十四 晴れ空
桶を振りかぶったまま固まる実緒に、そのひとはふかぶかと頭をさげた。怪しいことはわかっているが絶対怪しい者ではないので、どうかご容赦ねがいたいと言った。そして、透也だとなまえを告げた。
実緒がまごついていたところ、比佐が駆けつけてきてくれた。透也さん、と親しげに呼ぶので、実緒はようやく桶をおろした。
「実緒さま、このかたはだいじょうぶです。怪しい輩ではなく透也さんですよ。瓊音さまのおともだちでいらして、ほら、お話した」
比佐の言葉に、はっとする。確かに、よく訪ねてくるひとのことは、比佐が教えてくれていた。落ち着いてすがたを見てみると、話に聞いたとおりのひとだ。なまえも。
すっかり呆然となり、実緒はその場に棒立ちになった。比佐は笑いをこらえるらしく、袖を口もとにあてがっている。透也は、その横で頭を掻きつつ、しぼんだ声で実緒に詫びた。
「すみません、おどかすつもりはなくて。厨にあいさつに行こうとしてて……」
実緒は慌てて首を振った。このひとが詫びることはないのだ。案じてくれているとも聞いたのに、勝手に盗人扱いをして、桶を振りあげるのがわるい。実緒は透也に身体を向けると、ふかぶかと頭をさげた。
「もうしわけ、ございません……」
「いやおれのほうが、すみません、気楽に入ってきすぎたんです。慣れてるからってよくなかったです」
透也は慌てているようだった。でも、どこかしらほがらかで、おかしみがあるようにも聞こえる。
「そりゃびっくりしてあたりまえです。知らん男が邸にいたら、びっくりするしこわかったでしょ、けど」
勇ましいんですねと言って、ひょいとのぞきこんでくる。おそろしい巨漢に見えた透也は、明るい目をした若者だった。やはり瓊音より骨太だけれど、齢はおなじくらいに見える。
「でもやっぱり、よしたほうがいいですよ。知らん男に立ち向かおうとか、だめです」
からりと、透也は笑う。快活な晴れ空の笑みだ。実緒はつい、素直にうなずいていた。
「そう、ほんにそうですよ実緒さま。怪しい輩などが出ましたら、ただちにお逃げくださいませね」
比佐に肩をゆすぶられ、実緒はまた、こくりとうなずいていた。
「はい、きっとそうします……」
「うん、きっとそうしてください」
かろやかな返事をくれた透也は、さっと実緒から桶をさらって井筒の内へ投げこんだ。ぼちゃんと、遠く水音がはじける。あまりにも素早い技だった。
「でもよかったですよ、元気になって」
釣瓶縄をかるがる手繰りつつ、透也はやはりほがらかに言った。
「そろそろ、会えるかもなぁとは思ってたんですけど……、だめだったな。おどかしちゃった」
比佐が持ってきた大きな盥に、汲みあげた水を流し入れていく。ぴしゃんと、しぶきがやさしく跳ねた。
「印象よくしたかったんだけどなぁ……」
透也は大きなため息をつき、もういちど桶を井戸へほうった。またするすると引きあげはじめる。
「急に、女人とか妻とか言うから、天地かえったと思ったけど。すかした顔してすかしやがって、さすがの瓊音さんですよもう、まったくもってうらやましいな」
井戸へ向かってなにか言いながら、水を汲む手を止めることはない。そんな透也に、比佐がほほえむ。
「あらそうですか? 透也さんでしたら、あこがれていらすような女人も、たくさんおいでかと思いますけれど」
「そう? 比佐さんが言うんならそうかも。けどぜんぜん見つけられないですよ、ちょっと出てきてくれませんかね」
「まあ、なにをおっしゃいますか。目かっぴらいて見つけませんと」
「ひぇ」
いつ、お礼を言ったものかと、実緒は透也をじっと見ていた。あんまりさりげなく動くので、水を汲んでもらっていることも忘れてしまいそうになる。お礼もすっかり遅くなった、いまさらだろうかとためらっていると、透也がくるっと振り向いた。瓊音とね、と実緒を見て言う。
「まあまあ前からのつきあいなんです。いろいろ、愚痴とか聞いてください」
いたずらっぽい笑みと口調から、仲がよいのだろうなとわかる。じんわりと、胸があたたかくなり、実緒はすぐに返事をしていた。
「はい、お聞かせいただきたいです、どうぞよろしくおねがいいたします」
「はい、こちらこそおねがいします」
楽しそうに応じた透也は、すこしだけ声を低めて続けた。
「ばれたら処されるやつもあるんで、おれが喋ったってことは内緒で。瓊音あいつ、すぐ手とか足とか、出してた────」
そこで、言葉が途切れる。透也は動きを止めてしまって、目だけをぱちぱちさせていた。実緒のうしろを見ているらしい。なんだろうと振り返ってみる。
「ざんねん。処されるかもね、透也」
その声は澄んだ風に似ていた。実緒のうしろに立っていたのは、小柄で華奢な、ひとりの少女。淡黄の水干と袴をまとい、みどりなす髪を高く結わえて、さらりさらりとなびかせている。男の童のような格好だけれど、少女なのだとすぐにわかった。淡黄からのぞく手や足が、とてもしなやかでたおやかなのだ。実緒は思わず、見惚れてしまう。
整えられた衿から続く、ほそやかな首と顎の線。珊瑚の色の唇と、黒くきらめく大きな瞳。白磁の肌に、よく映えている。ああ、なんて。
「おはようございます!」
少女の声がまっすぐとどいて、実緒は、目をしばたいた。まぶしいようなふたつの瞳が、こちらに向けられていると気づく。
「あ、はいっ、おはようございます!」
ひさしぶりに大きな声が出た。実緒は口を押さえたけれど、少女はおどろくふうでもない。
「やった、なんかうれしいなあ……」
すこしうつむきかげんに言って、軽快に歩み寄ってくる。
「あのね、わたし穂といいます。そこのあほな透也と一緒で、よくお邸に押しかけてるの、聞いてるかな。よろしくね」
実緒ちゃんって、呼んでいいかな。穂は、はずむように問う。きらめく風に誘われるここちで、実緒はすぐにうなずいた。
「はい、よろしくおねがいいたします」
「やった、よかった! ありがとう実緒ちゃん!」
穂は小さくこぶしを握り、もったいないほどいっぱいに笑う。かがやかしいその笑みの向こうの、真白い影に、目がとまる。瓊音がいる、と気づいたとたん、実緒は衿もとを握りしめていた。透也と穂の明るさのためか、瓊音の真白い静けさのためか。きゅっと、胸の奥が痛んだ。




