される。

「ごめん、勢いよすぎたな」

 そう言ったのはすいだった。実緒みおの背中に飛びついてきたのだ。つりあいを崩してしまったけれど、手を引っ張って支えてくれた。実緒は、なんだかほっとした。

「ううん、こちらがごめんなさい……」

「ううん、ちがうよ。ごめんね実緒ちゃん」

 ぽんと、実緒の肩にやさしくふれる。そんな穂に、透也とうやがたずねた。

「さっきのひと、どうしたんだ?」

「ああ」

 穂は、ひとつうなずく。

「わたしがそのおやしきの近くに住んでて、たびたびご飯もいただきに行くけど、なんともないから平気だよって。なんにもいないし感じないって、言ったよ。あそこはだいじょうぶって」

 とりあえず納得してもらった、と穂はかろやかにそう言った。

「まあ、もしまだ心配だったら、ほかのだれかに見てもらうでしょ。わたし、障気しょうき邸に関する依頼は受けないことにしてるの」

「さすが。でも穂、それでいいのか? 受けたら、けっこう稼げるんじゃねぇの」

「それよく言うね、受けてほしいの?」

「いや、ほしいっていうか、だってさ。それとこれとは問題がべつだろ」

「ありがとね、でもわたし受けないよ。だってさ、ひとりになったときから、いままで助けてもらってるから、瓊音ぬなと比佐ひささんが助けてくれた。おもに比佐さんなんだけど」

 穂は、笑顔を咲かせて続ける。

「いまは実緒ちゃんがいるんだし。わたし評判の祈祷師さまでしょ、それがだいじょうぶって言ってれば、うわさもなくなるかもしれないよ?」

「すげ、やっぱり頼もしすぎる」

「あたりまえだね。じゃあ行こう!」

 ほがらかな声の、すぐあとだった。

「なんだぁ、おい? きたねぇな────」

 喚き声に、空気が砕けた。見たくない、と思いながらも、実緒はそちらへ目を向けていた。

 萎えた衣に裸足のひとが、道のまんなかに立っていた。そばには、似た格好のひとが数人。酒を飲んでいたひとたちだったか。どこかに仕える家人らしい。みんなでなにかを取り囲み、見おろしているようだった。たくさんの足のあいだから、細い棒切れかなにかが見えた。

「きったねぇな。さわんじゃねぇよ」

 ざらざらとする声で叫ぶと、家人のひとりが棒切れを蹴る。棒切れはたやすく吹っ飛んで、また地に落ちて、転がった。胸の底を掴まれた気がした。棒切れに手がついている。

「なんだぁこいつ棒切れじゃねぇか」

「いやボロ雑巾」

「けがれるな」

「犬に食わすか」

「とっとと失せろ」

「そこの井戸にでも投げこむか」

 ちがう。棒切れなどではない。棒切れなどではない、ひとだった。衣は短くぼろぼろに破れ、身体はひどく痩せてよごれて。地に転がされ愚弄され、嘲笑されては愚弄され、足蹴にされて踏みつけにされ、踏みつけにされ足蹴にされて幾度も、抗うこともかなわず、悲鳴ひとつもあげられず、だれにも、かえりみられることなくひたすら、ひたすら蹂躙される。そして、きっと、さいごには、ただただそこへ捨てておかれる。

 じり、と土がれる音。透也が、無言で横を通り過ぎ、いまだ踏みにじられ続けるひとと、いまだ踏みにじり続けるひとと、そのどちらでもないひとのほうへ迷いもなしに向かっていく。

「──透也」

 凛と、静穏な声で、呼びかけたのは穂だった。しっかりとその両の手で、透也の腕をつかまえている。ひゅっと、透也の喉が鳴る。

「いまはわたしたち守ってればいい。あと上」

 はっとして見あげると、向かいの店の板屋根の上、いくつかのひとかげが見えた。なにかを、手に持っている。みとめた刹那、それが飛ぶ。

 ぐしゃんと、ひしゃげる音がして、家人のひとりが倒れ伏す。そばには石が落ちている。小石などとは呼べないそれは、板屋根の重石だったもの。屋根の上に立ったひとりが、持ちあげて下へ投げつけたのだ。一瞬、あたりの音が掻き消え。倒れたひとが血を吐いたとき、悲鳴と怒号があふれだす。

「実緒ちゃん」

 濁りゆく空気の中で、穂の声だけくっきり聞こえた。知らず伸ばした手をぎゅっと握られ、また力強く引き寄せられる。

「だめだ。こっち……こっち入って」

 低く言う透也に背からかばわれ、穂と一緒に押しこまれる。そこは建物のあいだに続く、細くまっすぐな道だった。進めば騒ぎから抜け出せそうだ。実緒は穂に手を引かれつつ、うしろを振り返っていた。透也の頭の向こうに見えた。もう無秩序の様相だった。

 上から重石が降っている。走って逃げだすひとがいる。卒倒しているひとがいる。介抱を試みるひともおり、大声でなにか叫んだり、迷惑そうに歩いていたり、倒れた家人を囲んでなじり、踏むだの蹴るだのするひともおり。なぜだか、離れたべつの場所でも殴りあいが始まっており、脇の店は戸を閉めはじめ、青菜と魚が一緒になって、道のまんなかに伸びていて、すぐ役人を呼んでこいとか、なんでもよいから呼んでこいとか、医者が来たとか来ないとか、どこかしら冷えた声も聞こえて。

 くらくらして、くるくるして、ぐらぐらぐるぐるしている坩堝るつぼ。ちょっぴり、なつかしいと思った。でも、こんなにひどくなかった。こんなのあまりにむごすぎた、けれど、なにもしなかった。

 そしてひらけたところへ出たとき、実緒は回されるここちのままに、ここにいるはずのないひとを見た。いつも、見守ってくれていたひと。故郷にいるはずのかつての従者。郁真いくまだ。都の市にいる。都の市を、歩いている。

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