06.再開と新しいスタート
数か月が過ぎ、エミリーがついにカイルの屋敷へ向かう日が訪れた。子爵家の居城は数人の騎士たちが忙しなく動くだけで、いつも通り静かだった。もし姉のシルフィーが嫁ぐ日であれば、家中が大騒ぎになり、荷物が山積みとなり、子爵夫妻も涙を流して見送ったことだろう。しかし、エミリーの旅立ちはそのような賑やかさとは無縁だった。彼女の持ち物は驚くほど少なく、すべてが馬車一台に収まってしまったのだ。
子爵家の騎士たちが荷物を運び終えた頃、ノアが心配そうに声をかける。ノアはエミリーの全てを知っている存在でたり、唯一信頼できる専属侍女としてカイルの屋敷にも連れていくつもりだ。忠誠心の高いノアもそれを望んでくれた。
「これで全てのお荷物を運び終えました。お嬢様、何か積み残しはございませんか?」
ノアの眉は心なしか曇っていたが、エミリーは穏やかな笑みを浮かべて首を軽く振った。
「ええ、これで全部よ。……貴族の女性としては少なすぎるかしら?でも、ドレスや装飾品はほとんど買ってもらったことがないわ。持ち物といえば、成人記念のドレスと普段の服、それに寝間着用のシュミーズと筆記用具、あとは自作の石鹸やアクセサリーくらいかしら。『平民の相手に新しいドレスを用意する必要はない』ってお父様が仰ったものだから、成人記念のドレスも今日着ているものだし……。お姉様だったら、きっとドレスだけで馬車が三台必要だったでしょうね。」
エミリーが身に纏うのは、彼女の茶色い髪と緑の瞳を引き立てるエメラルドグリーンのドレス。金糸で繊細に刺繍が施されたそのドレスは、彼女を一層優雅に見せていた。しかし、その淡々と語る口調からは諦めが滲んでいる。物が少ないという事実は、エミリーの生活そのものを象徴しているかのようだった。
「お嬢様、それで十分です。生活に困ることはございません。それに、新しい生活が待っています。きっとご婚約者様が必要なものを揃えてくださいますよ。」
ノアの励ましに、エミリーは少し照れくさそうに微笑んだ。
「そうね。カイルと一緒に、少しずつ揃えていけばいいわね。」
彼女の心には、新しい生活への期待と不安が入り混じっていた。
両親との別れは意外にもあっさりしていた。母は「わたくしの娘、子爵家の令嬢が平民に嫁ぐなんて、恥ずかしくて顔も見せられないわ!」と言い放って自室に閉じこもり、最後まで姿を見せなかった。父はと言えば、まるでエミリーにすべてを任せるように軽く言い放った。
「すまないな、こんな結果になってしまって。だが、お前なら大丈夫だろう。あの平民から金を引き出して、この家を再興してくれよ。」
父の浅ましい期待に、エミリーは一瞬、心が冷たくなるような思いを抱いた。しかし、表情にはそれを一切見せず、微笑んで答えた。
「承知しました、お父様。この婚約は子爵家と領地のため、そして領民のために行うものです。必ず、彼を懐柔して取引を再開させてみせます。」
彼女の言葉には、両親との完全な断絶の意図が込められていた。エミリーにとって、もはやここは「家」ではなかった。彼女の心には領民への愛着があるのみで、家族との絆はとうに冷え切っていたのだ。だが、表情には一切それを見せず、毅然とした態度を保ち続けた。
出発前、エミリーは使用人たちを集め、感謝の言葉を伝えた。エミリーにとって、家族以上に信頼できる存在が、使用人たちだった。エミリーに仕えた使用人の内、数人は引き続き子爵家で働き続ける。だが、他の多くは、子爵家の推薦状を持って、他の貴族や商人のもとで新しい生活を始める予定だ。優秀で誠実な彼らならば、新しい地でも上手くやっていけるだろう。
「皆、これまで本当にありがとう。わたくしを支えてくれたこと、決して忘れませんわ。」
一人ひとりと目を合わせ、心から感謝を伝えるエミリーの誠実さに、何人かの使用人は涙を浮かべて深く頭を下げた。
「エミリーお嬢様、どうかお幸せに。私たちは、ずっとお嬢様のことを誇りに思っています。」
長年仕えてきた老執事のローウェルが、静かに微笑みながらそう語った。彼はエミリーの婚約を機に引退し、家族と共に穏やかな余生を過ごすつもりだという。
「お嬢様、私を見出し信じてくださったこと、決して忘れません。どんな時でも、ここはお嬢様の帰る場所です。私たち使用人はいつでもお嬢様のお帰りをお待ちしております。」
