軍港の街タバフ
海はまだ見えません。
でも、潮の香というのでしょうか。海の方角から吹く風に嗅ぎ慣れない香りが混じっています。
私は今フレットお兄様と一緒に遠駆けでタバフを目指しています。
因みにお父様はお仕事、お母様は近くの領地のご婦人方とのお茶会、アレク兄様は疲れが出たとの事で寝込んでいて、カイン兄様は魔法研究で領都を離れられないそうです。
タバフは領都キイワから馬車で1時間、早馬なら30分ほどの所にあります。私達がキイワを出発してから30分は超えたあたりですのでもう少ししたら街が見えてくるはずです。
今から向かうタバフは軍港のある街でフレット兄様はよく通っては稽古をつけてもらう軍の修練場があるのだそうです。
フレットお兄様がここ数年領地によく帰る理由が分かりました。馬車で3日でも軍馬…それもお兄様の愛馬であるホーヴヴァルプニルのシュプールは空も水の上も駆けるとても珍しい馬だそうで、往復2日程でタバフと帝都の屋敷を行き来していたと聞いた時にはお母様と一緒に驚いたものです。
今日はタバフでジョゼフィーヌちゃんとルークくんと落ち合い街を散策する予定です。その間フレット兄様は件の修練場で汗を流す予定なのだとか。
丘を越えた辺りで近くて遠い水平線が眼下に広がりました。初めて見る海は青というより白く輝いて見え私の胸は感動でいっぱいです。
あまりに感動すると人は言葉を失うのですね…
自然の美しさに足を止めてしまった私を急かすように馬が嘶きます。
手綱を握り直して見え始めた港町へと足を進めました。
街に入ると、意外なことに海は全く見えません。
それどころか頑丈な石造りのアパルトメントが建ち並んでいます。街の道も石畳で守りが強そうな印象を受けます。店は大通りから入った通りに露店を広げたマルシェが並んでいるようです。
大通りを抜けると、噴水のある広場に出ました。
右手正面の建屋が役場で左手正面がギルド連合の建物、左背面が他の建物と同じ作りですが教会支部で右背面が取引のある国々の領事館出張所なのだと兄が得意顔です。
その広場から回り込むと住宅街があり、私達はその中でも大きな屋敷へと入っていきます。ペイストリー叔父様の御宅です。
門番はお兄様とは顔馴染みのご様子で、にこやかに二、三言葉を交わすと中に通されました。厩番に馬を預け、玄関まで行くとすでに叔母様と子供達がお待ちでした。
「よっ!チビども昨日ぶりだけど元気だったか?」
お兄様が礼節なく切り出します。「うん、お兄様、ジョゼ元気よ!」「ルーもげんきー!」慌ててしまったのは私だけで他の面々はいつものことのように対応しています。慌てて私もご挨拶致します。
「マチルダ叔母様、ジョゼフィーヌ様、ルーク様ご機嫌よう。本日はよろしくお願いします。」
マチルダ叔母様はエメンタールの寄子の男爵家から嫁がれてきた方でふわふわとした柔らかい印象のご婦人です。
「あらあらぁ、そんなに畏まることもなくってよ。今日はスピカちゃんはこの街を楽しむために来たんだもの。それに、この子達もとっても楽しみにしていたのよ」
子供達2人は「どこへ行く?何がみたい?」と楽しそうに私の顔を覗き込んできます。ですが、それに答えたのは兄様です。
「まずは俺と一緒に軍港と修練場だな。その後はチビ達とマルシェでも楽しんだらどうだ?」私に否はありません。
流れが決まると、来た足ですがまた門へともどり、私は2人と馬車に、お兄様は愛馬にまたがり軍港へ向けて出発しました。
石畳の坂道をしばらく下ると郊外で感じた潮の香が強くなってきます。
「軍港だから基本見えないんだが、もうすぐ傍は海なんだぞ」馬上からお兄様が説明してくれます。
坂をくだりきった所には大きな鉄の門。領主の一族を示す家紋が付いた馬車であってもしっかりと検疫を行われます。
それもそのはずで、場所こそエメンタール領ですが、ここの軍港の管轄は国です。
少しややこしい話ですがこの軍港内だけは皇帝直轄地扱いで、エメンタール家の飛地があり、そこに当家の水軍が詰めている形なのだそうです。
国軍と当家水軍は共同戦線を張る事も多い為ほぼ寝食を共にする同士のようなライバルのような関係だと兄様は笑っていました。
さて、そろそろ潮の香がきつくなり、ザブンザブンという水音が聞こえて来ました。
馬車扉を開けるとそこには黒い壁が聳え立っています。いえ、よく見るとそれは波音と共に揺れ動いているではありませんか。
壁だと思ったそれは巨大な軍艦でした。
我が家水軍の主力戦艦で名をティア・セイレーン号というそうです。今日は乗船出来ませんでしたがいずれ乗ってみたいものです。
「あの船ね、お父様が乗るんだよ!」興奮気味にルークくんは言っています。叔父様はあんなに大きな船に乗られているのねと相槌を打つと僕も将来はあの船に乗るんだと夢を教えてくれました。
もう一度馬車に乗り今度は鍛錬場へと移動します。
そこには日焼けし見るからに屈強そうな男達が訓練をしていました。
「じゃぁ、俺は此処で遊んでる。終わったら師匠の家に行くからあんまり遅くならないうちに帰ってくるんだぞ。」そういうと、足早に水兵達の中に消えて行きました。いえ、よく見ると私が見ていることを何度も確認しています。本当は見ていて欲しいのでしょう…何もなければ見学しつつ見守りますが今日は先約があります。後ろ髪を引かれつつ私達の馬車は来た道を戻り街中へと向かいます。
