2絶望と
学校に着くと同時に予鈴がなった。
……危ない、あと5分遅れていたら間に合わなくなるところだった。
教室に入ると同時にぼくの方に視線が一瞬だけ向けられ、沈黙が波を打ったように広がる。
「おはよう……ございます……」
挨拶をするも、誰も返事をしてくれないばかりか、すぐさま会話に戻る。
理由がわからない。
なぜこんなことになっているのか。
だが、もう慣れた。
自分の席に座る。
椅子がある。
……目も当てられないほど汚くなっている。
大体はマッキーペンで描かれたものだが、悪質なものだと絵の具でわざわざ描かれている。
懲りないものだな、と少々達観したように呟き──この時隣に座って後ろを向いていた女子が舌打ちしたが気にしない──職員室に向かう。
もうすぐ本鈴がなると思うのだが、気にしない。
「失礼します。6の3の櫂です」
「おぅ、入れ。で、今日も除光液を借りに来たのか?」
「ええ、まあそうです」
「ったく……」
この人は理科の担当の先生で、水木 電先生なのだが、ぼくは「海月」で「くらげ」と読むことを知っていたため、心の中では「デンキクラゲ先生」と呼んでいる。
……実際この先生、本当はかなり怖い人だからね。元両親ほどではないけど。
「ほれ、ティッシュ何枚かと除光液だ。あと1分で本鈴鳴るからダッシュで走ってこいよ」
「ありがとうございました。失礼します」
「転ばないように、な」
ただ、ぼくにだけはなぜか優しい。
ご忠告通り、ぼくは転ばないように全力で駆ける。
自慢じゃない、本当に自慢じゃないんだけど、ぼくは容姿は目立たないけど、勉強も運動も他の人よりできると思っているし、何なら「受験生」よりも賢い自信はある。
ただバレないように隠しているだけだ。
最近「黄金比」と「白銀比」にハマっていて、それを使ったものをてってい的に探し尽くす勢いで探している。
「ギリギリセーフかな……」
誰にも聞こえないようにこっそり呟き、スライド式のドアを左に引く。
「おい!遅刻してんじゃねぇぞ!」
デンキクラゲ先生とは打って変わって響く大きな怒鳴り声。
「はぃ……すみません……」
「もっと大きな声で言え!」
「はい!すみません!」
「っち……。いいだろう、席に座れ!」
「はい!」
ぼくが背筋を伸ばすたびに周囲からはクスクス笑う声が響く。
でも、別にあの元両親よりは、よっぽどいい。
というか、もう慣れた。
急いで自分の席に座ると除光液をいそいそと左のお道具箱にしまい込む。
実はこの左のお道具箱、二段構造になっていて、下の方に物を隠せるのだ。……と言ってもこの除光液、なぜかいつの間に「教師用」と書かれていて正直かくす必要性はないけど、かと言って面倒なことになるのもいやなので入れておく。
では、この先生はだれかというと、ま、お察しの通り、ぼくのクラスの担任だ。
名前は屋久 祖郎……この名前、狙ったのかな?
「やくそろう」……「くそや──」いや、何でもない。
つい笑ってしまいそうだから一旦考えるのをやめる。
さて、この開口一番ぼくに暴言を浴びせてきた先生、実は国語の教師なのだ。
「おい、結歩弟。これ書け」
そう言って屋久先生はチョークを握り締め、「ウツ」と「ジヘイショウ」とカタカナで黒板に書いた。
「すみません……どちらもわかりません」
「お前!こんなものも知らないのか!」
「……すみません」
「もういい、俺が書く」
手元を見ながら「鬱」と「自閉症」と書く。
字は汚く、なんて書いてあるのかも読めない上に言葉づかいも荒い。……ハァ、よくこんなもんで教員になれたよね、いや、この学校そのものが終わってるからね。関係ないのか。
待ちに侘びた、というかようやく、給食の時間になる。
──まあ、普通は分担して運ぶんだろうけど、担任がこんなんだからぼくは自分で取りに行かないといけない。
あ、他の人はちゃんと当番とか決めて流れ作業で運んでいるから、ぼくだけだね。
あからさまに少なく盛られた給食は、それでもぼくのお腹を満たすのに十分だった。──うん、あの頃に比べればずっとマシだ。
給食が終わった後の片付けは全てぼくに押し付けられ、ぼくは1人たくさんのお盆や食器が乗ったワゴンを「給食準備室」という所にまで押さないといけない。──あの頃はもっと辛かった。
片付けが終わり、教室のドアをスライドさせる。
すると、窓を開けてそこからぼくの筆箱を落とそうとする──ここは三階だ──クラスメイトがいた。
「あの……返してくれませんか……?」
「「「「……ちっ」」」」
ぼくがそうお願いすると、一斉にグループの構成員4人に舌打ちをされた。
ちょうど窓を開けて落とそうとしていたグループのボスは俺に命令してきた。
「土下座しろ」
そう言われたので仕方なく土下座する。
途端に、先生の目に見つからないように彼女らは俺の腹を蹴り始めた。
「……ゥ……」
痛そうなふりをする。
──大丈夫だ。あの頃は、もっと痛かった。
しばらくぼくをいたぶって満足したのか、グループは帰って行った。ぼくの筆箱を放り投げて。
……さて、ダミーの筆箱はもういいか。
わざわざそっくり作ったのおかげか、全く気づかれなくて良かった。ちなみにダミー筆箱の中には石が入っていて、重さを調節している。
翅論からもらった大切な筆箱。
あれだけは絶対に渡すつもりはない。
窓から引き返そうとすると、下からかすかに声がした気がした。
なんか……知っている声な気がする。
身を乗り出すも誰も見えない。
気のせいだと思って戻ろうとするも、再び声が聞こえた。
いや、声ではない。
悲鳴だ。
ぼくは慌てて階段を駆け下り、校舎の影に向かう。
聞こえてきた音の方角からしておそらくこっちだろう。
……あの人たちは、いつも急に帰ってくる。耳を澄ませるのは、当然だった。
声が近づいてくる。いや、ぼくが声に近づく。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
誰かが必死に謝る声がする。そして、すごく聞き覚えがある。忘れるはずがない。
あぁ──これ、前にあの人たちになぐられた翅論が呟いていた声に、すごく似ている。
ぼくは、頭を思い切りなぐられた気がした。
──あれ?これ、翅論の声……?
顔を少しだけ出す。
ぼくが見たのは、大切な親友にしてぼくの家族で恩人の彼女。
そんな彼女がお腹を抱えてうずくまりながら、えずいている姿。
そして、そんな彼女を後ろに教室に戻ろうと角を曲がった直後の女子と男子の集団だった。
「翅論──!!」
「え……櫂?」
慌ててやってくるぼくを、彼女は不思議そうに見つめ──吐いた。
「ちょっと待ってて、すぐ保健室に……」
連れて行くから──と言う言葉を言い終わる前に、彼女にうでをつかまれた。
「おねがいだから、いわないでぇ」
彼女はぼくに行かないでくれ、でも助けてくれ、でもなく、言わないでくれと頼んできた。
ぼくの心に浮かんでくる失望をわかってくれるだろうか。
ぼくはもう、何も言えなかった。
そして、そんな自分が、どうしようもなく憎たらしかった。
こんないっしゅんですら、彼女の力になれない自分が。
〜100%〜
その場に立ち尽くすぼくを横に、彼女は必死に吐く。
嫌なことを忘れようとするかのように。
体の中の悪いものを出そうとするかのように。
そしてぼくに見つかってしまったことを忘れようとしているかのように。