表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
瓊音のつまごひ  作者: 相宮祐紀
(三) 坩堝の贄
20/40

二十  余韻に




 

**** ****





 舞をぬすみ見てしまった夜から、指先だけではなくなった。御簾みすにも隔てられなくなった。じきに三月みつきの半分がくる。

 実緒みおは夜ごとに瓊音ぬなとを待った。くりや比佐ひさと片づけをしたあと、居所で髪をとかしたり、草子そうしをひらいたりなんかしながら、ひっそりと耳を澄ませているのだ。物音がすると、すぐに出ていく。いつも渡殿わたどのの真中で行きあう。向きあってからは、どちらからともなくそっと、両手を握りあう。

 手よりほかには、さわらない。目を見ることも少ないし、とくに言葉をかわすこともない。ただ、手と手をふれあわせるだけ。はたから見ると、へんてこだろう。でも、実緒にはそのひとときが、宝玉のかけらなのだった。なにかを、確かめあうここちがしていた。

 きょうも、渡殿まで出てきた実緒は、黙って瓊音と向きあっている。真白の袖がゆらめいている。軒からさがる灯篭とうろうの明かりに、ほんのり染まってゆれている。さやさやと草を鳴らす夜風を、ふわりとはらんで近づいてくる。

 ふれれば、消えるみたいにそっと、瓊音は実緒の手をすくう。すきとおりそうなその指先は、きょうも静かに冷えきっている。なぜなのかわからないけれど、すこし弱々しいようにも思う。なにも言葉が出ないかわりに、実緒はその手を包もうとした。指の長さが足りないし、もし足りていて包みこめても、そんなことはなににもならない。それなのに包んでしまおうとした。すると、くらげみたいになった。瓊音の手は、くにゃりとなって、実緒の手から滑り落ちてしまった。

 とたん、胸の奥が鈍く疼いた。なにかを考えるよりも先に、身体のほうが動いてしまった。瓊音に、もう一歩近づいて、もういちど手を握ろうとした。そのとき、肩になにかがとまる。

 一瞬、なにが起きたかわからず、すこし遅れて気がついた。肩に、額を預けられている。ほんとうに軽く、ふれるくらいに。ひやりと、つめたい気配が近くて、草木や土の香りが濃くて、吊灯篭からこぼれるひかりが真白の背中を上滑りして。ほんのかすかに、息がふるえる。痛みをこらえるように聞こえた。

 どうすればよいか、なにもわからず、鼓動がせわしくなっていく。それを、おそろしいと感じる。おそろしいのに熱くなるから、いま、生きているらしいと思う。いま、生きていられるのだと、どうして生きているのだろうと。そしておぼえず、こぼしてしまう。ぬなとさま、と。呼んでしまった。

 花や、果実をはきだしたよう。やわくまろやかな舌ざわり。ひどくやさしく、かなしいあまみ。舌の先に残された余韻に、実緒が茫然としていると。瓊音は実緒の肩から離れ、もうしわけありませんとつぶやき。背中を向けて、行ってしまった。

 実緒はその場に立ったまま、なにか言うことさえできなかった。静かな足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなってしまった。気づくと、胸を押さえつけていた。せわしく脈打ち、熱かった。けれど、首筋はひんやりとする。風に撫でられるせいではなくて、瓊音の気配が残っているから。

 実緒はそろりと手を動かして、余韻の消えない首筋にふれた。ゆっくり、肩先までたどる。きょうは、手を取りあうだけではなかった。それははじめてのことだった。

 もしかして、なにかあったのだろうか。いつもなにかがあるけれど、きょうはとくに堪えたのだろうか。幾度も耐えたことだからといって、きょうも耐えられるとは限らない。実緒は、ふかく息をして、すこし落ち着いてからきびすを返した。厨へ足を向けていた。

 比佐はきっとまだ起きている。もしかしたらもう眠っていて、起こしてしまうかもしれないけれど、ひとつ、思い立ってしまった。落ち着いたはずの心の臓が、ふたたび騒ぎだしている。実緒は衿もとをきゅっと握って、小走りに厨へ向かった。