そう語るのは、カイルとの婚約が決まってから新たに雇った財産管理の専門家“オリバー”だった。彼ならば無能な父を上手く制御し、子爵家の財産を守ってくれるだろう。誠実で信頼のおける人物だ。
「ありがとう。では、行ってまいります。」
馬車に乗り込み、エミリーはかつての家を後にした。
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エミリーが目指すのは、カイルの屋敷。そこは子爵領の経済中心地に位置する高級住宅街で、商会の本拠地が並ぶ場所だった。
「お嬢様、着きました。」
ノアの声で我に返ったエミリーは、窓の外に目をやった。そこには立派な鉄製の門があり、その向こうには美しい庭園と石畳の道が広がっていた。手入れする金銭的余裕が無く、荒れ果てた子爵家の屋敷とは違い、手入れの行き届いた邸宅が堂々とそびえている。
門の前で馬車が止まると、すでに彼が待っていた。カイルは濃紺のスーツを身に纏っており、彼のミルクティー色の髪と濃い茶色の瞳に見事に調和していた。エミリーは再び見ることが叶ったその色彩にホッと一息をつく。
「エミリー様、お待ちしていました。」
「カイル、お久しぶりね。……ようやく来られたわ。」
「ええ、私も再会を心待ちにしていました。実は、待っている間にエミリー様を驚かせる準備をしておいたんです。」
「驚かせる準備?」
カイルはいたずらっぽく微笑み、エミリーに手を差し出した。
「ええ、それを案内するためにも、エスコートの許可をいただいてもよろしいですか?」
エミリーは微笑みながら手を差し出すが、カイルがその手を取る前に少し照れくさそうに言った。
「ええ、もちろんよ。けれど、その前に……これからは私のことは“エミリー”と呼んで。私はあなたの花嫁としてここに来たのだから、私たちは対等よ。」
頬を赤らめながらそう話すエミリーに、カイルは驚きつつもすぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「参ったな、……わかったよ。」
「では、我が花嫁エミリー、花婿としてエスコートの許可をもらっても?」
「ええ、お願いね、カイル。私の花婿さん……!」
“対等”という言葉を聞いたカイルは砕けた言葉遣いになりつつも、丁寧にエミリーの手を取り、彼女を馬車から下ろした。二人は手を取り合い、門を抜けて石畳の道を歩き始めた。庭には季節の花々が咲き誇り、整えられた木々が美しい陰を作っていた。
「この庭、とても素敵ね。」
「君を驚かせたいって言っただろう?君を迎えるために手入れしたんだ。綺麗なものが好きな君なら喜んでくれると思って。」
「フフッ、ありがとう、嬉しいわ。こんなに美しい花々を見たのは何年ぶりかしら。」
荒れ果てた子爵家に住み、社交の場に行くことも叶わなかったエミリーは心底嬉しそうに話した。
やがて二人は屋敷の玄関にたどり着いた。屋敷は豪華さよりも落ち着いた実直な雰囲気が漂い、玄関では8人の使用人たちが整列してエミリーを出迎えていた。
「改めてようこそいらっしゃいました。エミリー・フォン・ローデン様、いえ、エミリー。」
カイルがそう言うと、使用人たちが一斉に頭を下げた。
「さて、気になっているだろうし、まずは我が家の使用人たちを紹介しよう。」
カイルの声に応じて、執事が一人前に出てきた。彼は白髪混じりの灰色の髪に黒い瞳、眼鏡をかけ、落ち着いた物腰をしている。
「こちらが執事のグレイです。長年私に仕え続けてきた信頼の厚い人物で、屋敷や使用人の管理を任せています。何か困ったことがあれば、遠慮なく彼に頼んでください。」
グレイソンは深々と一礼し、極度に緊張した面持ちでエミリーを見つめた。彼の後ろに立っていた使用人たちも、全員緊張した様子で、視線を地面に向けている。
「お迎えできることを光栄に存じます、エミリー様。これからどうぞよろしくお願いいたします。」
その言葉が終わると、彼は一層深く頭を下げた。エミリーはその様子に少し驚き、緊張が伝わってくるのを感じる。
「ええ、こちらこそよろしくお願いね。私はこれから、この屋敷の女主人として頑張るつもりだけど、上手くいかないこともあるでしょう。その時は長年務めたあなたに頼ることになると思うわ。だから、よろしくね、グレイ。それと、どうか気を楽にしてください。私は、
