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瓊音のつまごひ  作者: 相宮祐紀
(三) 坩堝の贄
23/39

二十三 湯気に



 


**** ****





「よろしかったのですか、瓊音ぬなとさま?」

 含みを感じる笑みをたたえて、比佐ひさがかたわらに器を置いた。さきほど実緒みおに、出かけてよいと言ったこと。どうやら比佐は蒸し返すらしい。あのあと居所に引っこんだ瓊音は、文机ふづくえに向かい書きものをしていた。そこへ比佐が白湯を運んできたのだ。かまわなくともよいというのに。

「ここにばかりいたのでは、息が詰まってしまうだろう」

 瓊音は簡単にこたえたが、みずから連れてきておきながら言えることではないと気づいた。薄闇にかすんだ目をまたたかせ、筆をすずりの上に置く。かわりに器を手に取った。さらりとした手ざわりの向こうの、ぬくもりがじわりと伝わってくる。

 手間がかかるうえ夏が来るのに、白湯などを用意する。面倒をかけると思いながらも、強く断ることができない。ゆらめく湯気に顔をうずめると、冷えた身体がほどけるようだ。実緒が始めてしまったことで、比佐も賛同しているらしい。いまはだいじなご客人がおられるので、わたくしお任せいただいたのですよと、胸を張って言っていた。ですがご心配には及びません、あとで実緒さまがいらっしゃるように、わたくし申しあげておきますからね、だいじょうぶですからね瓊音さま。そんなことも言っていた。

 とりあえずだいじなご客人というのは、すいのことであるらしい。いまさらという気もするが、実緒にとってはそうなのだろう。途中で外すわけにはいかないようだ。ふたりがうちとけて話しているのは、よろこばしいことだと思う。

「瓊音さま。息が詰まるとおっしゃいますけど、息抜きが必要なのは、瓊音さまもおなじでは?」

 比佐のゆったりとした言葉に、瓊音は首をかしげてみせた。

「それは、そなたもおなじであろう」

「まあ、そんな、そうですね。そうとも言うかもしれませんけれど」

 比佐は瓊音をまねるようにして、ふわりと首を傾ける。

「わたくしはこのおやしきにおりまして、いろいろとさせていただくことが、息抜きになるといいますか。実緒さまがいらしてからは、とくにそのように思うのですよ。日々息抜きをしているのです」

 比佐はおっとりとほほえんでいる。そう言いそうだとは、思っていた。

「ならば、それはわたしもおなじだ」

「おなじって、このお邸にいることで、お休みになれているということですか?」

「そうだ」

 肯うが、じつのところ、そのつもりで言ったのではなかった。比佐が、つとめが息抜きになると言うので同調したつもりだったのだ。けれど、ここにいてやすらぐというのは、ほんとうのことだった。瓊音は白湯をひとくち飲んだ。ほどよい熱がゆっくりと、喉を伝い落ちていく。

「それは、よろしゅうございました……」

 比佐は幾度もうなずいていたが、ところで、と急に前のめりになった。

「さきほど、よろしかったのですかと、わたくしお聞きいたしましたけれど。実緒さまをお出かけさせてよいのか、などという意味ではございませんよ?」

 いつもより、やや早口に聞こえる。瓊音はつい、背をのけぞらせた。

「では、なんだ」

「なんだって。それは瓊音さまもご一緒に、お出かけにならなくてよいのですか、と」

「よい」

 瓊音は即答し、白湯をまたひとくち飲みこんだ。今度はやけに熱い気がした。

「まあ、さようにございますか……?」

 比佐は疑わしげに目を細め、顔を眺め回してくる。瓊音はよそを向いて注意した。

「ひとをそのように見てはならない」

「あら。もうしわけございません」

 比佐は、くすりと肩をすぼめる。

「けれど、実緒さまも穂さんも、おめかしなさればよろしいのに。遠慮なさってしまったのですね……。実緒さまなんて、ほんとうにすこしも、そのおつもりがなさそうで……」

 声にさびしさがひとひら混じる。瓊音は口を開けて、閉ざした。なんと言おうか、決められない。とっさに思いが言葉になるほど、器用でもなく素直でもなかった。

 結局のところ実緒と穂は、いつもの格好で出かけるという。実緒は着飾ることがない。新しいものも遠慮する。ただ、いつもあかいろを着る────

「でも、あんまりおめかしなさると、怪しい輩が近づくかもしれませんものね。衣はすこし地味なくらいが、ちょうどよいのかもしれませんね。透也とうやさんがいらっしゃるということなので、あまり案じておりませんけれど」

