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瓊音のつまごひ  作者: 相宮祐紀
(二) 鎮守の舞
11/40

十一  向こう

 水差しの中がなくなりましたと、比佐ひさは部屋を出ていってしまった。実緒みおしとねの上に座って、そのまま、ひたすら固まっていた。そよ風にたわむ御簾みすを透かして、ひそやかな影が見えているから。

 無事に今度のつとめを終えて、もどったのだと、いま告げられた。でも、実緒にはわからなかった。おかえりなさいと迎えてよいのか。なにも言えずにいるうちに、向こう側から声がかかった。

「お加減はいかがですか」

 瓊音ぬなとの静かな問いを受けとり、はい、と実緒は背筋を伸ばす。

「もう、ほんとうに、おかげさまで、ずいぶんとよくなりました。たいへんお手間を取らせてしまい、ほんとうにもうしわけありません────」

 詫びてぬかづこうとする手前、そうですか、と瓊音が言った。遮るようにきっぱりしていて、実緒は思わず動きを止める。瓊音は平らな調子で続けた。

「すこしましならば、なによりですが。高熱を出されたばかりなのですから、ご無理なさってはなりません」

「はい、もちろん、無理なんか」

「なにか、食べられそうですか」

 問われて、返事に詰まってしまう。なにも食べないでいることはできない。空腹は感じないけれど、長らくまともに食べていない。いま、なにかをいただくと、もどしてしまうような気もする。

「あの、いま……」

「お急ぎにならず」

 瓊音は、実緒が言いかけたことを汲みとってくれたようだった。

「比佐がなにか、食べやすいものを用意できるかと思います。すこしずつでかまいません」

 実緒は、息を詰めてうつむいた。過分なほどにいたわられている。面倒をかけすぎている。役に立つというわけでもないのに。

「昨夜は」

「はいっ、もうしわけありません────」

 実緒はとっさに謝った。考えこみそうになっていたとき、瓊音がなにかを言ったから。瓊音は、しばし沈黙したのち、落ち着き払って言葉を継いだ。

「昨夜は、もうしわけありませんでした」

「え……?」

 どうして、わからない。頭の動きが止まってしまう。すると瓊音は、もういちど。

「もうしわけありませんでした。高熱が出ていたというのに。早く、気がつくべきでした。それに────」

 そこまで言って瓊音は、飲みこむように口をつぐんだ。そのとき、にわかに思い出す。おぼえずきつく、手を握りこむ。とても、冷たくやわらかかった。てのひらへくちづけられたのだった。そして、睫毛にくすぐられそうに近くに、瑪瑙めのうの瞳があった。ふかい艶黒に炎が映り、さらに近づき、見えなくなった。あのとき、抱きとめられていたのだ。

 思わず実緒は頭を抱えた。どうして、平気でいられたのだろう。熱でぼけっとしていたせいだ。いまおなじことになったとしたら、たいへんなことになりそうである。思い返してみただけで、もう身体じゅうが煮えそうだった。どうすればよいかわからない。瓊音は、御簾を隔てた向こうで、じっと押し黙っている。実緒は、なにか言うべきと焦り、焦って、はたと気がついた。まるでいたいけな乙女みたいに、うろたえている場合ではない。

 ここにいるのは、おかしなことだ。ひどくあさましく身のほど知らず。でも、いま向こうに座ったひとと、約してしまったことがある。三月みつき。三月のあいだは妻だ。

 三月が経ったそのあとに、行くべきところへいけるなら。それまでは妻でいると約した。くるしいくらいに気づかわれるのは、その約定のためなのだ。それなら、約したときまでは、妻らしいものであるべきだ。

 気づいた実緒は、座りなおした。大きく息を吸いこむと、御簾の向こうを見据えて問うた。

「あなたさまの、妻になるには、どのようにすればよろしいのでしょう」

「はい──」

「すこしばかり、お聞きしました。神子みこさまであられるあなたさまは、とうといおつとめにお励みです。妻にも、なにかございましょうか。なにも知らずもうしわけございません。ご教示いただけませんでしょうか」

「はい。とくべつなことはございません」

 瓊音のこたえは、声は透明。磨きこまれて過不足もない。だから、なるほどそうなのだろうと、たやすく納得しかけてしまう。

「ただ、すこし……」

 言いかけて。口を閉ざしてしまう瓊音の、影がわずかにゆれるのを見た。そのとらえがたい一瞬に、実緒はくらりと、誘いこまれる。知らず身体を傾けたとき、ふうわりと御簾がふくらんだ。それは、風のためではなくて、実緒はいっとき呼吸を止めた。

 御簾の下からわずかにのぞく。指先。瓊音が向こう側から、すこしだけ手を差し出している。細く整ったかたちの爪が、すこし青白く映るのは。あたりのうす暗さのためなのか、あるいは、そうではないのだろうか。見つめることしかできない小指。ためらいのようにわずかふるえる。気づいたとして、なにも言えない。言えない。鼓動が速まってくる。心の臓には指図できない、理由もわからずくるしくなるから、動かなくともよいというのに。

 実緒は両手を組みあわせ、胸もとを押さえつけていた。青い指先にみとれるままに、乱れる鼓動に溺れそう、もう逃げ出してしまいたいのに、それなのになぜか動けない。おそれが湧いたときだった。御簾を透かして、声がとどいた。

「すこし、ふれていただけませんか」

 実緒は、はっと顔をあげた。御簾があるため目は合わず、けれども、確かにそこにいる。

「いえ──いいえ。お忘れください」

 差し出された手が、離れてしまう。待って。とっさにねがってしまう。迷いも挟めず両手を伸ばし、そして、指先にふれてしまった。冷たい。ひとの感触だった。息を忘れてしまいながらも、とく、とく、とゆれている。

 昨夜は、もっと近かったのに。いまは意識が確かなせいか、手ざわりがやけにあざやかで。離れることもできずにいると、ふいに、瓊音がつぶやいた。とくべつなことは、ございませんが。

「ですが、つとめからもどったら。すこしのあいだで、かまいません。こうしていただきたく思います────」

 それでも、よろしいでしょうかと問う。すこしかすれたその声に、はいとこたえると、ふるえてしまった。そのために、ここへ来たのかもしれない。そのために生きていたのかもしれない。妙におおげさなことを思って、それを信じていたい気がして、そんなわけないと打ち消したくて。痛みにも似た余韻を残し、ふれた指先が離れていった。

「それでは……、長くなりました。どうかおだいじになさってください。またすぐに比佐が参ります」

 失礼しますと低く言い、瓊音はすっと立ちあがる。実緒は板敷に手をついたまま、その遠ざかる足音を聞く。呆然と、宙を眺めていると、比佐が水差しを手にしてもどった。

 おだやかな笑みをたたえた比佐は、実緒を見てちょっと首をかしげた。それですいっと力が抜けて、実緒は横ざまに傾いた。比佐は慌てず支えてくれた。

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