 比佐はまだ起きており、快く迎え入れてくれた。そのいつもの笑みを目にして、実緒は思わず泣きそうになった。瓊音に、なにかを差し入れたかった。

 瓊音は、寝食さえ必要ない。ここでの暮らしが流れていくほど、それはほんとうだと身に沁みてくる。ここへ来てからいままでいちども、休んだり食べたりしているすがたを見ることができていなかった。なにかを差し入れたこともなかった。でも、きょうは。

「さきほど、お会いいたしましたら、とてもお疲れのように感じたのです。でも、なにか召しあがるのは、おつらいとお聞きしましたので、でも……」

 実緒は向かい側の比佐に話した。あいだに挟んだ囲炉裏には、炎をまたいで五徳が据えられ、その上に置いた鍋の中では、水がふるふるとゆれている。

「飲みものならと、考えまして、お水はお飲みになっているので……。あたたかいものでも、お飲みになると、すこし、ほっとできたりしないだろうかと……、ご迷惑だとも思うのですが……」

 あちらこちらにゆれつつも、炎は水をあたためていく。おもてにふつふつとあぶくが浮かび、ほの白く湯気がたなびきはじめる。

「急に、思い立ってしまって、なにかお聞きしたわけでもないのに……」

 じっとしていられなくなり、ここへ押しかけてきてしまった。きちんとした説明をするのも、ずいぶん遅くなってしまった。言葉にするとなさけなくなり、実緒は比佐に頭をさげた。

「比佐さんにお手間を取らせてしまい、ほんとうにもうしわけありません……」

 これは、余計なことでしかない。手前勝手な都合なのだ。あのひとを、あのままにするのはいやだ。あれを最後に眠れはしない、だからもういちど、そばへ行けたら。白湯を差し入れようというのは、きっとそのための口実だ。

「実緒さま」

 比佐が、やわらかく呼ぶ。わざわざ実緒のそばへ来てから。

「実緒さま。ありがとうございます」

 どこまでも、あたたかな声音で言った。

「わたくしも、ほんとうにうれしいのですよ。実緒さまが、瓊音さまを思ってくださって、とても、とてもうれしいのですよ」

 慈しむような笑みを向けられ、くらりと、目の前がうるんでゆらぐ。比佐はゆったり、おだやかに続ける。

「瓊音さまね、実緒さまがいらすまでは、お帰りにならないこともあったのですよ。ひと月とか、ふた月とか、ぜんぜん帰ってこないのです。ようやくお帰りになったときにも、とくに、なにもおっしゃいませんし。ついついおたずねいたしましても、あまりおこたえくださりませんし。そういうふうでいらしたのですよ」

 まったくしようのない若さまですと、比佐はため息と一緒に言った。でもね実緒さま、とふんわりほほえむ。

「実緒さまが来てくださってからは、遅くともちゃんとお帰りになります。実緒さまとお会いするたびに、おすがたをお見かけするたびに、ほっとなさっているのでしょうね」

「え、いいえ……」

「そのようなごようす、あまりお見せにならないのでしょう? でもわたくしはね、そうだと思います。実緒さまが、来てくださってよかった。わたくしだって楽しいのですよ、こうしてお話ができますし、一緒にいろいろとこしらえられますし、日々に色のついたここちですよ」 

 実緒は、こたえられなかった。そんなことはないと、思った。

 実緒の体調もよくなったので、ここへ来た祝いをしようと、比佐が先日言ってくれたのだ。けれど、断ってしまっていた。瓊音にそのつもりはなさそうだし、つとめを休めるわけでもない。なにより、祝うことではない。手間がかかるし、三月みつきだけなのだ。瓊音は、比佐に言っていないのかもしれない。障気しょうきから助けだしてきた者を、妻にするとは話しているようだけれど。比佐の言葉の端々から、それはなんとなくわかっていた。

 居座っているとは思いながらも、出て行く決心はつかなかった。約した三月にすがっていた。だから、白湯を用意するのは瓊音を思ってのことではなく、瓊音に会う口実でもなく、途中で切り捨てられないため。もしかすると、そうなのかもしれない。そして、切り捨てられたくないわけは。きっと、ひどくあさましい。

「あ、実緒さま。お湯が沸いておりますね、火からおろして、すこし冷ましましょう」

「あ、はいっ、そうします!」

 比佐はあたたかな笑みをくれる。包まれるここちがしてしまう。冷えきって疲れたあのひとに、この手でおなじことができれば。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