十三 釣瓶桶
三月だけの約束については、瓊音が伝えているかも知らず、実緒からはなにも言っていない。ゆっくり背筋を伸ばしてみると、比佐がこうべを垂れていた。
「比佐さん……?」
思わずなまえを呼んだ。比佐は静かに顔をあげ、のどやかな笑みをのぞかせる。なにかを、言いたそうにも見えて、どこかしらさびしそうにも見えて。
「こちらこそ、どうぞあらためまして、よろしくおねがいいたします、実緒さま」
「はい────」
「ところで、瓊音さまはもう、お目覚めになっているはずですよ。お庭にいらっしゃるかと存じます」
比佐の言葉に、実緒は慌てた。
「あ……あ、そうなのですね……」
「ええ、さようにございます。実緒さま、お会いしにいらしては?」
「えぇと、それは、朝餉のことが」
「あらあら。もう、実緒さまったら」
それならお支度、はじめましょうか。比佐はにこにこしながら言うと、厨のほうへもどっていく。実緒は小走りにそれに続いた。ここの厨に入るのは、もちろんはじめてのことだった。板戸の前で一礼をして、実緒はそろりと踏み入った。
入ってすぐは、竈のある土間。そこから高めの段を上がると、こぢんまりした板の間がある。囲炉裏が備えつけてあり、奥には、くるくる巻いた筵がこんもりと積みあがっている。手前の囲炉裏のまわりには、いろいろな道具がありにぎやかだ。
大きさかたちがとりどりの籠、足つき俎板、研がれた刀子、拭きあげて積んだ折敷や椀や、見覚えのある盥など。それでも、雑多な感じはしない。清潔で、あたたかみがあった。
生家の厨は、もっと広くて、整然としていたけれど。こんなおだやかなぬくもりを、感じることはできなかった。
実緒は妹がなくなってから、生家で炊事や掃除をしていた。それまではしてもらうばかりだった。いろいろなことがあったけれども、追い出されなかっただけましだった。いや、もっと。もっと、早く、追い出してくれたほうがよかった。
里の近くの山の中、障気が溜まり、あふれかけていた。それで、贄となるよう言われ、倒れこみそうにほっとしたのだ。あがなえるのかもしれないと。けっして、そんなはずはないのに。
「ちょっと散らかっておりますけれど……」
はっと、実緒はわれに返った。比佐の言葉に引きもどされた。すがりつきたくなってしまって、ぎゅうっと袖を握りしめる。笑ってみせて、比佐にこたえる。
「いいえ、とてもすてきなところで、入れてくださってうれしいのです、どうもありがとうございます……」
「まあ、そんなふうにおっしゃいますと、おばばはよろこんでしまいますよ」
実緒さま、ありがとう存じます、と比佐はほころんでそう言った。あんまりやわらかだったので、実緒は思わず目をそらす。そして、土間の水甕のそばに、釣瓶桶が置いてあるのを見つけた。
「お水を、汲んでまいります……」
実緒は釣瓶を取りあげて、するりと厨の外へ出た。井戸は厨の前にある。比佐がなにかを言っているのに、身の入らないこたえを返す。いったい、なにをしているのだろう。
「──あっ」
短く声が出る。木組みの井筒の向こう側、影がゆらぐのをたったいま見た。実緒はその場に立ちどまり、その影にじっと目を凝らす。どうやら、ひとであるらしい。こちらのほうへ近づいてくる。実緒は動かず、なおも見据えた。
男のひと、のようだけれども、ちがう。あれは、あのひとじゃない。すらりと細身の瓊音に比べ、なにやらずいぶんたくましい。褪せた緑の水干を着て、袴の裾は膝丈で絞り、短い髪をきつく束ねて雀の尻尾のようにしている。
だれ。邸のひとではないし、客人にしてはあいさつもなし。まさか、もしかして盗人なのか。実緒は、きつく桶を抱きしめ、そのひとのほうへにじり寄る。
「もし、どちらさまでしょうか────」
とたん、そのひとが実緒を見る。その目が、大きくみひらかれたとき実緒はとっさに桶を振りあげ、同時に大きな声が響いた。
「えっ、いや待って、怪しくないです!」




