閉ざされた扉
わたくしには昔の記憶がありません。
目を覚ましたときには知らない場所にいて、知らない人に囲まれて、知らない名前を呼ばれました。
しかし、それでもいいと思っています。だってオリーブの枝の皆さんは優しくて、施設長のタンドレーも親身にわたくしの話を聞いてくれていましたから。
皆さんと共に過ごす日々は穏やかで、とても居心地の良いものでした。だからこそ、わたくしも誰かにその暖かさを感じてもらえればとシスターになり、今に至ります。
時折記憶を飛ばしてしまうことには、皆さんに迷惑をかけてしまうので少し思うところもありますが、それでも平穏に日々を過ごしてきました。少しでも皆さんの役に立とうと、強くなるためにダンジョンの攻略を目指しました。
それはシスターとしてあるまじき姿だったのでしょうか? だから、このような事態になったのでしょうか。
もしもこれがわたくしへの罰だというのなら、どうかわたくしだけにその裁きを下してほしい。そう願いながら孤児院の中に運び込まれた、怪我をしてしまった人々に回復魔法をかけ続けました。
エスカさん達が出発して結構な時間が経っています。彼らと冒険者の方々のおかげで、まだここには魔物が来ていません。彼らが無事であればいいのですが……そう願いながら回復魔法を唱えます。
「ありがとう、シスターさん。楽になったよ」
「これがわたくしの使命ですから。しかし、皆さんを回復させるために一人一人を回復しきることはできません。どうか暫くは安静になさってください」
わたくしの回復魔法である程度の怪我が治り、疲れた様子でありながらも笑顔を見せる皆様を見ると、重苦しい胸の辺りが少しばかり軽くなるようでした。
それでも窓から見える崩れた建物を、そして立ち上る黒い煙を見る度、酷い頭痛に襲われます。ズキズキと頭の奥底が痛んで、チカチカと視界に何かが重なるような感覚。
深い深い記憶の底で、何かが蠢いているような……思い出してはいけないと、何かがわたくしの中で叫んでいるような。
今はそんな状況ではないのに。この場所を守るため、わたくしがしっかりしなければならないのに。自然と杖を握る手に力がこもります。
ガチャリと音がして振り向けば、タンドレーが立っていました。彼も疲れているはずなのに、様子を見に来てくれたようです。部屋の中を見回すと、彼はホッとした様子で微笑みを浮かべました。
「オリヴィエ、ありがとう。回復魔法を使える人もポーションも足りなかったから、助かりました」
「わたくしの回復魔法で治せる範囲でしたので、どうにかなっています。タンドレー、貴方も休んでください。顔色が良くありませんよ」
彼はずっと気を張り続けていて限界なのでしょう。茶色い髪はボサボサになって、メガネの向こうの青い瞳には疲れが滲み、以前会った時よりもかなりやつれているように見えました。困ったように笑った彼は「子供達を放って休むわけにはいかないですから」と子供達の元へ戻ろうとします。
その時でした。それまで静かだった辺りが、奇妙な鳴き声で満たされていったのです。
「まさか魔物が……!?」
杖を構えて孤児院の外へ出ようとした時。震える子供達が視界に入りました。
怯えた様子の彼らの頭を撫で、そっと抱きしめます。
「オリヴィエ姉ちゃん……」
「大丈夫。大丈夫です。お姉ちゃんがどうにかしてきますから……皆さんはじっとしていてくださいね」
「う、うん」
ぽんぽんと彼らの背を軽く叩き、そっと体を離しました。正面の扉を開け、外に出た時……目の前に広がる光景に、自分の目を疑いました。
無数の魔物達がこちらへ歩いてきています。ゴブリン、オーク、コボルト、スライム。その上位種達も含めて、数えることもできないほど様々な魔物が一斉に集まってきていました。
「どうして、こんなに魔物が……」
呆然と立ち尽くす中、背を嫌な汗が流れていきました。ここに魔物がいるということは……皆さんは、エスカさん達はどうなったのでしょう?