因みに今日の私達は商家のお嬢さんと子息のお忍びの設定です。
「私のことはお姉ちゃんと呼んでね。ジョゼフィーヌ様とルーク様の事はなんとお呼びしましょう?」
「ルークはね、ルーくんでいいよ!」
「あのね、ジョゼはね、今日だけじゃなくてずっとお姉様にはジョゼって呼んで欲しいの。」
照れながらいうジョゼが私は可愛くて仕方ありません。きっとお兄様達が私に感じる感情なのでしょうがちょっとお兄様達がずるいなって思ってしまいました。だって私は毎日ジョゼには会えないのですから。
「分かったわ、ルーにジョゼ。これでよいかしら?」2人は「うん」と大きか頷いてくれました。
街まで戻ると馬車を噴水の広場で馬車を降り、朝見たマルシェを目指しました。
マルシェは通りを左右に割るように店が連なっていらようです。見たことのない食べ物でしょうか、丸い土のついたものや緑のブロッコリーなどが並んでいます。
隣の屋台には昨日お祖父様に凍らされたフルーツが並んでいました。
その隣、その隣と私達は足を運びます。食べ物、飲み物、衣服に雑貨、調度品にアクセサリーと初めてみるものばかりでとても新鮮です。
ジョゼとルーはやはり地元なだけあって、あっちには武器屋さんだよ、こっちの店はおまけしてくれるんだよなんて教えてくれます。
「あら!美人のお嬢ちゃん達だね!一つどうだい、買って行きなよ!」
声をかけて来たのは魚介を炭火で焼いたものを売る店の女将さんです。
「一つ味見させたげるから気に入ったなら買っとくれよ!」
そう言って小さく切り分けられた白い何かを差し出されました。どうしていいか分からずにオロオロしていると護衛でついて来ている騎士が毒見にとあっという間に口に放り込みました。
「大変おいしいクラーケンです。毒もありません。食べてみますか?」
私はびっくりしながらも頷くと、護衛騎士さんがクラーケンの串焼きを4本買い、私達に一本ずつ渡してくれました。
どうやって食べるべきか悩む私を他所に、地元住民であるジョゼとルーが勢いよく齧り付きます。歯で噛みちぎると熱いのか、ハフハフとお口を動かしながら咀嚼しています。私も恐る恐る串の先端に齧り付きます。未だ焼かれていた時の熱を帯びつつも香ばしい炭の香りを纏ったクラーケンは、強い旨味と程よい塩気がありとても美味しかったです。焼きたて熱々の料理というものを味わったことがないので熱さには最初戸惑いましたが、これも美味しさの一部なのだと食べるほどに感じました。
「お姉ちゃん、おいしいね♪」ジョゼとルーはもう食べ終えているようです。
「おやおや、気に入ってもらえたようで嬉しいよ。こっちの街じゃミーナエ程の品揃えは無いけど鮮度と味は負けてないつもりだからね!楽しんで行きなよ!」と女将さんは豪快に笑います。
その後何軒かでこっそり『買い食い』を楽しみました。お祖母様にバレたらきっとお説教では済まないでしょうね…
今も実は異国のハーブ入りの喉に良い飴を口にしながら街を歩いています。何かを口にしながら歩くのは背徳的ですが、解放感もあり新鮮でどこか心が弾みます。
雑貨の露天では隣国の呪いがかけられたアクセサリーをジョゼとお揃いで購入しました。私は黄色、ジョゼはピンクを基調にした珍しい編み紐のアンクレットです。呪いの効果は絆の継続だそうです。
家族にも何かとは思いましたが、今日の移動はこの後は馬です。荷物が増えるのは得策ではありません。私は仕方なく同行してくれたフレットお兄様ように武器の露店で剣の手入れ用のオイルを購入しました。軍が詰める街だけあって武器の露店は多く目につきました。護衛騎士から、タバフのマルシェはミーナエの2割ほどの数ですが、武器や武具関連の屋台数はタバフの方が多いのだと聞かされて、私はミーナエのマルシェの規模の大きさに驚き、タバフが改めて軍のある街なのだと思い知らされました。
楽しい時間とはどうしてこうもあっという間なのでしょう。
「そろそろ屋敷へお戻りください」と護衛騎士に言われるととても寂しい気持ちになります。まだまだ見て回りたいし、楽しみたい気持ちがありました。
しかしこれ以上遅れてしまっては領館屋敷へ着くのが遅くなります。寂しい気持ちに蓋をして2人と手を繋いで馬車まで戻りました。
2人とも言葉にはしませんでしたが私と気持ちはそう変わらなかったことでしょう。
屋敷に着くとまだフレットお兄様は戻られていないとの事でもう少し散策していれば良かったなどと思ってしまいました。
お兄様をお待ちする間は叔母様もご一緒にお茶を楽しみました。1杯目のお茶を飲み終わるくらいのタイミングでお兄様が慌てたように駆け込んでいました。
「すまない!模擬戦に夢中になって時間を忘れていたよ…そろそろ街を出なければまずい。」
私もその言葉に慌てて帰り支度です。
「お姉様、まだいらしてくださいね!ジョゼお手紙書きますから。お姉様もジョゼにお手紙書いてくださいませ!」別れ際にジョゼに声をかけられ、私は
「ええ、必ず!それまでジョゼもルーも叔母様もお元気で!」と短く返しお兄様と共にタバフを後にしました。
結果としては馬達が、頑張って駆けてくれたおかげで怒られる前にキイワの領館屋敷に帰り着く事ができたのでした。