「そうか」

「そうかって、瓊音さま。瓊音さまもすこしくらい、お出かけなさればよろしいのでは。きょうはすこし、お早くお帰りになってうれしゅうございますけれどね、お出かけをなさったとしても、一日じゅうというわけでもないのですし。穂さんもお仕事がありますし、実緒さまもいろいろとお気になさって、きっとすぐ帰ってきてしまわれますよ」

「そうだな」

「あの、瓊音さま? お聞きになっておられます?」

 やはり、いつもより早口だ。

「では今度、実緒さまとおふたりで、お出かけになるのはいかがです?」

 瓊音は白湯を噴き出しかけたが、どうにか平静を装った。

「わたしは、出かけなくともよい。いつ神言かむごとを賜るかわからないし、いろいろやるべきこともある」

「まあ」

 比佐が目をみひらいた。

「途中でお言葉をいただいたとき、実緒さまをほうっておくことになると、もしもおっしゃりたいのでしたら。すまるさまにお乗せして、待っていただくとよろしいのでは。きっと御統さまだって、お怒りになりませんでしょう」

 瓊音は口を結び、黙った。いろいろとつっこみどころはあるが黙した。白湯の器を板敷に置く。

 比佐には、赤ん坊のときから長らく世話をかけている。神言を賜るようになってからは、留守を預け続けている。けれどいままで、出かければよいとか、早く帰ってうれしいとか、そんなふうに言ってきたことはなかった。こうして顔を見て話すのも、ひさしぶりのことだったかもしれない。うるさくしてもうしわけございません、と袖を口もとにあてがう比佐は、すこし若返ったようにも思える。

 机上の紙に目を落とす。筆跡がすこしゆらいでおり、最後の文字は途切れている。白湯の器にまた手を伸ばす。指の先からひとときぬるむ。

 神言を受けはじめて三月みつきほどで、いまのような身体になった。見た目はさほど変わらないが、比佐や透也に言わせれば、血色がわるくなったらしい。確かに身体は冷たくなった。

 それでも、じきに死ぬとかではない。食うのも寝るのも必要ない、冷たく軽い身体になって、そうして長く生きていくのだ。動けるうちはうたい舞うのだ。神子みことはそういうものらしい。

 もう慣れているし、都合がよい。そのはずなのに、ごくまれにだが、どうしようもない気分になる。臓腑が流れ出してしまって、すべてからっぽになった気になる。身体が軽くて、寒いと思う。かるくて、さむくて、しかたなくなる。

 そんなときは、邸にもどらなかった。しまを回って舞い続けていた。でも、いまはそうではない。ぬくもりや、すがたや声が浮かんで、もどろうと思ってしまうのだった。

 いつも、わざわざ出迎えにくる。目の慣れた薄い夜闇の中に、ほんのりとあかいすがたが灯る。細すぎるような手を差し伸べて、そっとこの手を包もうとする。湯気の立つ水差しを折敷おしきにのせて、器と一緒に置いていく。どうかあたたかいうちにと告げる。最初は涙目になりながら、どうぞとささやいて差し出してきた。

 それからもっと前の夜には、太刀のつかのことなど気にかけていた。柄に手巾を巻いてみても、なにも変わっていないと思うが、おぼえず握っていることがある。そのことにふと気づいたときには、またその髪や瞳が浮かぶ。よみがえる声が胸をくすぐる。

 生きていてもよいという、気がする。おおげさだとは思いながらも、ほんとうにそんな気がしてしまう。もっと、そばへ来てほしい、もっと、そばへ行きたいとねがう。

 最初の夜は、近すぎた。高熱につられ浮かされていた。あんなことはもう、たやすくできない。どうしてなのか、わからない。夜ごとにとどく白い湯気から、呼びかけてくる澄んだ声から、ふれあう細い両手から。せつなるなにかが伝わる気がして、

「あら……、瓊音さま……」

 比佐の声が、遠く聞こえた。器がからんと、転がった。いま神言がくだされる。

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