領主の娘とはいえ、没落寸前の子爵家の二女。嫁ぐという名目で、あなた方の主人であるカイルの力を借りに来たのですから。」
その言葉を聞いたグレイソンや他の使用人たちは、少し顔を上げ、驚いたように彼女を見つめた。彼女の優しい声が彼らの緊張を少し和らげたようだった。
その中で、落ち着いた雰囲気を持つ女性が一歩前に出る。
「ご配慮ありがとうございます、エミリー様。私は屋敷の家政を取り仕切っております、クラリスと申します。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。」
「クラリス、あなたにも頼る場面がたくさん出てくると思うわ。その時はどうかよろしくね。」
「はい、ありがとうございます、エミリー様。何かご不便な点があれば、すぐにお知らせくださいませ。」
クラリスは微笑み、軽く一礼した。濃い茶髪をきっちりとまとめ、オレンジ色の瞳を持つ彼女は、しっかりとした口調と姿勢が印象的だった。しかし、クラリスの背後にいる他の使用人たちは、まだ緊張して身を固くしている。
「クラリスはこの屋敷の要です。彼女なしでは、私もこの家をうまく回すことはできません。」
カイルは冗談めかして笑ったが、使用人たちの表情は変わらない。エミリーはこの雰囲気に気づき、彼らを少しでも安心させるために声をかける。
「皆さん、どうかリラックスしてください。私は、皆さんと仲良くなりたいと思っています。」
その言葉に、使用人たちは一斉に顔を上げ、驚いた表情でエミリーを見つめた。彼女は続けた。
「この国での身分は絶対であり、貴族に粗相をすれば平民はすぐに処罰される……恐れる気持ちも分かります。ただ、私が求めているのは互いに助け合う関係です。私はあなた方に理不尽な行いはしないと誓います。どうか、この屋敷に迎え入れてくれませんか?」
使用人たちは、驚きの表情で彼女を見つめ、彼女の優しさに感謝するように頷いた。
その後、カイルが続けた。
「次に紹介するのは、食事担当のカシューです。彼は料理に関して非常に腕が立ち、私たちの食事を担当しています。」
すると、若い男性が前に出てきた。彼はまだ緊張した様子で、深く頭を下げた。
「エミリー様、お迎えできて光栄です。どうぞよろしくお願いいたします。」
「よろしくね、カシュー。美味しい食事を楽しみにしているわ。」
「はい、頑張ります!」
アレックスの明るい声に、周りの使用人たちも少し緊張が解け、微笑みを浮かべるようになっていた。
それを見たカイルは、エミリーに向かって再び言った。
「さあ、屋敷を案内しよう。これから君の新しい家だ。」
エミリーはカイルに手を引かれながら、屋敷の中に足を踏み入れた。内部は貴族の邸宅によく見られる華美な装飾とは対照的で、壁は温かみのある木材で覆われ、シンプルで落ち着いた色合いの家具が並んでいる。豪華なシャンデリアや金箔の彫刻はなく、その代わりに上質な布地や洗練されたデザインの調度品が目を引いた。
「ここは、かなり実直な作りにしているんだ。無駄な装飾は好きじゃなくてね。実用性と落ち着いた空間を大事にしている。」
カイルが説明すると、エミリーはふと微笑んだ。
「私もこの方が好きだわ。子爵家の屋敷は華美な装飾が多くて、少し落ち着かなかったの。こうして落ち着いた雰囲気の方が、心が安らぐわね。」
カイルも微笑み返しながらうなずく。
「そう言ってもらえて嬉しいよ。ここは君の新しい家だから、何か気に入らないところがあればすぐに言ってほしい。」
「ありがとう、カイル。でも、ここはすごく気に入ったわ。もうこの屋敷にいると、落ち着いて過ごせそうな気がしてくる。」
その言葉を聞いて、カイルはほっとした表情を見せた。エミリーはこの新しい家での生活が、すぐに馴染んでいくと確信し始めていた。
この作品では、エミリーは子爵夫妻のことを“両親”とは言わず、父母or子爵夫妻と言います。冷遇されてたのもあって、“親”とは呼べないんですよね……子爵夫妻の名前は考えたくもないので、登場する予定はありません。
今回、視点を三人称に変えてみました。どちらがいいかな?(感想の仕様変更になったので、一言だけでもいただけると嬉しいです!)
それと、更新遅れてしまい、申し訳ありません。(今月は1日10.5h勤務のアルバイトが沢山入ってしまっているため、数日空いての更新になります。どうかご容赦を……)