エメンタール伯爵
マスキー・フォン・エメンタール伯爵は臨月の妻の腹を撫でながら、「次は女の子がいいなぁ」と1人呟く。
婦人はそんな夫の呟きに「カインみたいな事言うのね。でも、私も女の子だったら嬉しいわ。」と優しく返す。刹那2人の視線が重なった事で自然と口付けを交わす。
2人の間には既に3人の子息がいる。
しかし未だ息女はいない。伯爵は自身が男兄弟ばかりだったため、婦人は自身に姉妹がいたためか女の子に対する思い入れが強かった。
今までの子供の時もそうではあったが、伯爵はこっそりと女の子用の品も誕生予定の子供の部屋へ運ばせている。婦人はそんな夫を見て見ぬふりをして微笑ましく見ていた。
妻が産気づいたのは領地視察に出向いている最中の事だった。一頭の早馬が領主屋敷に飛び込んできた。
「お館様!奥様が産室に入られました!」
それから6つの時の鐘が鳴るか鳴らないかの時間でもう一頭の早馬が走り込んできた。
「お館様!お産まれになりました!お嬢様です!母子共に問題もなくとのことです!」
伯爵は安堵した。4人目になっても中々に慣れることのない不安な時間であった。無事なのが1番。女児であったことに2番目の安堵と高揚が伯爵を包んだ。領地視察もそこそこに伯爵は帰り支度を整えその日の深夜には都の本宅まで帰り着いた。ギルドの転移魔法陣を使って早く戻ってきたのだ。
この判断はとても良かった。何故ならば産まれたばかりの娘を一目見ることが出来たのだから…
翌日、娘の姿は屋敷のどこにも無かった。
全ての部屋を探したが見つからない。そもそも昨日産まれたばかりの赤子が自分で動けるはずもない。
明け方に乳母が乳をやった事は分かっていたが、それ以降の娘の足取りが全く分からなかった。
都ではここ数年、特に今年に入ってから貴族子女の誘拐が多発している事は知っていた。先日息子達を集めて注意するよう伝えたのも記憶に新しい。
方々を手を尽くして捜索しているが手掛かり一つないのだ。国の憲兵達も屋敷に出入りしており、自分の家なのに落ち着かない。
何より愛妻の憔悴ぶりは酷く、起きて取り乱しては鎮静剤を投与されるを繰り返していた。やはり一目しか会っていない父親なんぞより10月10日大切に育てて腹を痛めて産んだ母親とでは感じ入り方が違うのか…寄り添う事も出来ないのかと深く落ち込んだものだ。
現状誘拐された子供達が無事に帰ってきた例は約2割。高くはない確率だが捜査しつつ犯人からの連絡を待つしかないのがもどかしかった。
事件から4日後の事、1人の男が伯爵の執務室に訪れていた。封臣家門の1つで当家の政務補佐官の1人であるフェイカー準男爵だ。
元々痩せ気味な体躯ではあったが尚やつれ、目元にはクマが出来き視線を彷徨わせた男が意を決したように口を開く。
「御当主様がこんなにも大変な時に、奥様の御好意に甘え先日まで娘をお嬢様の乳母の元へ通わせて頂き感謝の念に絶えません。しかしながら昨日、妻も意識を取り戻しましたのでこれ以上のご温情を賜わることは出来ぬとご挨拶に来た次第でございます。」
この男、実は数日前に父親になったばかりの者である。男の妻は伯爵の妻の家からついて来た妻の専属侍女で乳姉妹の間柄。妻が気に掛けている者である。しかもこの度は同じ時期に出産となる予定で娘の乳母を任せる可能性があったかもしれない。そうならなかったのは先刻男が口にしたように細君が出産のおり意識不明となってしまったからだ。初産のためか陣痛から長い事出産に掛かってしまい、出血も人の倍程はあったそうだ。
細君の意識が戻る間、妻の計らいで子供の乳母から乳をもらうようにしていたのだが当家の事件の事、細君の意識が戻った事からそれを辞退するとの申し出の為に来たらしい。
「細君の容態は如何かな?」薬で眠る自分の愛妻の顔を男の細君に重ねて伯爵は問う。
「はっ!お館様からのお言葉いたみいります。まだ意識も戻ったばかりで、血も足りずこれから徐々に回復していくものと思っております。」男は慌てて答える。
お互いに子が無事に産まれても災難と困難が降りかかってしまった親同士同情と憐れみが込み上げる。
「何かあったらまた私達を頼りなさい。微力だが力になることを約束しよう。」普段は言質を取られぬように約束事には慎重であったが思った思いがつい口を出た。
ありがとうございますと男は深々と頭を下げて辞していった。
初めの1ヶ月は娘がいつ見つかるのかと、朝起きれば知らせが来るやもしれぬと希望を抱いていた。
