二十三 湯気に
**** ****
「よろしかったのですか、瓊音さま?」
含みを感じる笑みをたたえて、比佐がかたわらに器を置いた。さきほど実緒に、出かけてよいと言ったこと。どうやら比佐は蒸し返すらしい。あのあと居所に引っこんだ瓊音は、文机に向かい書きものをしていた。そこへ比佐が白湯を運んできたのだ。かまわなくともよいというのに。
「ここにばかりいたのでは、息が詰まってしまうだろう」
瓊音は簡単にこたえたが、みずから連れてきておきながら言えることではないと気づいた。薄闇にかすんだ目をまたたかせ、筆を硯の上に置く。かわりに器を手に取った。さらりとした手ざわりの向こうの、ぬくもりがじわりと伝わってくる。
手間がかかるうえ夏が来るのに、白湯などを用意する。面倒をかけると思いながらも、強く断ることができない。ゆらめく湯気に顔をうずめると、冷えた身体がほどけるようだ。実緒が始めてしまったことで、比佐も賛同しているらしい。いまはだいじなご客人がおられるので、わたくしお任せいただいたのですよと、胸を張って言っていた。ですがご心配には及びません、あとで実緒さまがいらっしゃるように、わたくし申しあげておきますからね、だいじょうぶですからね瓊音さま。そんなことも言っていた。
とりあえずだいじなご客人というのは、穂のことであるらしい。いまさらという気もするが、実緒にとってはそうなのだろう。途中で外すわけにはいかないようだ。ふたりがうちとけて話しているのは、よろこばしいことだと思う。
「瓊音さま。息が詰まるとおっしゃいますけど、息抜きが必要なのは、瓊音さまもおなじでは?」
比佐のゆったりとした言葉に、瓊音は首をかしげてみせた。
「それは、そなたもおなじであろう」
「まあ、そんな、そうですね。そうとも言うかもしれませんけれど」
比佐は瓊音をまねるようにして、ふわりと首を傾ける。
「わたくしはこのお邸におりまして、いろいろとさせていただくことが、息抜きになるといいますか。実緒さまがいらしてからは、とくにそのように思うのですよ。日々息抜きをしているのです」
比佐はおっとりとほほえんでいる。そう言いそうだとは、思っていた。
「ならば、それはわたしもおなじだ」
「おなじって、このお邸にいることで、お休みになれているということですか?」
「そうだ」
肯うが、じつのところ、そのつもりで言ったのではなかった。比佐が、つとめが息抜きになると言うので同調したつもりだったのだ。けれど、ここにいてやすらぐというのは、ほんとうのことだった。瓊音は白湯をひとくち飲んだ。ほどよい熱がゆっくりと、喉を伝い落ちていく。
「それは、よろしゅうございました……」
比佐は幾度もうなずいていたが、ところで、と急に前のめりになった。
「さきほど、よろしかったのですかと、わたくしお聞きいたしましたけれど。実緒さまをお出かけさせてよいのか、などという意味ではございませんよ?」
いつもより、やや早口に聞こえる。瓊音はつい、背をのけぞらせた。
「では、なんだ」
「なんだって。それは瓊音さまもご一緒に、お出かけにならなくてよいのですか、と」
「よい」
瓊音は即答し、白湯をまたひとくち飲みこんだ。今度はやけに熱い気がした。
「まあ、さようにございますか……?」
比佐は疑わしげに目を細め、顔を眺め回してくる。瓊音はよそを向いて注意した。
「ひとをそのように見てはならない」
「あら。もうしわけございません」
比佐は、くすりと肩をすぼめる。
「けれど、実緒さまも穂さんも、おめかしなさればよろしいのに。遠慮なさってしまったのですね……。実緒さまなんて、ほんとうにすこしも、そのおつもりがなさそうで……」
声にさびしさがひとひら混じる。瓊音は口を開けて、閉ざした。なんと言おうか、決められない。とっさに思いが言葉になるほど、器用でもなく素直でもなかった。
結局のところ実緒と穂は、いつもの格好で出かけるという。実緒は着飾ることがない。新しいものも遠慮する。ただ、いつもあかいろを着る────