そんな、まさか。あるはずがありません。皆さんはあんなにお強いのですから、いくら数が多いといえども簡単に負けるはずがない……そうに決まっています。
「……魔物さん方。どうか、どうか引いてくれませんか」
杖を強く握りしめる。
魔物に言葉が通じないことなんて、もう分かっています。それでも言わずにはいられませんでした。
孤児院の中には子供達と、まだ完治していない冒険者さん達。とても戦わせることなんてできません。わたくし一人で、ここを守りきらねばならない。強いプレッシャーが、ずっしりと肩にのしかかります。
「わたくしがお相手しましょう」
杖を構え、手足に魔力を集めます。たくさん回復魔法を使いましたから、魔力残量は心許ないですが……そうも言っていられません。
ここでわたくしが倒れれば、孤児院にいる皆さんを危険に晒すことになる。そんなことは到底許してはならないことですから。
「はああっ!!」
少しでも魔力は温存しなければなりません。魔力が切れたときがわたくしの最期。ですから、防御魔法はかけずに身体強化も最小限で済ませます。きっと今わたくしがするべきは、この魔物達を殲滅することではありません。今もどこかで戦っている皆さんが戻ってくるまでの間、ここを守り抜くことですから。
それでも数は減らしておくべきでしょう。比較的簡単に倒せるスライムやゴブリンをメインに、各個撃破していきます。手に伝わる衝撃がいつもより強いのは、いつもより弱く身体強化をかけているからでしょうか? それとも疲れからくるものなのでしょうか。
できるだけ温存を。そう思って動いていても、限界はいとも簡単に訪れました。ぐにゃりと視界が歪み、倒れかけた体を地面に杖をついて支えます。もうほとんど魔力が残っていないようです。でも、それでも、まだ。
「わたくしは……まだ、倒れるわけにはいかないんです」
少しよろけながらも、二本の足でしっかりと立ちます。近づいてくる魔物達に向かって杖を構えました。
エスカさん達と共に旅をする中で、少しずつ何かを手に入れているような気がするんです。とても大切で、あたたかい何かを。
それが何なのかは分かりません。それでも、リーファさんが読んでくれる絵本が、ケイトさんが作ってくれる料理が、レイスさんが淹れてくださったお茶が、そして皆さんで見せ合った絵が、皆さんと作った料理が。たしかにわたくしの心を震わせるから。
だから、もっと一緒にいたいと思うんです。共に歩む貴方達の目に宿る星々が色褪せないようにと願っているのです。そのためにはこんなところで止まっているわけにはいきません。こんなところで、倒れるわけにはいかないんです。
たとえ目の前に立ちはだかる魔物が、わたくし一人では倒せないオーガだったとしても。
振り上げられた金棒を杖で受け止めます。ギリギリと互いの力が拮抗する中、すぐに均衡が崩れました。
「ッ、きゃあっ!!」
吹き飛ばされたわたくしは無様にも地面を転がり、力の入らない体は起こすだけでも一苦労でした。その間にも見上げるほどの屈強な巨体が迫ってきています。
早く、早く立ち上がらないと。こんなところで死ぬわけにはいかないのですから。
早く。早く。早く!!
けれども、体は思った通りに動いてくれませんでした。立ちあがろうとした足はバランスを崩し、また座り込んでしまうのです。
ああ、どうしましょう。もうすぐそこまでオーガが迫ってきています。これでは逃げることさえままなりません。
ここで、終わるのでしょうか。皆さんを守ることもできないまま、ここで。
霞んできた目を閉じかけた時、切羽詰まった声が耳に届きました。
「オリヴィエッ!!」
ガンッ、と。鈍い音がして、重たい何かがわたくしにのしかかりました。
タンドレーが。私を庇うように、覆い被さっていました。
「タンドレー……?」
震える手を伸ばします。彼の頭に触れると、ぬるりと温かい液体が触れました。真っ赤に染まった手を見て、息を呑みます。
どうして彼がここに? どうして、わたくしを庇って……どうして、どうして、どうして。
ああ、町が燃えている。わたくしは知っている。覆い被さる温かな体を知っている。その体からゆっくりと熱が失われていく感覚を、知っている。
でも、一体どこで?
ああ……頭が痛い。割れるように、痛い。
「い、いや……いやぁッ! タンドレー、タンドレー!! 死なないで、お父さん……ッ!!」
彼の肩を掴み、体を起こさせます。荒い呼吸を続ける彼は意識が朦朧としているようで、焦点が定まらない目でわたくしを見ました。
「オリヴィエ……無事、ですか」
「どうして、どうして外に……貴方は戦えないのに、どうして!!」
「娘一人を……危地へ向かわせるわけ、には……いかないでしょう……?」
小さく笑った彼の体から、ぐったりと力が抜けます。ああ、どうして。どうしてこんなことに。
わたくしには何も出来ないのでしょうか。わたくしが皆さんを守ることなど、初めから。こうしている間にもオーガはわたくし達を潰そうと腕を持ち上げているのに。
きっと勝ちを確信しているのでしょう。まるで嘲笑うかのように、ゆっくりと腕を持ち上げているオーガの目はうっそりと細められていました。
ああ、世界がゆっくりに見えます。今まさに、金棒を持つ手が振り下ろされようとしている。立ち上がることもできないわたくしは、必死にタンドレーの体を抱きしめて、杖を持ち上げようとしました。でも、もう腕を上げることさえできないようです。
死を覚悟した瞬間――オーガの胸から、赤い液体が噴き出しました。突き刺さった刃が、そのままオーガの肉を切り裂きます。
地面に伏したオーガの向こう、短剣を構えて肩で息をしているその人は……わたくしを見て、安堵の笑みを浮かべました。
「遅れてごめん、オリヴィエ」
背を向け、魔物と対峙する彼が、彼の隣に並び立った仲間達が、あまりにも眩しくて。
ああ、きっとこれが救われるという感覚なのだと。
その日、わたくしは神と並び立つほどの光を見たのです。




