十七 いちど
瓊音は、思わず立ちどまった。なにげない口調だったのに。
「おまえ最近しょげてたもんな」
最近しょげてなどいない。いつもいたって平静である。そうこたえようとして、そうではなかったと思い出す。実緒をここへ連れ帰ってから、そのあと実緒が倒れてから、ずっとどことなく落ち着かなかった。
「よかったな、元気になって」
透也はもういちどそう言った。
実緒は痩せており顔色もよくなく、まだすこやかとは言えないようすだ。それでも、熱に浮かされてはいない。瓊音は透也を振り返り、よかったとうなずいてみせた。透也はやわらかく目を細めた。
「ただ、ちょっと、心配かもな」
そう言って歩み寄ってくると、瓊音の背を思いきり叩く。ちゃんと見とけよと忠告するので、瓊音は、見ているとこたえた。目を離すことなど、できないだろう。
実緒というひとは、そのすがたとようすから、たいせつにはされていなかったとわかる。上等の衣を着てはいたが、障気の贄として捧げられていたのだ。贄とされ捨て置かれていたのだ。でも、あのひとは生きていた。
障気は、ひとから生まれ出るもの。大神とは関係がない。障気に贄を捧げるか、捧げないかということも、ひとが勝手に決めることであり大神のあずかり知らぬところだ。大神はとくべつの情けとして、「神子」に力を授けるのみ。ひとの世に、じかに手をくだしはしない。よって障気の氾濫や、贄を含むひとの死を防げるか否かは、「神子」の力量にかかっている。
当代の「神子」の瓊音は、大神の御言も力もうまく受けとめることができていない。受けとめるためのすべはわかるが、それすらどうにもうまくいかない。そのせいで、いつも間に合わない。贄とされたひとに間に合わない。力不足のために死なせる。
障気の贄とされたひとたちは、瓊音がたどり着いたときにはすでに障気にふれている。その場はあらかた鎮まっており、そのひとたちはこと切れている。瓊音は残った障気を鎮め、果てには静寂となきがらばかり。日に日に、それの繰り返し。でも、あのひとは、生きていた。
石舞台の上に座し、ほほえむすがたを目にしたときに。はじめて、間に合ったとふるえた。同時に、瓊音は悟ってしまった。はじめて、生きて出会えたひとは、すべてを捨て去ろうとしていた。
舞のあとの障気より、あっけなく消えてしまう気がした。だから、逃げろとは言わなかった。いちど、離れろとそれだけ命じた。目の前があかく明滅するほど、必死の思いで障気を鎮めた。
でも、離れてはくれなかった。いまだ鎮めきらない障気に、駆け寄ってふれようとしていた。その前も障気に乗ろうとしていた。やはり消えてしまうと思った。いやだ。それだけはいやだだめだと、あのとき、全身が絶叫していた。
わざわざ妻にと言ったのは、相応の扱いをしようと伝えるためのことだった。固辞されるばかりだったので、時の限りを持ち出した。どこへなりとも連れていく、障気のそばでもよいとか言った。そう言えばきっと動かせるだろうと、なんとはなしに思ったからだ。やはりあのひとはうなずいた。やはり、障気のそばをのぞんだ。
それでも、かまわないと思った。衣も髪も雨に濡れており、高い熱さえ出していたのに、そのまま抱きすくめて、そのまま。もし、あのとき腕の中で、気を失ってしまわなければ。なにをしていたかわからない。
熱さが、ひどくここちよかった。速い心音に泣きたくなった。このひとは、生きているのだと、こうしてふれていられるのだと、芯からとけていきそうだった。これはあまりにも、勝手な話だ。大神の力を笠に着て、不遜で、姑息で卑劣なことだ。相応の扱い云々も、実際建前でしかなかった。おのれを納得させる建前。本音は、そんなところにはない。
妻に、などと言ったのは、手に入れてしまいたかったからだ。おまえはおれのものになれ、おれのものだと言いたかったのだ。おれのものだから、消えてはならない。消えないでほしいおねがいだから。あたたかい、やわらかいあつい、あつくてあついままでいて。
まるで、幼子の我儘だ。どうしても、どうしてもほしかったのだ。だから、妻になってくれと、乞うた。いのちにふれていたくて、それがゆるされる立場を乞うた。どうしようもなくほしかったから。かたちばかりのものだとしても。
生きたいのちが、ほしかったから。きっとそれだけのことだから、きっと、あのひとでなくともよいのだ。もう気がついているというのに、それでもあのひとにふれようとする。すこしだけ、などと言いつつ、あのぬくもりにふれようとする。もう、手放すことなどできない。はじめから手放すつもりなど、なかった。
瓊音は奥歯を噛みしめた。ぞわぞわと、虫の這うような悪寒が、いまだ止まらず強まっていく。このようなことを考えているとは、だれにも、透也にも打ち明けていない。
「身体だいじにしなければならない。実緒さんの夫であろうが」
突然、透也がしかつめらしく、やたらと平らな口調で言った。瓊音ははっとわれに返った。透也は半分笑いながら続ける。
「どうだ。あほほどそっくりだろう。これは、おまえのまねである」
瓊音が顔をそむけると、透也は小さくため息をつく。
「なあ。なあ、瓊音さんよ。そんなに想ってるんならさ、いますぐ会いに行きゃいいだろ。なんかいろいろ顔に出てんぞ。べつに、そこまで急いで出かけること……」
言いさして、大口開けてあくびをする。
「出かけること、ねぇだろ。朝餉の支度とかしてるけど、おれらは即刻退散可能よ。いろいろしたってべつにいいんじゃねぇ、だってもう夫婦なんだしさ」
「そのような考えは下衆だ」
瓊音がきっぱりこたえると、透也はぐるんと首を回した。うん、そういうこと言うと思った。
「けど、ひとめ惚れしちゃったんだろ? 急に連れて帰ってくるし。実緒さんも、いいって言ってくれたんだろが」
「いいとは言ったが言っていない」
「はぁあ?」
透也はあきれ返った声を発し、なんかよくわかんねぇけどさ、と両方の眉をひん曲げた。
「すでに連れて帰っておきながら、なにをおっしゃっているんでしょうか。あんま、こじらせんほうがいいと思うぞ。かえって悩ませそうだしさぁ……あ、ねみぃ」
「そこに横になれ」
「うん、ありがと。そんな眠くねぇよほんとは」
「そうか」
瓊音はその場を離れた。あまくきよらかな花の香が、どこかでくゆっているらしい。息を詰め、御統を呼ぶ。




