表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/8

敷かれたレールからの脱却

私は、冷え切った心で冷静に事態を受け止めていた。すぐに派遣の生命保険会社の仕事を見つけ、仕事に没頭することで思考を止めた。


そんなある日、マンションの前に彼が立っていた。


今まで一度も私を待つことなどなかった彼が、そこにいる。


「もしかしたら、気が変わってくれたのかもしれない」


組織の陰謀だと理解しているはずなのに、愚かにも胸が疼き、淡い期待を抱いてしまった。だが、現実は残酷だった。彼はただ、一刻も早く離婚届を完成させるよう、私に執拗に懇願してきたのだ。


「簡単にサインしてはいけない」という父の忠告が頭をよぎり、私は躊躇した。けれど、必死な彼を前にして、ふと姉の言葉が蘇った。


「そんな場所にいつまでもいないで、心機一転、次の生活を始めたら?」


その言葉は、泥沼にいた私を救い出す清々しい風のように感じられた。


私は、既に舅の筆跡で保証人欄まで埋められた離婚届に、静かに署名した。


彼は、目に見えて安堵し、嬉しそうな表情を浮かべた。その無邪気な様子が、かつての愛おしい彼に見えてしまった私は、つい指先で彼のマシュマロのような頬をつんつんと突いた。


――その瞬間だった。


彼は、これまでの十年で一度も見せたことのない拒絶の仕草で、私の手を強く振り払った。


冷たく、無機質な拒絶。


ショックで泣き崩れそうな自分を、辛うじてプライドが支えていた。その手触りの消えた指先が、私たちの「地獄」の終わりを告げていた。




振り払われた手の冷たさは、私たちが過ごした時間が、体温を持たない「業務」に過ぎなかったことを物語っていた。


けれど、不思議と後悔はなかった。


姉が言った通り、私はようやく、あの息詰まるような見えない檻澱(おり)から外へ出ることができたのだ。誰かの思惑に振り回され、演じ続けてきた妻という名の役者は、もうここにいない。


御茶ノ水の桜が舞う中、私はかつて自分を操っていた見えない糸を、そっと手放した。


あの十年が誰かの書いた脚本だったとしても、そのページをめくり、最後に『完』と書き込んだのは、他の誰でもない私自身だったのだから。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