プロローグ
お母様っ、もうすぐ私は7歳になります。その頃には外に行けるようになるでしょうか。もし僕が窓の向こうの靴屋まで行けるようになったならば、お父様に面会したいのです!一刻でも良いのです。乗馬の手ほどきをお父様にお願いしたいのです―――
「この役立たずが!」
目の前にいる背の低い男が何度も足で少年の膝を蹴る。はた目から見ても襤褸布からむき出しになっている膝は真っ青なのがわかる。
「お前が、チンタラ仕事してっから、俺達が、おまえの分まで、やらなきゃいけなくなるんだろっ!」
背の低い男はここぞとばかりに罵詈雑言を少年に浴びせる。その間、少年はずっと蹴られ続けていたわけだが、声一つ上げない。声を上げたところで誰も助けてくれないことを知っているからだ。
「図体だけでかくなりやがって…お前の母親も、どうせお前みたいにラマドーに似てたのかもな!アヒャヒャヒャ!」
ラマドーというのは遥か南にある山脈に生息している魔物で、威嚇の際に見せる二足歩行が巨人のようにでかいことから詩人たちがこぞって話に登場させる。もっとも、冬の寒さに耐えるために脂肪を蓄えたラマドーと、痩せてる割に身長の高い少年とではとても似ているとは言えないが。
「オラ!あんまり長く居てあの指揮官殿に見つかっても厄介だからな。ここまでにしといてやる。」
小男は近くの木に立てかけていた斧を片手に、先に休憩中のキャンプへと戻った。
あの男がいなくなると自然と呼吸がしやすくなる。
思わず小さな声が出た。
脚の痛みがいまになってジンジンと感じられるようになったからだ。
先ほどの下卑た男の表情がよみがえる。
声を出さないのは、己の小さなプライドを守るためでもあった。
斧を持ち、小男が向かった方向に沿って少年も足を進める。
その姿はこの暗い森から抜け、太陽に照らされることで消えてしまいそうなほど弱弱しかった。
キャンプまでの距離はさほどないとはいえども、少年にとってはそうではない。
彼は生まれてからここに至るまで、驚くほど体が弱かったのだ。
何とか息切れを起こしながらキャンプについた頃には休憩はすでに終わり、同僚たちが各々の道具を持ち森へ向かう準備をしている頃だった。
「おう。もう休憩は終わりだ。お前が遅いから、お前の分までセルスが食っちまったよ!ったくこの大飯食らいが!ヒャヒャヒャッ」
「あれシャルムの分じゃなかったのかよ!ラムド…すまねえな。」
小男、シャルムが数人の仲間を連れてラムドと呼ばれる少年を通り過ぎる。
少年には本当の名前があった。
しかし、呼びにくいその名に代わりラムドで呼び方が定着してしまったようだ。
ラムドは汗を拭い再び森へ向かった。
現場へ着いた頃には、今日のノルマが終わりそうなほどの大木が何本も地面に置かれていた。
ラマドは急いで今切られている木に向かった。
ラマドたちは国の北側に位置する大森林の伐採を仕事としている。
この地の領主が土地を広げるために募集がかけられていた仕事だ。
この仕事には日毎にノルマが決められている。このノルマを達成しなければその日の全員の給料は出ず、無料で提供してもらえる住処と食料と水も失う。
体力のないラムドにとっては、ノルマが個人制でないのが幸運だった。
「おい!ラムド!お前の斧は確かに様になってるが、体力が続かねえんなら意味がねえ!縄で枝でも縛ってろ!」
「…わかった。」
この通りラムドは役立たずだ。そんなラムドでも雇われているのは人材不足が理由だった。
この北側に大きく広がる森は魔の森と言われるほど魔素濃度が高い。
故に強力な獣や有害植物などが溢れかえっている。
ただえさえこの周辺の地域は、森からやってくる獣を恐れた住人が後方にある城塞都市に移り住み過疎になっているのだ。
最前線に立つ作業員たちは命懸けでなければやっていけない。しかしそんな仕事は誰もやりたがらない。
ここにいるのは、命を懸けるという点を除けば割の良い給金に目がくらんだ訳アリの労働者だけだ。
「おい、またシャルムのやつが魔術つかうってよ。」
どこからかそんな声が聞こえてきた。
この国では個人差はあれど、魔法を使うことができる人間がいる。貴族はもちろん、大体は聖職者や貿易商だ。その点でいえばシャルムはとても珍しい。明らかに高尚な出自の者ではないとではないとわかるからだ。そしてまた、ラムドも珍しかった。
作業もひと段落付き、全員がキャンプに戻ろうとした時だった。
馬に乗った男が作業場に向かってきていた。
「みんなーお疲れ様!今日もノルマ達成できたみたいだね!」
「指揮官様!いやー今日はここまで来てもらって申し訳ねえです。」
「いや僕も仕事が順調に進んでいるか実際に見ないとだからね。これも仕事だよ。今日はこの場で給金渡しちゃうから。」
「わっかりやした!おーい!みんな集まれー!」
労働者の中でリーダー的ポジションのシャルムが音頭をかけ、全員が一列に並ぶ。
「えー皆さんごくろうさま。今日も無事ノルマ達成できたみたいだね。見立てではここぐらいからキツくなっていくと思っていたから、正直驚いてるよ。早速給料をあげたいと思うんだけど、今日は僕の使用人がいないからな…どうするか。そうだ、ラムド君!君が代わりにみんなに配るんだ!」
「はひっ!?」
茜空を見上げボケっとしていたラムドは突然名前を呼ばれ変な声が出た。
それを聞いて指揮官は少し笑う。
「ほら、早くこっち来て。」
言われるがままに指揮官の持参したバスケットの中から小袋をとりだして同僚たちの掌に載せていく。数人はラムドを睨みつけながら受け取っていた。
仕事が終わり下がろうとしたときに、ラムドは指揮官がさりげなく自分のズボンのポケットに何か入れたのを見た。
「それじゃ、仕事も終わったことだし僕は先に帰らせてもらうよ。じゃあね。」
そういって指揮官はさっさと帰ってしまった。キャンプへと戻る集団の最後尾でラムドはポケットの中を確認した。入っていたのは一つの飴だった。飴は高級品だ。ラムドは昔食べた記憶を思い出し、幸せな気持ちになった。それと同時にあの指揮官がどうして自分だけに飴をくれたのかを考えようとしたが、疲労困憊のラムドでは到底結論に至らなかった。
飴を上に投げてつかんでを繰り返しながら進んでいると、あるところで掴み損ね、地面に落ちてしまった。慌てて拾おうとしたが地面の傾斜から後ろに転がってしまう。やっと止まった飴を掴もうとすると、その先に足があった。
泥で汚れた素足だ。
それを見た瞬間ラムドはある御伽噺を思い出していた。
魔の森に住む一族がいる。この国ができる前にこの地から移り住んでいて、奇妙な技や術がつかえる。口を糸で縫っていて襤褸布に裸足。森に踏み込むと悪戯されるぞ。だから絶対に森には近づくなよラムド。ああ、そうだ最近になってそいつらはこう呼ばれ始めたよ。
ラムドは頭を上げて確信した。
シャーマンだ、と。