094 突入
✳
――『現場監督』から伝え聞いたこの、【マンティコアの涙】という薬の使い方は様々らしい。液体の形をしているので、初心者は大概飲み物や食べ物に入れて摂取する。慣れてきた者は、直接飲み下すか注射器に入れて血管に注入する。後者の方がより効果が現れる可能性が高く、そして快感も強い。
(美味しい話だよなあ)
男は地元の売人だった。
普段は危険魔法薬なんてリスクの高いものを捌く訳ではなく、単に質の悪い麻薬を下層民に売りつけて小銭を稼いでいるだけの小物だったが、共和国に市場を持つ魔法薬がアルフィリアに流れ込んできたという話に乗っかったのだった。
何せ、この仕事のケツ持ちはあの芸術家だと言う。支部の色にもよるが、基本手堅い商売をする巨大組織だ。
厳しい規制が敷かれる魔法大国アルフィリアで魔法薬を売ろうとするのだ、余程の勝算があるのだろう。男の自慢は金の臭いを嗅ぎつける鼻だった――ビジネスを手伝うだけで、それなりの大金が手に入る。うまくいけばかの巨大マフィアの人間と顔を繋げる。
「あはははっ」
「やだあ」
目の前では、地元でよく顔を見掛けるお貴族様が虚ろな目で笑い合っている。
客としてここに来はじめたばかりの頃は仮面をつけたり変装をしたりして慎みがあったものだが、今はその影もない。普段ふんぞり返っている領主一族の者やその取り巻きたちも、いまや快楽を追い求める浅ましい獣達だ――なんともおかしな話である。
薬に手を出す者には阿呆しかいない。
薬の売人であるからこそわかる。
男が任せられた仕事は『現場監督』の雑用だ。この小汚いジャズ・バーの奥の奥で繰り広げられる酒池肉林の場で、ギャルソンのような真似をしていればいい。
要は、欲しがられたら提供するのだ。
(……にしても、品物が危険魔法薬って話も何というか、アレだな。嘘っぱちかもしれない)
危険魔法薬というのは、麻薬と同じく毒性と依存性があるだけでなく、魔法力を底上げする効力もあるもののはずだ。
しかし目の前の彼らを見ていると、とても魔法力が向上しているとは思えなかった。
……無論、ただ打率が悪い粗悪品を売りつけているだけなのかもしれないが。
なにせ、こんなちんけな貧民街でのちんけな商売だ。どこの支部がやっていようと、実験くらいにしか思っていないだろう。
「ちょっといいかしら」
「はい、レディ」
声を掛けてきたのは仮面の女だった――否、少女と言えるような年頃かもしれない。しかし、少女のものとは思えないような、妖しい色気が彼女を包んでいた。
脚のラインに合わせたドレスには大胆にスリットが入っており、白い太腿が覗いている。なんとも扇情的なデザインだ――仮面の奥のラピスラズリの瞳と、まとめあげられたつややかな黒髪、その合間から見え隠れするうなじがひどく艶かしい。
こんな少女のような女も薬に手を出しているのか。
世も末だなと思いつつ、男は笑った。
「お求めは?」
「燃える獅子のカクテルを」
かしこまりましたと答える。【マンティコアの涙】――とされている薬――を甘い酒に溶かした飲み物のオーダーだった。一礼してバーテンに声をかけ、飲み物を用意してグラスを渡す。
女はすん、とグラスの中の液体の匂いを嗅いだ。
そして、妖しく笑んだ。「ありがとう」
「これで決まりだな」
は? と思う間もなかった。
少女は仮面を脱ぎ捨てると、地面に叩きつけた。敷いてあったカーペットのお陰で音はしなかったが、その次は違った。彼女は仮面を、ヒールのかかとで思い切り叩き割ったのだ。
仮面の下からは、怜悧な美貌を備えたかんばせが顕になった。深い青の瞳に燃えていたのは、底知れない怒り。恐ろしく冷えたそれは、憎悪にも似た瞋恚である。
そして、彼女は叫ぶ。
「――突入だ!!」
瞬間、雪崩込んで来たのは憲兵の群れだった。
我々にとってはあまり見たくないその制服の奴らに紛れて、重大事件にしか関わらないような近衛騎士隊の制服を纏った騎士がいるのがわかった。
(いったい、何があった……!?)
逃げ惑う『客』を唖然と見ていると、やがて憲兵に腕を拘束された。抵抗する暇もない早業――いや、呆然としていて近づいてきたことにも気が付かなかったらしい。
少女はグラスを持ったまま冷ややかにこちらを見ていた。道端で死んでいる不快な羽虫を睨み下ろすとしたらこんな目になるだろう、と思わせる。
「まさか内部まで入り込めると、ここまで突くのが簡単だとはな。証拠は手に入ったのか、ティア」
「簡単だったよ、レイン」
「……」
「おい、お前から言い始めたんだろうが」
後ろから現れたのは、近衛騎士隊の制服を纏った金髪の少年だった。凛と整った顔立ちは貴族然としている。
彼と親しげにしているということは、黒髪の少女も騎士団関係者なのか。――むしろ、こちら側の空気がしているように思えるのに。
少なくとも、少年が相手なら、オーダーをされたところで自分は怪しんだろう、と思った。
この黒髪の少女に頼まれたから、男は『ドリンク』を渡してしまったのだ――。
「それより……なんなんだその、品のないドレスは……。貴族の娘が足をみだりに見せるな」
「ほー? まさかお前、こういうのが好みなのか」
「断じて違う。妙なことを言い出すなこの馬鹿」
軽口を叩き合う二人を前に、その場にいたものたちがどんどんと連れていかれる。少女に渡したグラスを憲兵が受け取ったのを見て――終わりなのだ、という事実が胸に落ちた。
終わりなのだ。
本当に。
(どうしてだ? 外は厳しく警備されていたはず。アルティスタの手引きがなければ中には入れない、潜入なんてできっこなかったはず……!)
――まさか。
内通者がいたのか。
そういえば――『現場監督』の姿が見えない。
彼はどこだと問おうにも、あの現場監督の名も知らない。
(まさか……)
男は青ざめ、何かを言おうとした。
しかしそれよりも先に、少女が前に進み出て言った。
「お前が何かを知る必要はない」
「……!」
「罪に見合った罰を受けろ。罪を犯した者がすべきことは、それだけだ」
――怒りの言葉であるようで。
それはまるで自戒のようでもあったけれど。




