085 ヘル
その男は、ヘル、という名だった。
ヘル。言わずもがな地獄を表す言葉である。口減らしのために親に捨てられた彼には、親につけられた名はなかった。故にそれは、彼が彼自身に付けた名前だった。
――この地獄のような世界に生まれた。
それに意味を見出すために、ヘルは幼少の頃からヘルだった。
『なんで貴族の息子なんかがここにいやがる』
私――否、『俺』と奴が出会ったのは、俺が第二の師であるアイに師事し出して然程時間が経っていない頃のことだった。ヘルはアルティスタ・ファミリー東の帝国支部の、つまりはアイの部下だった。……無論、幹部であった訳ではなく、ヘルはただの末端の構成員だったのだが。
年は『クロード』と同じ。出身はアルフィリアの貧民街。
『クロード』は近衛騎士隊出奔後こそ生活するに苦しみ、明日の食にも困る日々を送りながら貧民街の暮らしや貴族と平民の格差を目の当たりにしたが、ヘルのそれとは比べるべくもない。ある貧民街では7つまで生きることができれば僥倖とされる、という。これが貴族ならば、跡目争いや流行病でもなければ幼くして死ぬことなどほとんどない。
『お前が本当に哀れんでんのは何なんだよ。死んだ姉貴か?フェルミナって女か?不遇な生活を強いられるこの国の子どもたちか?
――それとも、愛する人間を失い、苦しみの中で憎悪を募らせて生きている、かわいそうな自分か?』
……姉や最愛の少女を失い、泥を啜って生きてきた。そう思っていた。
この憎悪は誰にも劣ることはない――そう思ってアルフィリアへの憎しみを募らせていた『俺』にとって、ヘルの存在は衝撃的だったのだ。
『クロード・リヴィエール。お前は、貴族だろ。幼い頃に動かなくなった兄弟が埋められるのを見送ったことも、飢えたことも、乾いたこともない。
お前は、俺たち平民の、虐げられてきた貧民の苦しみと怒りを代弁するという。
……本当に、お前に俺たちの怒りを代弁なんてできるのか?』
――今思えば。
ヘルとの出会いは、革命家にして戦争犯罪人『クロード・リヴィエール』ができ上がるための初めの足がかりだったように思う。
半端な気持ちで誰かを憎むこと。大義を掲げること。そんな状態で革命を口にしようと、それは空虚で、中身のない駄々に過ぎないのだと、ヘルと話してようやく気がついた。
貴族として。
名門リヴィエール伯爵の息子として。
愛する者達を奪われた人間として。
反逆者として。
王国最強の弟子として。
……ヘルがいたからだ。ヘルがいたから、俺は、
この国を変えるために、全てを擲つ覚悟を決めたのだ。
ヘルは本当に、心から、この歪んだ国を正そうとしていた。無垢なまま、意味もなく死んでいく貧しい子どもたちを救おうとしていた。……革命が成らない可能性も、その果てに自分の死があるやもしれないことも、全てを承知の上で。
『お前が王だ』
――革命戦争開戦前夜、ヘルは笑顔でそう言った。
『この国を変えよう』
『不幸な子どもをこれ以上生まないために』
『俺たちの手で、腐りきったこの国を一度灰にするんだ』
ヘル。
憎悪に飲まれてなお、誰かのために変革を願った俺の共犯者。あの後――クロードの死の後、お前は間違いなく死んだだろう。
俺は――私は犯罪者。戦争を引き起こし、数多の無辜の民を犠牲にした大罪人だ。しかし、あの革命戦争の全てが間違っていたとは思えない。貴族の在り方は歪み、誇りを持って家紋を掲げる貴族はほんの一握り。格差は間違いなくこの国に横たわっている。……それは事実だ。
しかし、否、だから。
……だからこそ。
お前をその死の運命から、解放してやりたいと、そう思うのだ。
*
「――どこに連れていく気だ」
「楽しいトコ」
暗器を突きつけ私達を歩かせながら、ヘルはまるで歌うように言った。当然ではあるが、記憶の中の姿より随分若い。
ヘルはほんの子供の頃からアルティスタ・ファミリーに所属していたと聞いている。帝国支部では危険魔法薬の売買に手をつけていないはずなので、恐らく今は他の支部の末端に属しているのだろう――アイの目を欺くことは誰にも出来ない。
「……思ったより広いな」
裏手に回るのかと思えば、店の奥には地下へ繋がる道があった。地下室そのものは広くないが、取引に使う場所としては地下のスペースは丁度よかろう。
ふうん、と呟いたヘルが目を細めた。
「あんたなかなか肝が据わってんなあ」
「……お褒めに預かり光栄だ」
「近衛騎士隊が女を使ったって聞いて首を捻ってたけど、あんたを見て少し納得したよ。貴族のオヒメサマごときに何ができるのか疑問だったけど――」
あんたはお姫様ってタマじゃあなさそうだ。
そう耳元に、低められた声で囁かれる。
その通りだ、と胸中で呟いた。私の本質は令嬢などでなく、大罪人だ。
そしてこのまま行けば、きっとお前は『前』と同じように革命に殉じて死ぬだろう、とも。
たとえ、お前の傍にクロード・リヴィエールがいなくとも。
「……いいザマだな、リヴィエール、イグニス」
出し抜けに。
聞き覚えのある声が耳に届いた。
地下通路。正面から歩いてくるその男の顔を見て、目を細める。やはりか、と思った。
……暗がりの中でも、その男が歪んだ笑みを浮かべていることはよくわかる。
そう。
全身に重い血の匂いを纏わせた、ウィンダム・アグアトリッジがそこにいた。
大幅推敲を予定しているため、次回更新はやや遅れるかもしれません。
(この作品自体の流れを変更するか、推敲バージョンを他に作るかも未定です。ただ恐らく推敲後バージョンは分けるかと思いますので、この作品の更新はそのまま継続すると思います。
これからも更クロをよろしくお願いいたします。)




