【第三話】《夜を裂くもの》
最初に耳に届いたのは、「鳴き声」だった。
人でも獣でもない、もっと乾いた、ざらざらとした擦過音。
それはまるで、金属同士が軋むかのように、耳朶を鋭く刺し、背筋に冷たい凍りを走らせた。
「お母さん、あれ、なに……?」
幼い少女の声は震えていた。まだその異様な気配を理解できず、ただ不安だけが胸を満たしていた。
母は、その声に一瞬だけ目を細めたが、言葉を返す余裕はなかった。
路地の向こうから、焦げたような煙の匂いが静かに、しかし確実に忍び寄ってきていた。
そして――**灯**が消えた。
街灯も霊導柱も、次々とその輝きを失い、ぽつりぽつりと闇に呑まれていく。
街の明かりはまるで刹那の蜃気楼のように消え失せ、空間を支えていたざわめきが音もなく静寂へと変わった。
その闇はただの夜の闇とは違った。冷たく、鋭く、都市を根底から裂く闇だった。
遠くの空を切り裂くように、うねる赤い影が一閃した。
母の胸に走ったのは、理性を越えた凶兆の予感。
長年、この街で生きてきた彼女の直感は、絶対に裏切らなかった。
「夜の異変」――それは都市の片隅で囁かれ、誰もが口にしたがらぬ忌まわしい記憶。
今、その記憶が現実となろうとしていた。
「いい? 絶対に音をたてないで。走って、角のあの印まで……!」
母の声は鋭く、冷たく、けれど決して揺らがなかった。
娘の小さな手を強く握りしめ、震えを抑えるように路地の廃屋群の影へと身を潜めた。
廃屋の朽ちた壁が冷気を帯びて、彼女たちの背筋を何度も襲う。
足音ひとつ、息遣いさえもこの異様な闇には命取りだった。
何度も起きてきた不穏な事件。
だが誰も真実を知らず、語ることすら怖れた“夜の異変”の訪れは、容赦なく彼女たちを追い詰めていた。
遠くで、悲鳴と破裂音が交錯し、空気を震わせる。
母の心臓は激しく鳴り響き、冷や汗が背中を伝った。
だが、少女の小さな頬をそっとぬぐいながら、母は自分の恐怖を押し殺した。
「大丈夫。見ないで。聞こえても、見ないで……」
その声は、まるで氷の刃で縛ったように冷たく硬かった。
曲がり角の先、かすかな揺らめきが浮かび上がった。
それは、街の術士たちが設置した結界の灯り。唯一の希望の灯火だった。
その瞬間――背後で空気が裂けた。
異様に長い影が壁を這うように伸び、耳障りな音が暗闇に刻まれた。
母は振り返らず、ただ娘の背を強く押し出す。
「走って!」
少女は全身の力を振り絞って走り出した。
世界は無音に包まれ、時間が止まったかのようだった。
胸の奥で裂けるような気配が迫ったが、彼女は振り返らなかった。
結界の印に触れた瞬間、轟音と共に術場が起動し、空間が反転する。
それは彼女たちを異界の淵へと押しやる、最後の逃げ場だった。
振り返ると、そこに母の姿はなかった。
少女はただ一人、揺れる結界の中で冷たい闇に包まれながら、迫り来る未来の恐怖をひしひしと感じていた。