二十五 ねがい
さんざめく市のただなかの、こもった熱気と湿ったにおい。身体じゅうに感じつつ、小刻みの歩幅で歩いていく。実緒は、小さく息を吸いこんだ。大路よりもいくぶん雑多で、ざっくばらんな味の空気だ。ひとの気配もすぐそこであり、すこし動けばふれあうくらい。たくさんの足が踏む地面から、砂の煙が立ちのぼる。目の前がすこし霞んで見えて、くしゃみも誘われそうになる。
進んでいく道の両側には、土の壁に、板葺屋根の建物が多く並んでいた。油や穀物や酒を売ったり、書き損じの紙や端切れを売ったり、いろいろな店があるらしい。地面に薄い筵を敷いて、野菜や魚を売る店もある。
実緒は、穂にひっついて歩いた。見回していれば、ひとびとは、それぞれ桶を頭にのせたり、包みを腕に抱えたりしている。立ちどまってお喋りしたり、大笑いしたり、言い争ったり。なにか食べたり、飲んだりもしている。
「ここ、けっこうすきなんだぁ」
穂はそう言いながら、ひとの合間をするすると行く。高く結わえた黒髪が、さらりさらりとたなびいている。
「穂」
うしろから、透也が呼んだ。穂が髪をゆらして振り向き、実緒も透也をかえりみる。透也は穂を手招いた。
「祈祷師さまが、呼ばれてる。ちょっと止まってやってくれ」
「あらま、ありがと。ちょっと止まるね」
穂は、実緒の手を引いた。ひとの流れから外れると、建物の土壁の前に止まった。透也もそばへやってくる。
「やっぱり祈祷師さま人気だな。歩いてるだけで声かけられる」
そんな軽口をたたきつつ、ちらりと実緒の顔をのぞいた。ひと波の中で疲れていないか、案じてくれるらしいとわかる。実緒はこくりとうなずいてみせた。ほっと目もとをゆるめる透也に、穂が肩をすくめてこたえる。
「そうだよ、人気で苦労しちゃうよ」
祈祷師さま、と呼ぶ声がして、透也と実緒は穂から離れた。仕事の妨げになってはいけない。でも実緒は、穂のほうを見てしまう。
「祈祷師さま」
穂に駆け寄ったのは、質素な身なりの女人だった。そのひとに挨拶を返す穂は、ほほえみをたたえ凛としている。あんなふうに、なれればいいのに。実緒はほのかなあこがれを抱く。
「こんにちは、おひさしぶりですあやさん。きょうはどうされましたか?」
「はい祈祷師さま、じつは、きのう、きのう……」
「ええ、だいじょうぶですよ」
「はい……、きのう、わたしの息子が、息子が障気の邸のほうへ、近づいてしまったようなのです……」
「息子さんが」
「ええ、そうなのです。いまのところなにもないのですけど……」
実緒はつい、横の透也を見あげた。障気の邸というのは、なにか。そんなおそろしげなものがあるのか。瓊音と、かかわりがあるのだろうか。目が合うと、透也は小さく笑い、女人と穂に背中を向けた。
「あ、あの、透也さん……」
「瓊音、まだ言ってないですよね」
やや低まった声で問われて、実緒は息を飲みこんだ。やはり、瓊音と関係がある。瓊音のことは、なにも知らない。
「はい、お聞きして、おりません……」
こたえる声が、すこしかすれる。透也は、そうか、まいったなあと頭のうしろを掻いている。なにか、秘密があるのだろうか。近づいてしまったとおそれられている、障気の邸というところ。瓊音とかかわりを持つところ。考える前に、実緒は踏み出した。知りたい、なんておこがましいのに。
「あの、わたしがお聞きするのは、いけないことがらでしょうか、もし……」
「いけなくないと思います」
透也はきっぱり言いきった。そして、一歩うしろへさがる。実緒から離れる動作ではなく、真上から見おろすことがないよう気を回したとわかる身ごなし。顔の見やすいその距離で、透也は実緒をまっすぐとらえた。実緒は、腹の底に力をこめる。瓊音の邸ね、と透也は言った。
「あそこ、障気が集まってるって、都でうわさになってるんです。いまから、八年前のことかな。さきのご主人とその奥さまが、相次いでなくなってしまわれたので、あそこは不吉な場所なんだって」
「え──」
「仕えてたひとたちも、そのときいっせいに出ていったから。瓊音が、暇を出したんですけど。そのあとわざわざ詔で、あのお邸、きれいにされてしまったし。あとは、しょうもないんですけど、でかいしとぎが飛んでいったり、降りたりしてるって言われてるんです。ぜんぶ、わるいものというか、障気がいっぱい溜まってて、どうしようもないからだろうって」
