十六 回って
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朝餉のすこし前のこと。瓊音はひとり居所におり、つとめの支度を整えていた。
意識せずとも身体が動く。浄衣を着こみ、佩緒を結ぶ。途中、笑い声が聞こえて、瓊音は思わず手を止めた。厨からだとすぐにわかった。そこにはいま、比佐だけでなく、透也も穂も、実緒もいるのだ。
実緒というひとは、今朝ようやく床払いができたと思えば、朝餉の支度を始めている。家の仕事をさせてくれと言って、譲らなかったと比佐から聞いた。熱がぶり返すなどしなければいい。比佐がよく見ておくと言ったので、きっと心配ないのだろうが。きょうは透也と穂も現れやたら騒がしくなっているものの、ふたりも存外こまやかなので、なにかあればすぐ気がつくだろう。
瓊音は、軽くまぶたを閉じた。いまはつとめの前なのに、かかわりないことを考えていた。いちど短く息をつき、ゆっくりと目をひらく。腰に佩いた太刀の歪みを直すと、支度は整った。居所を出ていこうとしたとき、ふと文机が目に入る。上に紙を置いたままだった。
文机の前に片膝をつく。黒い漆塗りの文箱を開けると、出しっぱなしの紙をしまった。文箱の中に入れてあるのは、障気を鎮めたときの覚書。日に日に記し、残してきた。いま片づけた一枚は、今朝方記したものだった。
夜半に神言がくだったので、都から離れた国へ赴き、障気を鎮めて帰ってきたのだ。どこであっても御統にかかれば、ひとっ飛びでたどり着いてしまう。そのため、夜も明けきらないうちに邸にもどってくることができた。
今回、障気がわだかまっていたのは、町の片隅の荒屋だった。だれも気づいていなかったのか、用意がまだだったのか。そばに贄のひとはいなかった。瓊音はその場にあった障気を、粛々と鎮めただけだった。
「おい、瓊音」
透也の声だ。瓊音ははっと目をあげた。大股で渡殿を歩き、近づいてくるすがたが見える。いつの間に、どうしてこちらへ来たのか。瓊音はすぐに立ちあがり、御簾をくぐって居所を出た。
「もう行く?」
廂に立った透也が、軽い調子で問うてくる。うなずけば、ひょいと肩をすくめた。
「忙しいな」
「そんなことはない」
「あるだろ」
「ない。おまえのほうが」
「そうね、都を守るんだからね、矢面最前線だからね」
「ほんとうにありがたい」
「いやほんとにね、こちらこそだけど」
透也は大きく伸びをする。
「こっちは昼まで非番だけどさ。瓊音は今日どこまで行くんだ?」
「ぜんぶだ」
「あれま。そりゃそうだろな、でもそれおまえ、あれじゃねぇのか」
透也は眉を寄せ、瓊音を指差す。
「毎日洲じゅう回ってさ、ずっとそういうふうにしてたら、御統さんが疲れるんじゃねぇ」
「御統は神使だから多少酷使しても問題はない」
「いや、ちょっと待てひどすぎる」
「ひとを指差してはならない」
「すまん、けどそれ関係ねぇだろ」
透也は頭を掻きながら笑った。
「おまえは、神子さまだとか言うけど神使さまじゃないんだし、神さまでもねぇんだからさ。ひとだし生身なんだからさ、酷使しちゃまずいんじゃねぇの」
「かまわない。さほどひとでもない」
「そうかもだけど。おまえのことほっとくなよ」
言ってもしょうがねぇんだけどな、と透也はまた伸びをした。瓊音は口を引き結んだ。
神言がなくとも洲を回って、鳴詞と舞を捧げている。詞と舞には、周辺一帯の障気を落ち着かせる効用もあるのだ。たやすく暴れださないように、多少は抑えることができる。よって、洲じゅうに場所を定め、毎日赴き舞うと決めている。御統がいるので造作ないことだ。神言を受けていないときでも、厠へ連れていけとかでなければ御統は背に乗せてくれる。
出かける前の朝いちばんには、邸の庭で舞っている。その前にいつも水汲みをするが、きょうはなぜか水汲みだけ忘れ、透也にやらせることになった。なにか調子が狂っている気がする。
「まあ……、べつにいいけどさ。いつもしてること忘れるぐらい、頭の中いっぱいらしいし。まともに帰ってくる理由らしいし。ここもまたにぎやかになるのかね、いいな、すげぇ楽しみだ」
透也が妙なことを言っているので、とりあえず聞き流しておく。ただ、確かににぎやかだった。主が明るかったので。邸の主夫婦だった父母は、ふたりとも病でなくなっている。瓊音が神言を受けはじめ、真名を忘れて瓊音になって、そのすぐあとのことだった。
おのれが神言を賜るまで、いま負っているつとめのことなど瓊音はすこしも知らなかった。はじめて神言を受けたとき、急にいろいろなことがわかった。
だれにも教わっていないのに、障気の鎮めかたを知っていたのだ。鳴詞を唱えられたし、舞も身体が勝手に動いた。そしてあるとき勅使が来訪、おつとめご苦労と告げてきた。
なんでも帝の一族には、神言を受けるようになった者を見守る役目があるのだという。見つけだして世話をして、子孫があれば八代先まで恩典を与え続けるらしい。神言を受ける「神子」というのは血筋で継がれるのではなく、だれがなるかわからないものだ。見守り役も難儀だろう。瓊音も禄をはじめいろいろと、よいものを与えられている。下級官人のつつましい住まいだったところが、広がりこの邸宅になった。美々しい太刀も渡された。
しかし「神子」は、祀りあげられることはない。むしろそのほうがよいのだが、存在を知っているひとすら少ない。忘れ去られたように暮らす。真名をなくし、血族をなくす。寝食がここちよいものでなくなり、身体が冷たくなっていく。ひとが大神の御言を賜り、力までを宿すのだから、そのくらいは代償とも呼べない。いのちが削れるのでもないのだ。
ふいに、悪寒が背を走る。風邪を引いているのとはちがうので、たいていがすぐにおさまってしまう。瓊音は押し黙ったまま、透也の横をすり抜けた。するとうしろから投げかけられた。
「実緒さん、元気になってよかったな」




