十八 裏山へ
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穂と透也が帰ってしまうと、実緒は夢見ごこちになった。なんだか、身体がふわふわとして、どこまでも走れそうな気がした。ふたりが明るくまぶしかったから、そのひかりにあてられたのだと思った。いるだけでその場がはなやいで、ひとのこころの中までも、照らして軽くしてしまう。穂はきらめく涼風で、透也は晴れ色の空だと思う。なんてことだろうと、うっとりしていた実緒は、派手に躓き転んだ。比佐に、もう寝なさいと言われた。
急にきらきらしたものをいっぱい浴びて、すこし疲れている気もしたので、実緒は比佐の言うことを聞いた。横になるとすぐ眠りに落ちて、目覚めるとすでに夕刻だった。夕餉のしたくはできなかった。
部屋まで夕餉を運んでもらって、食べたあとまた横になった。無理をしてはならないと、比佐はゆったり言ってくれたけれど、なさけないことこのうえない。なんの役にも立っていない。役に立てるとは思わないので、あたりまえのことかもしれない。それから、まだあのひとは、つとめからもどってきていない。
実緒は、ゆるりとまばたきをした。油がもったいなかったので、明かりを消してしまっている。それでも目が慣れてきており、褥のしわや畳の溝も、薄闇の中に見えていた。
きょうは一日じゅうよい天気で、暑いくらいだったけれど、いまはすこしだけ肌寒い。衾にしっかりくるまりたくなる。こんなふかふかした掛布などなくても、ずっと、平気だったのに。
ふと思う。弱くなっていくのではないか。このままどんどん弱くなって、ひとりで起きられなくなるのでは。
ぞっとして、実緒はとび起きた。滑って落ちた衾のかわりに、うす寒い空気が肩を抱く。急にこころもとなくなって、ぎゅっと、目を閉じると見えた。幼い香於の、笑みだった。
ゆるさないと、責めてなどくれない。ただ屈託ない笑みだった。浮かべないようにしていたのに。夢にも見なくなっていたのに。どうして。
おぼえず悲鳴をもらし、さらに強く目を閉じる。香於のほがらかな笑顔ばかりが、頭になだれこんでくる。ゆらゆらゆれる振り分け髪に、きらきらひかる大きな瞳に、桃みたく丸く色づいた頬。手鞠のはずむような声音で、あねさま、あねさまと呼ぶのだ。
香於と、実緒は、母がちがった。実緒は生みの母を知らない。実緒を生んだあと、はかなくなった。その一年ほどのちに、父はふたりめの妻を迎えた。そのひとは実緒を慈しんだ。実緒にとって母はそのひとだった。やがて香於が生まれても、それはすこしも変わらなかった。
美護の都からやってくる国守の補佐をしている父も、忙しいつとめのかたわら、娘をよく気にかけていた。香於も、実緒もふたり同時に、ふわっと抱えあげることができた。それが、とても楽しくて、ふたりで幾度もせがんでいた。ときおり父が実緒を呼び寄せて、ふたりで話すこともあった。
父と母にだいじにされて、かわいらしい妹もいて、実緒はとてもしあわせだった。とても、とてもしあわせだった。こんな子はほかにいないだろうと、幼いながらに思っていたのだ。こんなにしあわせな子はいない。けれどもあの日、すべて変わった。
香於と、邸の裏山へ、よく遊びに行っていたのだ。ふたりでそこを探検するのが、実緒はとてもすきだった。ふたりで手をつないで歩き、虫や鳥を見つけて立ちどまり、花を摘んで輪をつくったり蜜を吸ったりすることが、なによりも楽しかったのだ。
父と母はそれを知っていたけれど、知らないふりをしていたようだ。あまり遠くへ行ってはならないと、それとなく言うだけだった。木の陰から、従者の郁真がのぞいているのに気づくこともあった。だいじに見守られながら、ふたり一緒にたくさん遊んで、そして、香於だけ死んでしまった。
障気が集まっているところが、あった。さほど溜まっていなかったのに、近づくとゆるゆるうごめきだした。実緒はすこしも動けなかった。それなのに実緒だけ助かった。
あねさま、とさいごにいった。あの日。あのひ、すべてかわった。
「香於……」
衾から這い出した。
「待って、香於、おねがいまって────」
なにを、言おうともう遅い。香於はもうどこにもいないのだ。待って、などと言うのであれば、いまここにいるのはとてもおかしい。
居ても立っても居られなくなり、実緒は立ちあがっていた。御簾をめくってくぐり抜け、転がるように廂へ出ていく。蔀戸はもう閉めてあるから、横の妻戸を押し開ける。ひやりと、夜風が首に絡んだ。しばらく、茫と立ち尽くし、ふいになにかの音をとらえる。とたんに実緒は、駆けだしていた。
聞こえてきたのは、声だった。あたりに響くというよりは、広がり染みこむ気のする声だ。実緒は、ただその声を求めて、ひんやりとした夜を進んだ。
渡殿を走り通り抜け、主殿へ向かい母屋を横切り、声が近づいていると逸って。そのまま階を駆けおりていき、ぱっと顔をあげて、見つけた。