「でも、あんまりおめかしなさると、怪しい輩が近づくかもしれませんものね。衣はすこし地味なくらいが、ちょうどよいのかもしれませんね。透也さんがいらっしゃるということなので、あまり案じておりませんけれど」
「そうか」
「そうかって、瓊音さま。瓊音さまもすこしくらい、お出かけなさればよろしいのでは。きょうはすこし、お早くお帰りになってうれしゅうございますけれどね、お出かけをなさったとしても、一日じゅうというわけでもないのですし。穂さんもお仕事がありますし、実緒さまもいろいろとお気になさって、きっとすぐ帰ってきてしまわれますよ」
「そうだな」
「あの、瓊音さま? お聞きになっておられます?」
やはり、いつもより早口だ。
「では今度、実緒さまとおふたりで、お出かけになるのはいかがです?」
瓊音は白湯を噴き出しかけたが、どうにか平静を装った。
「わたしは、出かけなくともよい。いつ神言を賜るかわからないし、いろいろやるべきこともある」
「まあ」
比佐が目をみひらいた。
「途中でお言葉をいただいたとき、実緒さまをほうっておくことになると、もしもおっしゃりたいのでしたら。御統さまにお乗せして、待っていただくとよろしいのでは。きっと御統さまだって、お怒りになりませんでしょう」
瓊音は口を結び、黙った。いろいろとつっこみどころはあるが黙した。白湯の器を板敷に置く。
比佐には、赤ん坊のときから長らく世話をかけている。神言を賜るようになってからは、留守を預け続けている。けれどいままで、出かければよいとか、早く帰ってうれしいとか、そんなふうに言ってきたことはなかった。こうして顔を見て話すのも、ひさしぶりのことだったかもしれない。うるさくしてもうしわけございません、と袖を口もとにあてがう比佐は、すこし若返ったようにも思える。
机上の紙に目を落とす。筆跡がすこしゆらいでおり、最後の文字は途切れている。白湯の器にまた手を伸ばす。指の先からひとときぬるむ。
神言を受けはじめて三月ほどで、いまのような身体になった。見た目はさほど変わらないが、比佐や透也に言わせれば、血色がわるくなったらしい。確かに身体は冷たくなった。
それでも、じきに死ぬとかではない。食うのも寝るのも必要ない、冷たく軽い身体になって、そうして長く生きていくのだ。動けるうちは唱い舞うのだ。神子とはそういうものらしい。
もう慣れているし、都合がよい。そのはずなのに、ごくまれにだが、どうしようもない気分になる。臓腑が流れ出してしまって、すべてからっぽになった気になる。身体が軽くて、寒いと思う。かるくて、さむくて、しかたなくなる。
そんなときは、邸にもどらなかった。洲を回って舞い続けていた。でも、いまはそうではない。ぬくもりや、すがたや声が浮かんで、もどろうと思ってしまうのだった。
いつも、わざわざ出迎えにくる。目の慣れた薄い夜闇の中に、ほんのりとあかいすがたが灯る。細すぎるような手を差し伸べて、そっとこの手を包もうとする。湯気の立つ水差しを折敷にのせて、器と一緒に置いていく。どうかあたたかいうちにと告げる。最初は涙目になりながら、どうぞとささやいて差し出してきた。
それからもっと前の夜には、太刀の柄のことなど気にかけていた。柄に手巾を巻いてみても、なにも変わっていないと思うが、おぼえず握っていることがある。そのことにふと気づいたときには、またその髪や瞳が浮かぶ。よみがえる声が胸をくすぐる。
生きていてもよいという、気がする。おおげさだとは思いながらも、ほんとうにそんな気がしてしまう。もっと、そばへ来てほしい、もっと、そばへ行きたいとねがう。
最初の夜は、近すぎた。高熱につられ浮かされていた。あんなことはもう、たやすくできない。どうしてなのか、わからない。夜ごとにとどく白い湯気から、呼びかけてくる澄んだ声から、ふれあう細い両手から。せつなるなにかが伝わる気がして、
「あら……、瓊音さま……」
比佐の声が、遠く聞こえた。器がからんと、転がった。いま神言がくだされる。




