エメンタール夫人の歓喜
今日は娘にどんな服を着せてあげようかしら。
ボリューミーなスカートにパフスリーブがいいかしら。かぼちゃパンツが見えるように短めのエンパイアは、はしたなくは見えないかしら。きっと可愛らしいのだけれど…やっぱり動きづらいだろうけれどロングのクラシカルな方がいいかしら。色は昨日は紫のアクセントにしたから今日はパステルにしようかしら。なんでも似合ってしまうと言うのも悩みの種だわ。数着分のコーディネートが頭に浮かぶ。
きっとあの子はなんでも着こなしてしまう。
1人楽しそうに夫人は娘の部屋のクローゼットを思い出す。
そろそろ日差しが強くなってきたから真っ白なレースのボンボネットもいいわね。確かちょうど良さそうなのがいくつかあったはずだから出してもらいましょう。
少女のように夫人は笑う。
〜エメンタール家令嬢誘拐事件から5ヶ月後〜
私の心も少しずつ落ち着きをとりもどしてまいりました。いつまでも嘆く事はとても体力と精神力がいるのだと思い知らされました。
ずっとは泣いていられないのです。攫われた娘の事を思わない日はありませんでしたが、私も3人の息子の母です。子に慰められると言う恥ずかしくも成長を感じる事柄もあり、心の蟠りが少しずつ解けていく思いでした。
先日、領地屋敷で御隠居をされている御義母様からの労りと叱責のお手紙のおかげもあるかもしれません。そのお手紙には要約すると、『当主夫人がいつまで落ち込んでいるんですか!赤子は3つになるまでわからない事はご存知でしょ?今回の事は主の元へ帰ったと諦めて、3人の息子と向き合いなさい!母が強くあらねば家は持ちませんよ!』との事。元々皇族のマナー指導などもなさる程に厳しい御義母様なりの叱咤激励なのだど受け止めました。
1番は過ぎていった時間が解決してくれたのかもしれませんが…
少しずつ心の穏やかさを取り戻してきた私に、旦那様は夜夫婦の寝室へ来るようにと告げてきました。
私の体は未だに産後の疲れが残っているので夜伽のお誘いではありません。
子供達には聞かせられない話か、家人にも出来ない相談事があるのでしょう。
そう思い、夜私はいつもよりやや厚めのガウンを羽織り寝室へとむかいました。
久々に訪れた部屋のベットの端に腰掛け旦那様のお越しをお待ちしておりますと、間も空けずに旦那様はいらっしゃいました。そして私の頬に挨拶のキスを交わすとヒョイと抱えてベットへと横たえて下さいます。
旦那様はどう切り出したものかと少し思案する様な困り顔で私を覗き込んでいます。言い出しにくい事があると昔から右の眉がピクピクとするのは相変わらずです。貴族として表情に出過ぎるのは致命的だと御義母様が嘆いておられたわね…などと思考は迷走する。色々と思考できるのも元気になってきたからだろか。
ややあってから一息、深いため息をついた後に旦那様は切り出した。
「落ち着いてきいておくれ、ビー。お前の侍女であったリザーナなのだが、亡くなったそうだ。」
「そんな…」私は口元を両手で覆い嗚咽が漏れるのを堪えました。しかしながら涙まで抑える事は出来ず、旦那様の胸に顔を埋めることしか出来ませんでした。
リザ…なぜ貴方まで私の元を去ってしまったの…元気な子供を産んで戻ってくるって言っていたのに…
旦那様は私の頭を優しくかでながら続けた。
「残された子供の事なんだが、今日養育先の斡旋を頼まれたんだ。君も知っての通りリザーナの生家は君の実家だから遠いし、確か弟君が家督を継いでいただろ?支援は望みが薄いそうだ。彼自身似た様な実家の状況らしくてな…それに彼は家族の大事の為出仕出来ていない。蓄えもそろそろなんだろう。」
あぁ、神はなんと無情なのだろう。幼児から母を取り上げただけでは飽き足らず、父と暮らす事すら叶わないなんて…
いっそこの手でその子の幸せを支えて上げたい。
そう思うが早いか、私の口からは「私、その子にあってみたいわ」と言葉が漏れた。
旦那様は「そう言うと思ったよ。明日には彼らを屋敷に呼ぼう。今日はお休み」と額に唇を落とした。
私は朝から落ち着きがなかったわ。なんだかドキドキしてしまって…赤子を見るのは事件の時以来で不安も大きくて…でも姉の様に育ったリザの子に会えると思うと嬉しくて…まるでデビュタント前の小娘のようね…
午前の優しい陽の光に包まれた鈴蘭の間は商会や画家など爵位が低いか爵位を持たないもの達との目通りの間です。
部屋の中央には、応接用のローテーブルとソファーが毛足の長い絨毯の上に鎮座している。絨毯の毛足は長いが落ち着いた織で応接セットもゴテゴテの装飾は少なくシンプルな形状だ。ご招待したのが準男爵なのでもう二つ隣の竜胆の間でも良かったのですが、赤子がびっくりしないように、準男爵が萎縮しないようにの配慮です。あの部屋、貴族向けで装飾過多で突起が多いんですもの。優しくないわ。
私は今か今かと待ち侘びておりました。先払のメイドが客人の到着を伝え、ややあってから準男爵が一抱えの蔦葡萄のカゴを抱いて入室してきました。
私達夫婦は挨拶もそこそこに籠の中の子供を覗き込みました。
驚きました。人は驚きすぎると言葉が出ない事を知りました。籠で眠っていた幼児は私が想像していた我が子に似ていたのですから。
新生児なんてみんな猿みたいでどの顔も同じだなんて言う殿方もいるようですがそれは違います。目鼻立ちはやはり個々に違うものですし、動きにもそれぞれの癖や特徴があるものです。それが徐々に大きくなったらと毎日のように考えていて、それが目の前に現実として現れたのです。勿論この妄想も子供を3人も育てればこその賜物ですわね。
驚いたまま隣に目をやると旦那様も驚いているご様子でした。頬がゆるんでおりましてよ。
そして私は確信いたしました。この子は私の娘になる定めの元に生まれてきたのだと。
「神の御導きだわ!私、この子を育てたいと思います。」力強く宣言する。反対なんてさせる気はない。こんな可愛らしい子を他所になんか渡すものですか!
強い気持ちで旦那様を見やると旦那様も頷いて下さいます。同じ気持ちで良かったと安堵いたしました。
リザの忘形見…この子を幸せに育ててあげたい。愛しんで笑顔で過ごさせてあげたい。
そんな事を思い幼児を抱き上げたところで肝心の子供の名前を知らない事に気づきます。それは旦那様も同じようで、名前を準男爵へと聞いてくれました。「スピカ」本当に素敵なお名前ね。その日だけで私は彼女の名前を何度口にしたでしょう。
善は急げとの言葉の通り、スピカはこの日から私の子供になりました。
書類上正式に家族になる前からとっくに私の中では家族です。
暫くののち、洗礼を終え家では子供達とスピカの初対面。息子達がどんな反応なのか気になっておりましたが、皆んなスピカに心を奪われた様子です。
無理もありませんわ。スピカは特別なのです。
毎日スピカの顔を見るだけで私は満たされました。それに、息子達とでは出来なかった、女の子としか出来ないあれやそれを私は考えて楽しみな毎日を送っております。
素敵なお洋服を見繕ったり、一緒に刺繍をしたり、お茶会をしたり、詩を歌ったり、大きくなったら恋のお話なんかもしたいものね。
ゆっくりでいいけれど、早く大きくなってねと夫人は愛娘に語りかけるのであった。