次の1ヶ月はもしかしたらと国境沿いまで捜索の手を伸ばした。
その次の1ヶ月はもう娘は主の元へといってしまったのではないかと思い始めた。
4ヶ月経つ頃には捜索は打ち切られた。
5ヶ月目にまたフェイカー準男爵が政務室へとやって来た。
顔色は青白く以前よりくたびれて二十代半ばの歳だったと記憶していたが、40歳は超えて見える程だ。
「御当主様…妻が神の元へ続く桟橋をかけて行きました。」貴族的言い回しで彼は自分の妻が死んだと告げたのだ。
「それは…気の毒に。妻も悲しむ事だろう。」
なんといって良いのか分からず妻と言って気まずくなり黙り込んでしまう。もっと気の利いた言葉を掛けてやりたかったがなんといって良いのか言葉が見つからない。
しばらくの沈黙の後、準男爵は重い口を開く。
「つきましては御当主様にお願いがございます。娘の養育先をお探し願えませんか?」
意を決した男の言葉に伯爵はどうしたものかと思案する。
取り敢えず妻と話し合う事としてその日は準男爵には帰ってもらう事にした。
その夜、夫婦の寝室に妻を呼び労るように肩を抱き寄せると、昼間の事を話した。
妻は自分の乳姉妹の死を悲しみ、外へと出される事になりそうな忘形見を憐れんだ。
しかしながら、男寡で親の支援も受けられず、乳飲み子を抱えては致し方もないと思う。準男爵には十分な給金は渡しているが乳母を雇う程の余裕はないだろう。
しばしの沈黙の後「私、その子に会ってみたいわ。」と妻は言った。
伯爵は妻の希望を聞いた。早い方がいいだろうと次の日には準男爵とその娘を屋敷へと呼び寄せた。
蔦葡萄の編みかごに寝かせられた赤子を初めて覗き込んだ時、伯爵夫妻達から声にならない驚きが溢れた。自分達の娘がもしも手元で育っていたらと想像していた子供がそのまま寝息を立てているのだ。
他人の空似かもしれないが赤子は連れ去られた赤子とどことなく似ていた。妻の目には涙が溜まる。
「神の御導きだわ。私、この子を育てたいと思います。」涙で濡れつつ久方ぶりの笑顔を見せた妻の意見に反対など無かった。伯爵自身この子を自分達で育てたいと思ったのだから。
フェイカー準男爵は2人の決断に安堵した顔になる。どこの誰か分からない者の所に行くのではなく、自身も政務する屋敷で当主の子供として育っていくのには何も不自由する事はないだろうとの安堵感だろう。
「ところで.この子の名前はなんと言うんだい?」子供に話しかけようとして名前を聞いていない事に思い当たる。
「スピカで御座います。亡き妻が名付けました。」
「リザの素敵なプレゼントね。大切に呼びましょう。スピカ、今日から貴方の母様よ。よろしくね。」妻はもう離さないとばかりにスピカを抱きしめて顔を埋めていた。久々の妻の明るい表情に我が家の冬は終わり春が訪れたかの心地だった。
手続きの為正式に養女となるのは数日後にはなったがその日からスピカは私達が引き取った。
スピカと息子達が会うのは正式な手続きが終わってからにしようと、晩餐の場で妹ができる旨を伝えた。3人とも目を一瞬丸くしてそれぞれ嬉しいような不安なような顔になっていた。
スピカの洗礼だが、聞けば細君が産後の肥立が悪く未だに洗礼を行っていないとの事なので、書類が受理された日に教会にて洗礼を行った。
嬉しい誤算ではあったが洗礼の結果スピカの聖力は多い事がわかった。望めば王子妃にもなれるかもしれないくらい充分な量だった。あのまま準男爵家で育っていたのなら望めない未来だったかも知れない。
洗礼後家族との初対面はとても和やかで感動的だった。人見知りする事もなくスピカは笑顔で、息子達はおっかなびっくり近づいて三者三様に妹を愛でていた。
正直、子供が今更1人増えたところで多少賑やかになるかも知れないくらいに伯爵は考えていたがそれは大きな誤りだった。
娘というのはとても良い。
息子達と違って抱き上げればフカフカのクッションの様に柔らかく、どこに重心があるのかも不安になるがピッタリと自身を預けてくれる。息子達を抱き上げればどっしりとした砂袋のような抱き心地で重心もしっかりとしていた為しなだれかかられた記憶などない。なんならお前は嫌だと押し返された記憶すらある。
預けた体のままに指しゃぶりなどをしながら見上げる様は愛くるしくて仕方がなかった。
少し伸びた髪の毛を侍女達が結んでくれた様も可愛らしかった。一刻もしないうちにスピカにやって解かれてしまったのは残念だ。絵師を今度呼びつけなければと慌てて手配して妻には呆れられた。
娘が居る日々は本当に暖かなものだった。