敷かれたレールからの脱却
私は、冷え切った心で冷静に事態を受け止めていた。すぐに派遣の生命保険会社の仕事を見つけ、仕事に没頭することで思考を止めた。
そんなある日、マンションの前に彼が立っていた。
今まで一度も私を待つことなどなかった彼が、そこにいる。
「もしかしたら、気が変わってくれたのかもしれない」
組織の陰謀だと理解しているはずなのに、愚かにも胸が疼き、淡い期待を抱いてしまった。だが、現実は残酷だった。彼はただ、一刻も早く離婚届を完成させるよう、私に執拗に懇願してきたのだ。
「簡単にサインしてはいけない」という父の忠告が頭をよぎり、私は躊躇した。けれど、必死な彼を前にして、ふと姉の言葉が蘇った。
「そんな場所にいつまでもいないで、心機一転、次の生活を始めたら?」
その言葉は、泥沼にいた私を救い出す清々しい風のように感じられた。
私は、既に舅の筆跡で保証人欄まで埋められた離婚届に、静かに署名した。
彼は、目に見えて安堵し、嬉しそうな表情を浮かべた。その無邪気な様子が、かつての愛おしい彼に見えてしまった私は、つい指先で彼のマシュマロのような頬をつんつんと突いた。
――その瞬間だった。
彼は、これまでの十年で一度も見せたことのない拒絶の仕草で、私の手を強く振り払った。
冷たく、無機質な拒絶。
ショックで泣き崩れそうな自分を、辛うじてプライドが支えていた。その手触りの消えた指先が、私たちの「地獄」の終わりを告げていた。
振り払われた手の冷たさは、私たちが過ごした時間が、体温を持たない「業務」に過ぎなかったことを物語っていた。
けれど、不思議と後悔はなかった。
姉が言った通り、私はようやく、あの息詰まるような見えない檻澱から外へ出ることができたのだ。誰かの思惑に振り回され、演じ続けてきた妻という名の役者は、もうここにいない。
御茶ノ水の桜が舞う中、私はかつて自分を操っていた見えない糸を、そっと手放した。
あの十年が誰かの書いた脚本だったとしても、そのページをめくり、最後に『完』と書き込んだのは、他の誰でもない私自身だったのだから。




