087 右腕
ヘルがこちらを見た。
まるで初めて私を、真にその目に捉えたかのような反応だった。闇を思わせる漆黒の瞳を円く開かせ、じ、とこちらを凝視する。
「……どういう意味だ?」
軽い口調の問いではあったが、心の奥底まで抉るような鋭さと冷たさがあった。
――そうだ。『クロード』はお前のその、重苦しいまでの憎悪を、革命軍に相応しい気概だと考えていたのだ。
「言葉の通りだ。……お前が所属しているのはアルティスタ・ファミリー南部の支部だろう。どうしてそんな掃き溜めのような支部に所属してる? 組織の作りにしても下部構成員が成り上がるにも最悪の環境のはずだ」
「どうしてお前がそんなことを知ってる」
「簡単だ」据わった目をしたヘルの前で、私は口端を吊り上げた。「――お前はサーシャ・デイヴィスを知っているような口ぶりだった。あの女……に成り代わっていた『誰か』がアルティスタ・ファミリーの所属であったことはとあるスジから耳にしていてな」
いいか、と言う。
「アルティスタ・ファミリーは支部によってそのしのぎの形態が異なる。派閥争いもきつい。規模にしては国ができそうな勢いの世界的な組織であるから当然だな」
しかし、アルティスタ・ファミリーはマフィア――犯罪組織とはいえ平均的にはある程度の治安を守っている。かつて私が所属していた帝国支部は平均に近い。暗殺者・傭兵集団だが危険魔法薬を売りさばくことはないし、基本的には堅気に手を出すこともない。
ただアルフィリア南部の治安の悪さは組織内でも有名だった。人身売買、危険魔法薬・武器密造、密売、殺人、誘拐、賭博、拷問――そして度のすぎる報復と、下部構成員の搾取の峻厳さ。
「私の知る限り、このあたりの裏社会で活動している支部のうちで違法な危険魔法薬を売りさばくような劣悪な支部はアルフィリア南部で間違いない」
「――だから、」
首に当てられた刃が、肉に僅かに食い込んだ。ピリとした痛みが走ったが、それは肌を浅く傷つけただけで、太い動脈には届かない。
「どうしてお前がそんなことまで知ってんだよ」
「……どうして、とは?」
「貴族のオヒメサマがそこまでうちのことに詳しいなんておかしいだろうが」
底冷えするような低い声。
たしかに、それはそうだろう。一介の伯爵令嬢が、貴族の娘が、アルティスタ・ファミリーの内情に詳しいなど、普通に考えて有り得るはずがない。
――だからこそ賭けだ。
ヘルを敵に回したくはない。あわよくばこちらに引き入れたい。
そもそも、予想以上に身体に薬が回っているこの状態で立ち回ることは避けたい。微量とは言え魔法薬を摂取したジークレインも万全とは言い難い。
何より、ヘルは。
(お前は私のものだろう)
――この『俺』の右腕だ。
どこぞの馬の骨の下に付き、下っ端として悪辣に笑っているなど、許せるはずがないだろうが。
「ハ」
私は笑った。
「おかしいか」
「おかしい。何者だ、お前」
「――おかしかろうがそうでなかろうがどうでもいいことだ。私はお前が身を置く組織を知っている。それが事実で、現実だ」
嗤い、視線だけ背後を振り返る。
「なあ、満足か、そこにいて」
「……、ア?」
「弱い下部構成員から搾取して私腹を肥やす糞が頭の組織にいて満足か? ……貴族を憎んでいるんだったな。危険魔法薬を売りつける酒場で、私たちのように潜入してきた近衛騎士隊の隊員を捕らえて好き勝手拷問することができれば、地方貴族のドラ息子を薬漬けにして破滅させられることができれば、お前の胸はすくのか?」
「――テメエ、」
「ここにいるのがお前の復讐か!?」
声を、張り上げる。
横にいたジークレインが目を剥いて身動ぎしたが、何かを言うことはなかった。その代わりに、説明しろ、と鋭い視線をこちらに向けている。……何も言わないということはある程度は見守るだけに留めてくれる、ということだ。
信頼されている、と思う――かつて、親友で好敵手であった頃を思い出し、こそばゆい。
「私なら、お前を退屈させない。鬱憤を溜めさせもしない。
――私に従え。アルフィリア南部の支部なんぞで燻ったままのつもりはないんだろう?」
そうだ。
お前をこの世で一番うまく使えるのは、私だ。
他の、誰かではない。
「……何を意味の分からないことを。状況わかってんの? お前」
「わかってる」
「そうは思えねーけどね。……なあ、アンタ、今の聞いた? このオヒメサマ、盛大におかしな命乞いを始めたけど、これってアンタらへの裏切りじゃねえの。薬の取引にいた用心棒に、私に従え、だとさ。何を企んでんのか知らねえ?」
声を掛けられたジークレインが、やおら顔を上げた。
ジークレインは不機嫌そうに顔を歪めていた。どこを見ているのか定かではない血赤の瞳が、しかし、鋭く強く光っている。
「……たしかにクローディアは秘密主義で、しかも時折意味が分からないことを言い出す。初対面のはずのお前に何やら親しげにしている理由もさっぱりだ」
「俺もさっぱりだよ」
「だが。
彼女がフェルミナを――いや、オレたちを裏切ることはない」
――戻ってこい!
きっぱりと告げたジークレインが、かつての戦場で私に言った言葉を、思い出す。
そうだな。
お前はいつだって、私のことを『信じてくれていた』。
――明瞭に告げられた言葉に、ヘルがやや目を丸くした。そして首に強く押し当てられていたはずの刃が、僅かに離れる。
「おい、何してる……! 早く殺せ!」アグアトリッジが吠えた。「今すぐにやればさっきの暴言はなかったことにしてやる!」
「……、」
一瞬の間があって、
私たちの首から刃が離れた。
そして、刹那、短剣の鈍色と――鮮血の赤が、閃いた。
「え、?」
呆然、と、アグアトリッジが剣を取り落とす。
どしゃりという重い音と共に、アグアトリッジの右腕が、床に落ちて跳ねた。
ジークレインが息を呑む。同時に、私も目を見開いた。
「ああああああああああああ!」
「――うるせえな。死んだわけでもねーのに」
アグアトリッジの絶叫を背後に、はは、と、軽く笑ったヘルが、こちらを向いた。
そして、言う。
「少しアンタに興味が湧いた。少しなら時間がある。話、聞かせろよ――クローディア・リヴィエール」




