二十六 棒切れ
この手がとどくものでは、ない。ふれようとしてはならないものだ。そのとき、背中になにか当たって、身体が前へ傾いた。転ぶと思った瞬間に、ぐいと力強く引き戻される。
「ごめん、勢いよすぎたな」
そう言ったのは穂だった。実緒の背中に飛びついてきたのだ。つりあいを崩してしまったけれど、手を引っ張って支えてくれた。実緒は、なんだかほっとした。
「ううん、こちらがごめんなさい……」
「ううん、ちがうよ。ごめんね実緒ちゃん」
ぽんと、実緒の肩にやさしくふれる。そんな穂に、透也がたずねた。
「さっきのひと、どうしたんだ?」
「ああ」
穂は、ひとつうなずく。
「わたしがそのお邸の近くに住んでて、たびたびご飯もいただきに行くけど、なんともないから平気だよって。なんにもいないし感じないって、言ったよ。あそこはだいじょうぶって」
とりあえず納得してもらった、と穂はかろやかにそう言った。
「まあ、もしまだ心配だったら、ほかのだれかに見てもらうでしょ。わたし、障気邸に関する依頼は受けないことにしてるの」
「さすが。でも穂、それでいいのか? 受けたら、けっこう稼げるんじゃねぇの」
「それよく言うね、受けてほしいの?」
「いや、ほしいっていうか、だってさ。それとこれとは問題がべつだろ」
「ありがとね、でもわたし受けないよ。だってさ、ひとりになったときから、いままで助けてもらってるから、瓊音と比佐さんが助けてくれた。おもに比佐さんなんだけど」
穂は、笑顔を咲かせて続ける。
「いまは実緒ちゃんがいるんだし。わたし評判の祈祷師さまでしょ、それがだいじょうぶって言ってれば、うわさもなくなるかもしれないよ?」
「すげ、やっぱり頼もしすぎる」
「あたりまえだね。じゃあ行こう!」
ほがらかな声の、すぐあとだった。
「なんだぁ、おい? きたねぇな────」
喚き声に、空気が砕けた。見たくない、と思いながらも、実緒はそちらへ目を向けていた。
萎えた衣に裸足のひとが、道のまんなかに立っていた。そばには、似た格好のひとが数人。酒を飲んでいたひとたちだったか。どこかに仕える家人らしい。みんなでなにかを取り囲み、見おろしているようだった。たくさんの足のあいだから、細い棒切れかなにかが見えた。
「きったねぇな。さわんじゃねぇよ」
ざらざらとする声で叫ぶと、家人のひとりが棒切れを蹴る。棒切れはたやすく吹っ飛んで、また地に落ちて、転がった。胸の底を掴まれた気がした。棒切れに手がついている。
「なんだぁこいつ棒切れじゃねぇか」
「いやボロ雑巾」
「けがれるな」
「犬に食わすか」
「とっとと失せろ」
「そこの井戸にでも投げこむか」
ちがう。棒切れなどではない。棒切れなどではない、ひとだった。衣は短くぼろぼろに破れ、身体はひどく痩せてよごれて。地に転がされ愚弄され、嘲笑されては愚弄され、足蹴にされて踏みつけにされ、踏みつけにされ足蹴にされて幾度も、抗うこともかなわず、悲鳴ひとつもあげられず、だれにも、かえりみられることなくひたすら、ひたすら蹂躙される。そして、きっと、さいごには、ただただそこへ捨てておかれる。
じり、と土が擦れる音。透也が、無言で横を通り過ぎ、いまだ踏みにじられ続けるひとと、いまだ踏みにじり続けるひとと、そのどちらでもないひとのほうへ迷いもなしに向かっていく。
「──透也」
凛と、静穏な声で、呼びかけたのは穂だった。しっかりとその両の手で、透也の腕をつかまえている。ひゅっと、透也の喉が鳴る。
「いまはわたしたち守ってればいい。あと上」
はっとして見あげると、向かいの店の板屋根の上、いくつかのひとかげが見えた。なにかを、手に持っている。みとめた刹那、それが飛ぶ。
ぐしゃんと、ひしゃげる音がして、家人のひとりが倒れ伏す。そばには石が落ちている。小石などとは呼べないそれは、板屋根の重石だったもの。屋根の上に立ったひとりが、持ちあげて下へ投げつけたのだ。一瞬、あたりの音が掻き消え。倒れたひとが血を吐いたとき、悲鳴と怒号があふれだす。
「実緒ちゃん」
濁りゆく空気の中で、穂の声だけくっきり聞こえた。知らず伸ばした手をぎゅっと握られ、また力強く引き寄せられる。
「だめだ。こっち……こっち入って」
低く言う透也に背からかばわれ、穂と一緒に押しこまれる。そこは建物のあいだに続く、細くまっすぐな道だった。進めば騒ぎから抜け出せそうだ。実緒は穂に手を引かれつつ、うしろを振り返っていた。透也の頭の向こうに見えた。もう無秩序の様相だった。
上から重石が降っている。走って逃げだすひとがいる。卒倒しているひとがいる。介抱を試みるひともおり、大声でなにか叫んだり、迷惑そうに歩いていたり、倒れた家人を囲んでなじり、踏むだの蹴るだのするひともおり。なぜだか、離れたべつの場所でも殴りあいが始まっており、脇の店は戸を閉めはじめ、青菜と魚が一緒になって、道のまんなかに伸びていて、すぐ役人を呼んでこいとか、なんでもよいから呼んでこいとか、医者が来たとか来ないとか、どこかしら冷えた声も聞こえて。
くらくらして、くるくるして、ぐらぐらぐるぐるしている坩堝。ちょっぴり、なつかしいと思った。でも、こんなにひどくなかった。こんなのあまりにむごすぎた、けれど、なにもしなかった。
そしてひらけたところへ出たとき、実緒は回されるここちのままに、ここにいるはずのないひとを見た。いつも、見守ってくれていたひと。故郷にいるはずのかつての従者。郁真だ。都の市にいる。都の市を、歩いている。




