【第二話】《術の罅(ひび)》
「……また、だ」
册瑛は手元の報告簡を見つめたまま、息を呑んだ。
そこに記されたのは、魂喚中に術者の意識が乖離し、魂体ごと送還不能となったという事故。
術式名も、施術意図も、すべて簡潔にまとめられている。だが、その「簡潔さ」が恐ろしかった。
第四術局――宋厥中央機関の一角を担うこの部署は、
霊術に関する実用・制度・記録を三柱とし、その均衡をもって支えられている。
だが近年、均衡は確実に崩れつつあった。
册瑛は、まだ階位も浅い記録補佐にすぎない。
けれどもここに来てからの三年で、彼女の机上に積まれた「異常報告」の量は、確実に倍増していた。
しかも、今年に入ってからは、件数が一月で三倍にまで跳ね上がっている。
「魂喚中に意識乖離、送還不能」「未許可の多重術式」「因位判定不能による結魂失敗」……
どれも霊術制度が「かつて例外」と定義していた現象。
なのに今、それが日常的に起きている。
彼女は指先で霊簡の縁をなぞる。指に引っかかったのは、粗雑な封印処理の痕。
焦って閉じたか、無理やり抑え込んだか。いずれにせよ、公式の術式運用とは思えなかった。
本来であれば、調査局が動き、事故の因果を精査するはずだった。
だが現実には、「処理済」「検討中」「補償済」という文字だけが報告欄に踊っている。
原因の多くは、過負荷と制度的な盲点に収束していた。
霊導網の老朽化。管理術式の代替未確保。局所霊脈の枯渇。
それでも、誰も正式には「問題だ」と言わない。
「大局的には安定している」「補償体制がある」「確率的には正常」――
それが術局の公式見解。
だが、その言葉を心から信じて記録符に写す者が、今、果たしてどれほどいるだろう。
ふと、隣席の補佐官が欠伸を噛み殺しながら、無言で報告書に印を押しているのが見えた。
何も感じていないのか、それとも感じないふりをしているのか。
册瑛は、それを問いただすことすらできなかった。
「……私たちは、何を見逃している……?」
抑えた独白が、書庫室の石壁に吸い込まれていく。
誰も答えず、誰にも届かない問い。
冊瑛は静かに席を立ち、部屋の隅にある細い窓へと歩いた。
遠く、中央区を貫く霊導塔が夜霧の中に浮かんでいた。
鋼と霊石で構築された塔は、今も変わらず、霊術網の中枢として脈動を続けている。
その灯は無機質なほど整っており、滞りも歪みも一切見せない。
まるで「秩序は保たれている」と、霊系そのものが嘘をついているかのようだった。
だが册瑛にはわかっていた。
その整然とした光の裏で、どれほどの命が歪められ、どれほどの魂が行き場を失っているか。
かつて神代を越える術とまで謳われた霊術体系が、
今やその重さゆえに、自らの柱を軋ませ始めている――
その事実から、目を逸らしてはならないと。
霊導塔は、かつて「天を繋ぐ橋」と呼ばれた。
それが今、崩れかけた梁のように、何かを必死に支えている。
そして、見逃しているのは、制度ではなく「私たちのまなざし」なのかもしれなかった。