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彼女の切望への裏切り

御茶ノ水の駅を降りると、聖橋から見える桜はまさに満開だった。


春の陽光を反射して眩しく輝く花びらは、これから始まる社会人生活への祝福そのものに見えた。けれど、その華やかさに身を置けば置くほど、私の心は冷たい澱おりが沈んでいくような感覚に囚われていた。




就業前のレクリエーションの場。そこに、彼女はいた。


ひと目で「選ばれた人」だとわかるような、容姿端麗な女性だった。しかし、彼女を何より輝かせていたのは、その外見以上に、内側から溢れ出すような仕事への熱意だった。


「私は、どうしても海外営業部に行きたいんです。そのために学生時代も準備してきました」


淀みのない声で目標を語る彼女の瞳は、未来への希望に燃えていた。


隣でそれを聞いている私の背中を、嫌な汗が伝う。


(私は……私は、ただお父さんに言われるままここに座っているだけなのに)


彼女の熱意に触れれば触れるほど、自分の輪郭がぼやけていく。コネという名の特急券を握りしめ、自分では一歩も歩まずに「海外営業部」というプラットホームに立とうとしている自分が、ひどく怠惰で、卑怯な人間に思えてならなかった。


「……すごいね、頑張ってね」


引きつった笑顔で返しながら、私は心の中で叫んでいた。


――ごめんなさい。そこは、たぶん私が座ることになる席なの。


辞退するなら、今しかない。そのことには気づいていた。


「私には分不相応です」と頭を下げて、このレールから飛び降りてしまえば、彼女はあんなに悲しまずに済んだかもしれない。私も、あんな暗い冬を経験せずに済んだかもしれない。


けれど、父の顔が浮かぶ。


「東和パッケージへ行け。絶対に行け」


あの断定的な口調。逆らうことなど許されない、家庭内の絶対君主。


今から思えば、父に何を言われようと、どれほど絶縁を突きつけられようと、あの瞬間に立ち止まっていれば、全ては丸く収まっていたのだ。

けれど、二十歳の私は、満開の桜の下でただ立ち尽くすことしかできなかった。


背後を走り抜ける中央線の轟音にかき消されるように、私は自分の意志を飲み込み、敷かれたレールの上をゆっくりと歩き出した。


その先に、出口のないトンネルが待っているとも知らずに。




「丙午ひのえうま生まれは、競争率が低くて得だ」


世間がそう囁く通り、私は県下有数の進学校に滑り込んだ。けれど、そこが私のピークだったのかもしれない。授業中は重たい睡魔に抗えず、成績は低空飛行のまま。それでも、私の中には「都内の四年生大学を出て、箔をつけたい」という、身の丈に合わないプライドだけが肥大していた。


結局、滑り止めとして受かったカトリック系のお嬢様短大へ進むことになったが、私の心はどこか冷めていた。英語課という看板を背負わされてはいたものの、就職活動という泥臭い努力をする気には到底なれなかったのだ。




私には、父が昔から口癖のように言っていた「魔法の言葉」があった。


『就職先に困ったら、いつでもお父さんの会社(第信生命)に入れてやる』


その言葉を文字通り、無条件の約束だと信じ切っていた私は、ある夜、夕食の席で呆れかえる家族を前に言い放った。


「お父さんが、第信生命に入れてくれるんでしょ?」


父の顔から色が消えた。姉や母の視線が突き刺さる。


「……お前、自分の力で探そうとはしないのか」

父の失望は明らかだったが、当時の私は厚顔無恥にも食い下がった。

「だって、いつでも入れてくれるって言ったじゃない。」


それが、私の「敷かれたレール」の始まりだった。




父は、かつて東和パッケージの幹部の娘の就職を世話したことがあるという「貸し」を使い、私の行き先を強引に決めてきた。


「東和パッケージへ行け。もう話はつけてある」


それは父なりの、出来の悪い娘への最後の救済だったのかもしれない。けれど、父は余計な「一言」を付け加えていた。


『うちの娘は英語を専門に学んできたから、ぜひそれを活かせる部署に』


冗談じゃない、と思った。英語課を出たからといって、英語で仕事ができるわけではない。私はただ、無難に国内の営業事務でもこなし数年で結婚して寿退社する――そんな、当たり前で平穏な未来を夢見ていただけなのだ。




入社前、同期が集まる研修。


キラキラとした瞳で「私は絶対に海外営業部に行きたいんです!」と語る女性がいた。


彼女の熱意に当てられながら、私は冷や汗が背中を伝うのを感じていた。


(私がその席を奪うことになったら、彼女は、世界はどう思うだろう)




祈るような思いで迎えた配属発表。


非情にも、私の名前は「海外営業部」の欄に刻まれていた。


隣で、あんなに熱望していた彼女が顔を伏せ肩を震わせている。


お父さん、どうして。


英語なんてできない。海外なんて興味ない。


私は、ただ「レール」に乗せてもらうつもりだっただけなのに。


突きつけられたのは、華やかなエリートコースという名の、私にはあまりに重すぎる、そして後戻りのできない片道切符だった。


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