寿退社とドイツでの束の間の幸せ
そんなある日のこと。
同じ年に入社してきた一人の男が、私の視界に入った。
他の会社からの中途採用だという彼は、抜けるように肌が白く、清潔感に溢れていた。
育ちの良さを隠しきれないお坊ちゃま。それが第一印象だったが、同時に、妙な違和感も覚えた。
彼は海外営業の仕事を獲ることに、病的なまでの執着を見せていた。工場や船舶相手に無理難題を押し通し、一歩も引かないその姿には、どこか良心を削り取ったような冷淡さが見え隠れする。
(私のような冴えない女に、あんな人が興味を持つはずがない)
そう思っていた。
けれど、桜が散り始めたある日、彼は突然私に声をかけてきた。
営業の最前線で見せる鋭い眼光は跡形もなく消え、その頬はマシュマロのように柔らかく緩んでいた。彼は私をじっと見つめ、耳元でこう囁いたのだ。
「なんだか、君とは……自分と同じ匂いがするね」
御茶ノ水の風が、不意に冷たく感じた。
しかし、恋に飢えていた私はその「匂い」が組織という巨大な工場で精製された無機質な薬品の香りであることに、まだ気づく術を持たなかった。
その後、彼と交際を始めた私は、ほどなくして結婚。惜しまれながらの「寿退社」―
―それは、かつての私が思い描いていた理想のシナリオ通りだった。一見すれば、誰もが羨む円満な家庭。けれど、その幸福な仮面が剥がれ落ちる日は、刻一刻と近づいていた。
運命が動き出したのは、結婚から三年後のことだ。海外営業部にいた頃の私が抱いていた、あの得体の知れない不安が現実となった。
彼にドイツ赴任の辞令が下りたのだ。幼少期をカナダで過ごし、アメリカの大学を卒業した彼は、英語をネイティブ並みに操る。まさに念願のエリートコース。彼は子供のように顔を輝かせ、真っ先に私へ報告してくれた。その高揚が伝播したのか、私の胸をざわつかせていた不安は、いつの間にかどこかへ消え去っていた。
最初の三か月は、彼の単身赴任。
その後、追いかけるようにして私もドイツへ渡り、異国での新婚生活が再び幕を開けた。
見知らぬ土地での暮らしに心細さはあったが、彼はどこまでも穏やかで、私を慈しむように優しく接してくれた。その優しさに包まれ、私は「これこそが幸せなのだ」と自分に言い聞かせていた。




