092 炙り出し
焚かれた香の匂いで目を覚ます。
甘い花の香り――確かこの香は弱い気つけ効果のあるものだ、と、そこまで考えたところで、完全に意識が覚醒した。訳も分からぬまま上体を起こせば、がん、と殴られたかのような痛みが頭を襲う。頭を押さえ、呻く。
頭を動かさずに周囲を見渡せば、そこは簡易だが木の椅子と卓が用意されている小部屋だった。打ちっぱなしの壁には窓はなく、しかし部屋には客人を迎えることができるように体裁を整えた扉がある。……つまり少なくとも牢ではない。
どうやら自分はその端にある簡易的な寝台に寝かされていたようだった。布が敷いてあるだけの寝台は寮のそれとも実家のそれとも質が全く異なり、クロードだった時を思い出す。
「……ここは……」
「あれ、もう目が覚めた感じ? 意外と早かったな。出されたの一気飲みしてたのに」
声ともに、顔を見せたのはヘルだった。
どうしてここにヘルが。私はアレンを助けようとして、それで危険魔法薬のせいで気を失って……。それからどうなった?
いや、この『アビス』での魔法薬取引を実質的に取り仕切っていたヘルがここにいるということは、ここは『アビス』の中か、あるいは――。
「安心しろよ、アルティスタの南部支部の建物とかじゃあねーから」
こちらの顔色が変わったことで、私が何を考えているかに気がついたらしい。ヘルが歌うように言う。「お前さあ、薬飲んで違う意味でトびかけて気絶して……あ、いや違うか。仲間に気絶させてここに運ばれてきたんだよ。スゲーねさすがに」
「……ジークレインが」
「普通一回魔法力の暴走が起きたらそのまま発狂して正気を失うのになー。そしたら操りやすい人形になるって話なのに、まさか発狂する前に無理やり意識を落とさせるお姫様がいるとはね。笑うってこんなん」
「人形……? いや、それより」どうにも気になる言葉が聞こえてきたが、それよりも先に気にするべきことがある。「……そのジークレインと、うちの隊長殿はどうした。ここはどこで、あれからどれくらい経った?」
「質問が多いな。しかも一気に聞かずに一つずつにしてくんねーか――」
「クローディア、目が覚めたのか!?」
「おっと、質問一個目の答え」
ヘルが茶化すように呟く。
――どこか慌てた様子で、金の髪を風に散らさせながら部屋に入ってきたのは、確かにジークレインだった。顔色は悪くなく、体調に変調を来している様子は見られない。……無事なようだ。
「ああ。なんとかな。……さっきは、その、悪かった」
「……そんなことは別にいい。俺たちは仲間だろう。そんなことより体調は大丈夫なのか。あれから二刻も立ってない、薬がまだ抜けきってないだろう」
「二刻……」
短いようで長い。
アレン小隊が想定していた作戦に使う時間よりも遥かに長引いてしまっている。……本隊に不審がられ、追加の騎士が派遣されるのも時間の問題といったところか。
「……とにかく、無事で良かった。酷い顔色でピクリとも動かないものだから……」
「あ、ああ。今はそこまで不調はない」
ジークレインは明らかに安堵している様子だった。こいつが殊勝な態度を見せるのは珍しく、やや狼狽えてしまう。
心配されることがない訳ではないのだが、いかんせん無茶を叱責される記憶の方が強くて、しおらしいジークレインを見ると動揺が隠せない。
「あー、その。お前はなんともないのか? 隊長殿は……」
「隊長は……まだ予断を許さない。命に別条がないとは言えない状態だ。アグアトリッジの命を握られていなかったら、それからお前が倒れていなかったら即帰還していたさ」
「そうか……悪いな」
「それで、俺の事なら問題ない。不思議な話だがな。多少おかしな感じはあるが、体調に大きな変化はないんだ」
「……それは、よかった」
――が。
気にはなる。
なぜならこの取引で主に出回っているのは、【マンティコアの涙】なのだ。
普通の【マンティコアの涙】であれば、魔法力を持っている者は例外なくその影響を受けるはずである。……無論、粗悪品と良質か薬で効き目や副作用の重度も変わってくるわけだが――恐らくではあるものの――同じ薬を使われて、ここまで体調に違いが出るのはおかしい。私の身体が少女のものだからということはそこまで関係しないはずだ。ジークレインとてまだ十六歳、未熟な少年の身体なのだから。
だとすれば。
「……おい」私はヘルに視線を向けた。「確かさっき、お前は私が早くに回復したことに驚いたようだったな」
「まぁ、確かに意外だったかな」
「だがどうしてジークレインがピンピンしていることには何も言わない」
「……」
ヘルは笑みを崩さない。
私は目を細めた。こめかみに汗が伝う。
――水面下で、何か大きなことが蠢いている予感。
「驚いていないのは……予想がついていたからか? たとえば……そうだな、ジークレインはお前の目の前で火魔法を使っていた。アグアトリッジの腕が切り落とされた時に、奴の止血をしてやるためだ」
「……クローディア? 一体何の話を」
「乱暴な推測ではあるが、ヘル。お前の様子からはこういう可能性が挙げられる」
すなわち。
ここで出回っているのは、【マンティコアの涙】ではない。
なんだって、とジークレインが目を見開く気配がする。ヘルが愉しげに口の端を引き上げる。
「……顧客にニュービーの下級貴族が多いなら、薬の善し悪しも大してわからないだろう。効能も、粗悪品ならこういうものかと思ってしまう。誤魔化すことは難しくない。顧客が【マンティコアの涙】について詳しい情報を持っていないんだからな」
「前置きがなげーな。結論は? クローディア・リヴィエール」
「この危険魔法薬は四大魔法の使い手には大して効かない。悪影響もよい影響もあまりない。……いや、その表現は正解じゃないな。つまり、
――この薬は、闇魔法の使い手のみに効くんだ」
私はヘルを睨みつけた。
この時期に、アルフィリア南部支部が、おかしなことを企んでいたことなど、知らなかった。前にもあったことなのだろうか。
いや、それよりも。
「闇魔法の使い手を炙り出して、お前たちは一体、何をするつもりなんだ」