実緒は、呆然と透也を眺めた。喧騒が遠ざかっていく。
ほんとうに、なにも知らなかった。けれど、言われて考えてみれば、思いあたることはいくつかあった。
最初に熱を出したとき、比佐が呼んでくれた薬師のひとは、なにかにひどく怯えていた。ときどき来る行商のひとも、いつもそそくさと帰ってしまう。比佐が気にしないようすでいるので、理由を聞くこともなかったけれど。あとは、でかいしとぎというのは、もしかして御統のことなのだろうか。
「そういうのって、でたらめだし、近くに住んでるひとたちなんかはたいてい気にしてないんですけど。穂もおれも寄りつきまくりだし、だけど、いまあのお邸は、近づいちゃいけないって言われてるんです」
実緒は、思わずこぶしを握る。そんなことって、ないだろう。瓊音は、障気を鎮めているのに。障気がひとを害さないよう、咎禍事を起こさないよう。たったひとりで、鎮めているのに。
「たぶん、いちばん気にしてるのは、瓊音かもなって思うんです。いろいろ言われるのがいやとかじゃなくて、父上と母上がなくなったのが、瓊音が神言受けはじめたときと、ちょうどかさなってしまってたから。なんか関係あるんじゃないかって、気に病んでるんだと思うんです。だから邸のみんなにも、暇出してよそに行かせたんです。残ったの、比佐さんだけで。でも、おれはぜんぜんわかってないけど、関係ないと思ってるんです。比佐さんは長いこといても元気だし、穂もおれも、実緒さんも、ずっと平気じゃないですか……」
なにげないふうに話すその声は、ほんのすこしだけうわずっている。
「なんでも、じぶんのせいにするから。実緒さん、気づいたかもしれないですけど、瓊音のやつ思いこみ激しいんですよ。神言とか受けはじめてから、とくにそういう感じになって。最初はなにがあったのか、喋ろうともしなかったんです」
「そう────」
「はい、そうなんです。おれはほぼ殴って喋らせました。ほんとにたまげましたけど。なんであいつだったのかなって、ときどきおれ思っちゃいます。詳しいことは言わないし、いろいろ、前とは変わったし……」
「前と、変わられたのですね……」
実緒が繰り返しつぶやくと、透也は、ゆるりと笑みを浮かべた。
「そうですね、おれはそんな気がしてます。前は、よく手とか足とか出して、それはあんまりよくないんですけど。でも前は、もっとよく喋ってて、ばかなこともして笑ってたから」
「そう、ですか、そうなのですね……」
それは、どんなふうだったのだろう。いままでいちども、見たことがない。
「わたし、なにも知らなくて……」
「それは、ほんとにしょうがないです。当人があんな調子だもん。比佐さんだって実緒さんに、こういうことは言わないでしょ。瓊音が口止めしてるのかもしれないし、瓊音から言ったほうがいいって、思ってるのかもしれないです。おれとかは我慢できないですけど」
透也はかろやかな調子だけれど、でもどこかしら、さびしげだった。
「ガキのころから知ってるんですけど、よく押しかけてただけだから。わからないところも多いんです」
「ええ……」
「はい、だけど瓊音は、ひとりになろうとしてる気がして。だれにもさわらない、さわられないのが、いいってたぶん思ってるんだ。あんまりうまくいってないし、うまくいかせるつもりないけど」
そう言ってすぐ、ぽんと手を打つ。
「話、それちゃいましたけど、障気邸云々のことは、心配することないですよ。出ても瓊音が鎮めるんだし。だけどやっぱりちょっとくらいは、気持ちがわるくなっちゃいますよね……」
「いいえ」
実緒は首を振った。
「気持ちわるくなど、ありません」
たったそれだけしか言えないし、言いかたもあまり強くなかった。でも、ほんとうのことだけ言った。すると、透也は目をみひらいて。
「あ、ほんと、そうですか……?」
力の抜けた声をもらすと、ふわっと明るい笑顔を見せた。
「実緒さんが、来てくれてよかったです」
おれが言うのも変ですけど、と困ったように眉をさげている。そんなふうに言われることは、なにひとつできていないけれど。実緒は、胸がいっぱいになった。瓊音には比佐だけでなく、このひとがいてくれるのだと、わかって。
比佐や、透也みたいになれたらと、実緒はひそやかにねがっていた。けれども、あこがれもねがいも、すぐに奥底へ沈んでしまう。この手が、とどくものではないと。




